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■13011 / inTopicNo.73)  経験、経験、Erfahrung ・・・
  
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 13:31:14)
    中山元は『純粋理性批判』中山元訳1、p.275で第二版序論の冒頭文「わたしたちのすべての認識は経験とともにはじまる ( Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange )」を、ロックにはじまるイギリス経験論の結論だとのべる。

    中山によれば、ロックは当時の、神や善悪の観念などが人間に生得的にそなわるものだという常識に対し人間には生得的な観念など存在しないと主張した。ではそうした観念はどのように人間(の「心」)にやどるのか?人間の「心」が白紙であると考えるロックによれば、それは「経験から」である。

    後代のカントは、ロックの上の主張に限定的に同意する。つまり、
    「すべての認識が経験 −から− 生まれるわけでない」と。

    これは経験以外のものから生まれる認識(Erkenntnis/knowledge, cognition)があるということなのか。私にはまだわからない。

    >Wenn aber gleich alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anhebt, so entspringt sie darum doch nicht eben alle aus der Erfahrung.<

    >しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験でもって[mit]始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験から[aus]発するのでは必ずしもない。<
    →原佑訳上巻、p.78、[]内は私が挿入


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■13012 / inTopicNo.74)  Re[20]: 経験、経験、Erfahrung ・・・
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 14:37:38)
    >中山元は『純粋理性批判』中山元訳1、p.275で第二版序論の冒頭文「わたしたちのすべての認識は経験とともにはじまる ( Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange )」を、ロックにはじまるイギリス経験論の結論だとのべる。

    ロックの「経験論」については、冨田恭彦『ロック入門講義』(ちくま学芸文庫)も参照するようにしようかなー(;´・ω・)

    >けれども、しばしば誤解されていることなのですが、ロックはすべての知識が経験から得られると主張したわけではありません。<
    >彼は、数学が観察や実験を基盤としない特殊な知識からなると考えていましたし、道徳についても数学と同じような論証が可能であると考えていました。<
    →冨田、p.116


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■13014 / inTopicNo.75)  pipitさんへ
□投稿者/ うましか -(2021/05/22(Sat) 14:54:47)
    なんだか昨夜から今日にかけて、pipitさんの

    No.12923
    No.12925

    に刺激をうけて、いろいろなことをかんがえました。
    カントが意識した「経験論」への反論、その視点がとてもありがたかったです。

    ありがとうございましたm(__)m

    またよろしくお願いいたします!

    それでは、おじゃましました。
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■13053 / inTopicNo.76)  悪魔ちゃんへ 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/22(Sat) 23:30:22)
    2021/05/23(Sun) 07:47:54 編集(投稿者)

    No12987
    > 演繹という言葉をカントが自分で説明してる箇所は、
    >
    > 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、p91.92より引用。
    > 『法学の理論書においては、権限と越権について論じるときに、ある訴訟について何が合法的に認められているか(権利問題)と、事実はどうであるか(事実問題)を区別し、それぞれについて証明を求めるのである。そして権利問題については権限の証明や権利要求の証明を根拠づけ[=演繹]と呼ぶのである。』
    > 引用終了

    引き続き引用するね。

    同上本p92〜94より抜粋引用
    『わたしたちは、誰からも意義の申し立てがないのをよいことにして、多くの経験的な概念をそのまま使っているのであり、根拠づけすることもなしに、こうした概念に意味と、自分で思い込んだだけの意義を与えているのである。
    それはわたしたちが経験に依拠することで、これらの概念の客観的な現実性をいつでも証明できる[と考えている]からである。
    (略)
    人間の認識というこのきわめて雑多な〈織物〉は、多数の概念によって織りあげられているが、こうした概念のうちには、一切の経験から独立して、アプリオリで純粋に利用される概念がある。
    (略)
    さらにこうした概念は経験からとりだすことができないのに、とのようにして客体とかかわることができるのかを知る必要があるのである。
     だからわたしは、これらの概念が対象とどのようにアプリオリにかかわるのかを説明する作業を、概念の超越論的な根拠づけと呼んで、経験的な根拠づけと区別することにする。
    (略)』
    抜粋引用終了。

    (pipitの感想)
    裁判や法廷のイメージで、
    カントに対し、
    「君は、純粋悟性概念の正当性、真っ当性を主張しているが、それはどのような根拠に基づき主張されているのか?純粋悟性概念などいい加減で根拠のない不当な概念ではないのか?」
    という異議申し立てが立てられて、それに対するカントの答弁が、【超越論的演繹】(この概念はこのように客体にアプリオリに関わるゆえに、この概念に、客観的妥当性があることが合法的に認められる(根拠づけされる)との弁明)である。
    とりあえず今はそんな感じに思ってます。
    ちがったらごめんよー。


    ※追記

    カント先生が被告というよりは、
    被告が純粋悟性概念ちゃんたち、弁護士がカント先生、って感じかな?とさっき思いました。

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■13055 / inTopicNo.77)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/22(Sat) 23:52:46)
    うましかさん、こんばんは〜

    No13004
    > ああ、pipitさん!(´;ω;`)ウッ…
    > 私はまさに今カント沼でおぼれています<

    うましかさんは、きっといろいろ大丈夫な気がしますよ!

    > というのも、カントのいう「経験」ってなに?と考えていたら、
    > そもそもカントはなんで「認識」なんだろう?なんてことを考えだしてしまった!
    >
    > ※ちなみに、「経験」については、今、中山元訳1、p.275〜を読んでいます。中山はカントのいう「経験」を日本語の文脈で理解するなと注意してくれてました〜m(__)m<


    > カントのいう "Erfahrung"は、"experience"と英訳され、和訳では「経験」と訳されてます。
    >
    > カントのいう"Erkenntnis"、 和訳では「認識」とされるものが、英訳では、"knowledge"と訳されたり、別の英訳では、"cognition"と訳されています。
    >
    > 独英辞書でしらべるとどちらもオッケーなんだけど、カント哲学としてはどちらがより適切なんだろう?
    >
    >
    >
    > うーん、つかれた!
    >
    > とりあえずここまで〜<

    おつかれさまです(^_^)
    いろいろカントによる記述はややこしそうなのですが、
    経験には《知覚》をキーワードに考えてもいいかも、と、思いました。

    御子柴善之先生の『カント哲学の核心)p119〜
    の、経験的と経験の違いについて、とかはどうでしょうか?
    あと、黒崎政男先生の『カント『純粋理性批判』入門』のp99〜100
    とかは参考やヒントにならないかなぁ。
    (わたしもわかってるわけではなく、うましかさんのひらめきへの縁となることを期待しまして、目についたページを書き込みますね^ ^)


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■13056 / inTopicNo.78)  序論!
□投稿者/ pipit -(2021/05/22(Sat) 23:58:56)
    No13009に返信(うましかさんの記事)
    > カント沼でバタ足ができるようになるために、非力な私は「序論 Einleitung」(第一版、第二版)にしぼってチャレンジすることにしま〜す(´;ω;`)ウゥゥ
    >
    > 『純粋理性批判』翻訳書は、おもに原佑訳上巻p.77〜p.142を読んでいきます。
    >
    > 参考文献はたとえば、
    > ◇中山元訳1、p.271〜p.314
    > ◇御子柴善之『カント 純粋理性批判』p.53〜p.81<

    序論や序文の読解は、『純粋理性批判』の全体への理解に繋がる気がしますね!
    うましかさんは全然非力にはわたしには思えませんよ(^_^)
    分かり難いのは、カント先生のせいにしちゃいましょう!っていうと、
    カント先生怒るかな???
引用返信/返信 削除キー/
■13057 / inTopicNo.79)  言ってることを聞くこと
□投稿者/ pipit -(2021/05/23(Sun) 00:04:26)
    No13012に返信(うましかさんの記事)
    > >中山元は『純粋理性批判』中山元訳1、p.275で第二版序論の冒頭文「わたしたちのすべての認識は経験とともにはじまる ( Dass alle unsere Erkenntnis mit der Erfahrung anfange )」を、ロックにはじまるイギリス経験論の結論だとのべる。
    >
    > ロックの「経験論」については、冨田恭彦『ロック入門講義』(ちくま学芸文庫)も参照するようにしようかなー(;´・ω・)
    >
    > >けれども、しばしば誤解されていることなのですが、ロックはすべての知識が経験から得られると主張したわけではありません。<
    > >彼は、数学が観察や実験を基盤としない特殊な知識からなると考えていましたし、道徳についても数学と同じような論証が可能であると考えていました。<
    > →冨田、p.116<

    カントは、自分の論を誤解されたーと憤慨することもあったかもしれませんが、
    カント自身も、他人の説を誤解して、その誤解に対して反論してたりすることもあったのでしょうね。

    理解というものは、とても難しいものなのかもしれませんね。


引用返信/返信 削除キー/
■13059 / inTopicNo.80)  うましかさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/23(Sun) 00:15:56)
    私もとても勉強になるので、わたしにはなにも遠慮なさらずに、
    好きなスタイルで投稿してくださいね。

    つぶやきメモみたいなかんじでも、全然オッケーですよー

    考えすぎて、歩いている時につまづいたりしないように、お気をつけてくださいね〜(^o^)/
    (カント先生は経験をとても大切に思われてたみたいですからね!)
    ※黒崎先生本p68参照

    あ、ちなみに、p82も経験について記述されてます。

    おつかれさまです、おやすみなさい ☆彡

引用返信/返信 削除キー/
■13149 / inTopicNo.81)  Re[21]: 演繹
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/24(Mon) 20:53:36)
    ■13053、pipitさま、

    >同上本p92〜94より抜粋引用<
    ありがと。
    とくに引用の
    やっぱ 『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、の方がわかりやすい。
    『わたしたちは、誰からも意義の申し立てがないのをよいことにして、多くの経験的な概念をそのまま使っているのであり、根拠づけすることもなしに、こうした概念に意味と、自分で思い込んだだけの意義を与えているのである。』(K)
    は、やっぱ哲学者〜!っていう感じ。

    ついでにわたしの「演繹」の意味を書いちゃうね。

    野矢茂樹著「入門!論理学」によると、

    《演繹とは、前提を認めたなら必ず結論を認めなければならないような導出》
    そして、《ある前提からなんらかの結論を導く、その全体を論証と呼ぶ。》
    ってある。

    《「論証」=「前提−導出→結論」》

    《導出の正しさは、その前提を正しいと仮定したときにその結論が必ず導かれねばならないのか点から評価され、前提が本当に正しいかどうかはとりあえず棚上げにしておきます。他方、正しい論証というのは、導出が正しいだけでなくて、その前提も本当に正しいもののことです。》

    「演繹」っていうのは。論証における導出の部分のこと。
    わたしの問題は前提の部分。論証の始まりは前提よね。こういう意味で(K)ね。

    もっともわたし「論」っていうの嫌いだけどね。


引用返信/返信 削除キー/
■13152 / inTopicNo.82)  
□投稿者/ pipit -(2021/05/24(Mon) 21:57:40)
    2021/05/24(Mon) 22:10:54 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは〜(^_^)

    No13149
    > ついでにわたしの「演繹」の意味を書いちゃうね。
    >
    > 野矢茂樹著「入門!論理学」によると、<

    悪魔ちゃん、論理学の本も持ってるんや!



    > 《演繹とは、前提を認めたなら必ず結論を認めなければならないような導出》
    > そして、《ある前提からなんらかの結論を導く、その全体を論証と呼ぶ。》
    > ってある。<

    ありがとー。
    きちんと言葉が指す意味が区切られてるかんじでわかりやすいね!


    > 《「論証」=「前提−導出→結論」》
    >
    > 《導出の正しさは、その前提を正しいと仮定したときにその結論が必ず導かれねばならないのか点から評価され、前提が本当に正しいかどうかはとりあえず棚上げにしておきます。他方、正しい論証というのは、導出が正しいだけでなくて、その前提も本当に正しいもののことです。》
    >
    > 「演繹」っていうのは。論証における導出の部分のこと。<

    論理学での演繹はそういう意味やったんやね。
    ちゃんとは全然知らんかったよ、書いてくれてありがとう。
    おもしろいです(^_^)

    一応カントの意味もwikiの『演繹』の中にあったので引用しておくね。
    『イマヌエル・カントは、通常の意味とは異なった形で演繹 (Deduktion) という語を用いている。カントにおいて演繹とは概念の正当性の証明を意味する。最も代表的な例は『純粋理性批判』におけるカテゴリー(範疇)の超越論的演繹である。演繹のこのような用法は当時の法学用語に由来するといわれ、カントのいたるところにみられる。』
    wikiより引用終了


    > わたしの問題は前提の部分。論証の始まりは前提よね。こういう意味で(K)ね。
    >
    > もっともわたし「論」っていうの嫌いだけどね。<

    個別ではなく一般的にするから嫌いなの??

    論、って、よく考えたら、なんやろう。

    論は、考えの筋道、ってのはどうかな?ちょっと違うかなぁ

    悪魔ちゃんは、論、って、どんな感じに思ってるん?
引用返信/返信 削除キー/
■13153 / inTopicNo.83)  Re[23]: 論
□投稿者/ pipit -(2021/05/24(Mon) 22:00:52)
    wikiちょっとだけみてみたー

    wiki『論』より抜粋引用
    『論(ろん)とは、ある事象に対し順序立てられた思考・意見・言説をまとめた物である。』
引用返信/返信 削除キー/
■13227 / inTopicNo.84)  Re[24]: 和訳論(?)
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/26(Wed) 15:27:20)
    2021/05/26(Wed) 15:34:16 編集(投稿者)

    図書館で純理の石川訳と天野訳を借りてきました。
    その理由と訳について思うことを書きます。(だらだら長い文章になりました)

    もともと英訳は原文に忠実という印象があり、pipitさんも同意見とのようでしたが、自分が英語読むのには時間がかかるのでそれを主体にはできない。
    日本語であって、英文同様に原文に忠実なものがあればと(表現はやさしくなくてもいい)、原佑訳を買いましたが、疑問を感じる部分が目に付き、それで石川訳と天野訳を借りてきました。

    今までに気になっていた部分および、最初の方(感性論の時間まで)を見た限りでの感想。

    原佑訳:主述の関係や、接続詞と結末の述語の関係がズレているといった部分が目に付く。推測で修正できなくはないものの、やはり英訳を参照したくなるので、自分の目的には適っていないと思った。
    しかし、日本語表現への落とし込みに難があるだけで、訳者の原文読解には問題はないのではないか(分からんけど)。
    よって、他の訳と照らし合わせて役に立つ場合は多そうで、持っていて無駄ではないと思っています。

    石川訳:良いと思います。自分の目的に適っていそう。
     ネットの記事で、『石川がお奨めで次点が原』と大学の先生から言われたというのを見たのですが、原の方が安いし、原文に忠実そうという理由を付けて私はそちらを買ったのでした。ちなみに記事の書き手も、『高くても内容重視で買う方が良いと経験から思う』との趣旨を書き、そして石川の訳が好きだと言いながら、原佑訳を買っているというオチ(?)でした。文庫本だし。

    天野訳:内容的にはとても良いと感じます。古い文体が苦にならない人であれば、石川訳に劣る部分は無いように思われます。新しい方が安心か-安い方がいいかだけ。
    天野訳が非常に良いため長く新訳が出なかったという記事(かレビュー)を見ましたが、偽りのない評判のように思います。
    今まで見た範囲では、唯一疑問点(カント自体の難解さではなく訳が変なのでは?と感じる部分-主に英訳と比べて)が無かったのが天野訳です。石川は一ヵ所あった。

    中山訳:第1巻は持っていないので、具体的な読み比べはしていませんが、分かりやすさを追求して意訳が多く、[ ]で括って原文に無い補足の挿入も多い。もし中山さんの解釈が間違っていた場合、読者が自分で修正するのは難しいのでは(英訳他を参照しない限り)。つまり中山さんの解釈への依存度が強いのでは(?)。
    最初に買ったけれど、他の訳も参照したいと思った理由はそれだったと思う。

    以上、だらだら勝手なことを失礼しました。
    専門家の訳を評価できる立場かよ、というお叱りの言葉もなくご清聴ありがとうございました(聴いてない)
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