| No12796 うましかさん、こんばんは! わたしは、うましかさんに本当にびっくりしてます。
全然違ったらごめんなさいなんだけど、 なんとなく、仏教、というものを感じるのですが、 これから書くことは、もし、?なら、全然気にしないでくださいね。
十二因縁にも出てくる『触』(六処によって触が生じる、触によって受が生じる)という仏教用語を、下記の引用の『経験』に当ててみれば、どうかな?と、先程、思いました。 触とは、 『触(そく、巴: phassa, 梵: sparsa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触[1]。』 (wikiの『十二因縁』の項目からの抜粋引用。(梵語の記号は入力できてません。)) です。
No12735 > たとえば、カントははやくも序論 Einleitung (第二版)の冒頭でつぎのようにいうわけですが、いまだにしっくりこないわけですね(´;ω;`)ウゥゥ > > > >あらゆる私たちの認識が経験でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。< > >それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる認識も経験に先行することはなく、だからあらゆる認識は経験でもって始まる。< > > >しかし、たとえあらゆる私たちの認識が経験”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が経験”から”発するのでは必ずしもない。< > > >はたして、経験に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような認識があるかどうかは、< > >そうした認識は、”ア・プリオリ”と名づけられ、< > > →原佑訳上巻、p.77〜p.82参照 > > *******
↑の『経験』を『接触』に入れ替えてみますね
理解のための、語句入れ替え文章 ↓ あらゆる私たちの認識が『接触』でもって始まるということ、このことには全然疑いの余地はない。 それゆえ、“時間的には“私たちの内なるいかなる認識も『接触』に先行することはなく、だからあらゆる認識は『接触』でもって始まる。
しかし、たとえあらゆる私たちの認識が『接触』”でもって”始まるにせよ、それだからといって、あらゆる私たちの認識が『接触』”から”発するのでは必ずしもない。
はたして、『接触』に依存せず、感官のあらゆる印象にすら依存しないそのような認識があるかどうかは、 そうした認識は、”ア・プリオリ”と名づけられ、
、、、ちょっとだけでもイメージしやすくなるかな?と自分では思ったのですが 反対に余計わからんわーーー!!だったらすみません。 今回のことは忘れてくださいませ(^人^)
変化球すぎて、暴投かも、ですみませんm(_ _)m
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