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■12745 / inTopicNo.37)  黒崎政男先生!
  
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 18:15:18)
    No12739に返信(うましかさんの記事)
    > こんにちは。pipitさん。
    > こちらに追記しておきまーす。
    >
    > *******
    >
    > 黒崎政男『カント『純粋理性批判』入門』(講談社選書メチエ)は持っておられますか?
    >
    > 同書p.93〜p.94で、カントの「形而上学」に対する「二つの方向への関心」が簡潔にまとめられています。
    >
    > 持っておられなかったら、いってくださいませm(__)m
    > 引用します(^^)/<


    わたしも持ってます〜〜(*^o^*)♪
    とても面白く楽しい本ですよね(個人的感想)

    改めてp93、94を読むと、簡潔にまとめられていますね。
    んー、すごく整理されてるなぁ。
    ありがとうございます!

引用返信/返信 削除キー/
■12747 / inTopicNo.38)  Re[26]: pipitさまへ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/16(Sun) 18:29:42)
    いろいろ調べてくれて、ありがと。
    今日いっぱい考えちゃった。

    ■12728、
    ところどころわたしに思われたのを書かせてもらうね。

    >悪魔ちゃんの定義のとき、形而上についてのアレコレは、考えることでしか得られないよね。「人間の感性的経験では知り得ないもの。」についての考察なんだから(非・感性的経験)、頭で考えた概念で知るしかない、と、わたしは思うんだけど、悪魔ちゃんはどう思う?<
    のところ。
    ちょっとその前に、
    「形而上」は〈神〉、「形而上的なもの」を〈神的なもの〉、っていうのは「定義」じゃなくて、わたしにおける「意味」ね。「定義」っていうのネットで調べたら、「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。」ってあった。わたしのは「明確に限定する」が抜けてるから、定義とは言わないし、わたしそうしたくないのね。現象学ではエポケーっていうのしてるから。あ、これは余談だから捨て置いて。
    でね、
    「人間の感性的経験では知りえないもの」っていうのだったら、「感性的経験で知りうるもの」っていうのもあるよね。「感性的経験」をなきものとし、純粋に思・考の領域のみから、っていうことになるんだと思う。デカルトの方法に似てる気がする。「形而上」(わたしのばあい〈神〉ね)は、>頭で考えた概念で知るしかない<。わたしもそう思ってるけど、でもそうすると、〈神〉っていうの、人間の思・考によって生み出されたもの、っていうことになると思うのね。

    引用部分の
    『理性にこのような大事業を実行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。』
    のところ。
    カントは、「形而上的なもの」(わたしのでは〈神的なもの〉)を捨て去ることはできなかったってわたし見てるから、彼が人間の認識を考える前提に〈神的なもの〉があった、ったいうのははずせないと思う。上記の文の、『理性』や『能力』のまえに〔人間の〕っていうのをつけて読んじゃうのね、わたしのばあい、彼が言っていることを理解しようとするとき、「神対人間」っていう構図のうちで見て見る、っていうこと。

    でね、人間の理性というのを吟味しないまま『確信をもってこの事業を遂行しようとする』ということに対して『この学のとる方法は、最初は独断論的である。』って言っているようにわたしには見える。これも彼の神への信仰深さがうかがえるとわたしには思えるのね。

    このあと、カントは人間の理性を吟味してるんじゃないかしら?
    前に書き写したと思うけど、中島義道さんの記述、
    《人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」に――認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。『純粋理性批判』のうちで「超越論的弁証論」というタイトルはこれを直接示しているが、そこにおいて主導的な役割を演ずる「超越論的仮象」「超越論的理念」「超越論的自由」などは、こうした意味で使われている。また、『純粋理性批判』において以上の(積極的・消極的)二重の意味を含む方法論は「超越論的方法論」である。》
    のような論が展開されてゆくんじゃないかしら?

    カントにおいては「仮象」っていうのは「誤った現れ」という意味に限定したみたい。
    わたしには「超越的なもの」は「形而上的なもの」に、「超越論的」は〈人間における神のような論的〉に、重なって見えてる。

    簡単に言っちゃうと、カントが人間の理性を吟味した結果、
    《「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る》
    ってなったんじゃないかしら?

    あ、ごめんね、お喋りしすぎちゃったみたい。
    あくまでもわたしのだからね。


引用返信/返信 削除キー/
■12748 / inTopicNo.39)  Re[27]: pipitさまへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 18:36:13)
    No.12747
    悪魔ちゃん、こんばんは!返信ありがとう!

    > 簡単に言っちゃうと、カントが人間の理性を吟味した結果、
    《「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る》
    ってなったんじゃないかしら?<

    うん、わたしもそう思ってる!

    ちょっと今から用事してきまーす(^o^)/♪
引用返信/返信 削除キー/
■12749 / inTopicNo.40)  Re[28]: pipitさまへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/16(Sun) 18:38:32)
    結論同じだから、思わず、目にして即返信しちゃったけど、

    落ち着いたら後で、その前の考察もゆっくり考えさせてもらうね!

    (^o^)/ ではいってきまーす
引用返信/返信 削除キー/
■12776 / inTopicNo.41)  悪魔ちゃんへ
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 17:04:05)
    2021/05/17(Mon) 17:07:53 編集(投稿者)

    考えてることを書いてくれて、ありがとう!
    嬉しいです (o^^o)

    No12747


    > 「形而上」は〈神〉、「形而上的なもの」を〈神的なもの〉、っていうのは「定義」じゃなくて、わたしにおける「意味」ね。「定義」っていうのネットで調べたら、「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。」ってあった。わたしのは「明確に限定する」が抜けてるから、定義とは言わないし、わたしそうしたくないのね。現象学ではエポケーっていうのしてるから。あ、これは余談だから捨て置いて。<

    りよーかい!定義でなく、悪魔ちゃんにおける「意味」だね。

    > 「人間の感性的経験では知りえないもの」っていうのだったら、「感性的経験で知りうるもの」っていうのもあるよね。「感性的経験」をなきものとし、純粋に思・考の領域のみから、っていうことになるんだと思う。デカルトの方法に似てる気がする。「形而上」(わたしのばあい〈神〉ね)は、>頭で考えた概念で知るしかない<。わたしもそう思ってるけど、でもそうすると、〈神〉っていうの、人間の思・考によって生み出されたもの、っていうことになると思うのね。<

    そこは微妙で、
    可能性としては、想像と現実が一致する、ことも残されてるやん?
    アメリカって、頭でしか知らんけど、行ったら本当にあったわ、とか。(アメリカは感性で知り得る対象やろうけどね。)
    まあ、可能性のパーセンテージの問題は個々にあるんやろうけど。
    感性で知り得ない、と、存在してない、は、必ずしもイコールで結べない気もするなぁ。


    > 引用部分の
    > 『理性にこのような大事業を実行するだけの能力がそなわっているかどうかをあらかじめ吟味せずに、確信をもってこの事業を遂行しようとするのである。』
    > のところ。
    > カントは、「形而上的なもの」(わたしのでは〈神的なもの〉)を捨て去ることはできなかったってわたし見てるから、彼が人間の認識を考える前提に〈神的なもの〉があった、ったいうのははずせないと思う。上記の文の、『理性』や『能力』のまえに〔人間の〕っていうのをつけて読んじゃうのね、わたしのばあい、彼が言っていることを理解しようとするとき、「神対人間」っていう構図のうちで見て見る、っていうこと。
    >
    > でね、人間の理性というのを吟味しないまま『確信をもってこの事業を遂行しようとする』ということに対して『この学のとる方法は、最初は独断論的である。』って言っているようにわたしには見える。これも彼の神への信仰深さがうかがえるとわたしには思えるのね。<

    カントは信仰者だったかもやけど、
    『純粋理性批判』では、神的なものを捨て去る、捨て去らないの二択の議論をしてるのではなく、
    知識として知ることができる、か、知ることができないか、の二択を議題にあげて、
    人間には神の存在証明はできない(知識として知ることができない)
    と、結論づけたんだと、わたしは今のところ思ってるん。
    悪魔ちゃんの意見が、あってるのかもしれんけど、
    今の私には、まだ、そこまでの段階まで、自分で読み進めれてへんから、
    そこらへんの意見は、わたしはまだ保留中やね。
    あの時代やと検閲もあったやろうしね、カントの文章を読み解くにしても、いろいろ複雑かもしれんね。
    まあ、私の持ってるイメージとしては、カントは信仰者だけど、他人には自分の信仰をそのままに押し付けないかなぁ?って思ってるけど、未勉強でわからないです。


    > このあと、カントは人間の理性を吟味してるんじゃないかしら?<

    うん、わたしもそうだと思ってる。

    > 前に書き写したと思うけど、中島義道さんの記述、
    > 《人間の認識の限界を設定することができるためには、われわれはその外側に位置する「超越的なもの」に――認識できなくとも――何らかの仕方で関与できねばならない。カントによれば、人間理性は「超越的なもの」に「仮象」(Schein)というかたちで関与するのである。つまり、「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥るが、その仮象への陥り方に関することすべてに消極的意味における「超越論的」という言葉が付される。『純粋理性批判』のうちで「超越論的弁証論」というタイトルはこれを直接示しているが、そこにおいて主導的な役割を演ずる「超越論的仮象」「超越論的理念」「超越論的自由」などは、こうした意味で使われている。また、『純粋理性批判』において以上の(積極的・消極的)二重の意味を含む方法論は「超越論的方法論」である。》
    > のような論が展開されてゆくんじゃないかしら?<

    でも、超越論的感性論は?
    カントは、感性のことをとても大事に思ってるよ。
    中島先生の文脈で言えば,積極的意味が、感性論につけてる超越論的ということなのかなぁ。
    (超越論的という言葉にはニ側面があって、積極的意味を発揮するのが感性論で、消極的意味を発するのが弁証論、という意味で、私は文章を書いてます。)



    > カントにおいては「仮象」っていうのは「誤った現れ」という意味に限定したみたい。
    > わたしには「超越的なもの」は「形而上的なもの」に、「超越論的」は〈人間における神のような論的〉に、重なって見えてる。
    >
    > 簡単に言っちゃうと、カントが人間の理性を吟味した結果、
    > 《「超越的なもの」を捉えようとすると人間理性は必ず仮象に陥る》
    > ってなったんじゃないかしら?
    >
    > あ、ごめんね、お喋りしすぎちゃったみたい。<

    違ってたらごめんね、
    悪魔ちゃんは、
    超越論的=仮象 という意味に、思ってる???

    わたしは、超越論的=仮象  とは思ってないです。


引用返信/返信 削除キー/
■12777 / inTopicNo.42)  悪魔ちゃんへ 超越論的
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 17:18:38)
    超越論的、というカントの言葉のこと、
    別に興味なかったら、ほっといてね〜 (^o^)/
引用返信/返信 削除キー/
■12778 / inTopicNo.43)  悪魔ちゃんへ 演繹
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 17:22:42)
    演繹、のことも、カントはなんか言ってる?って聞いててくれたね

    またあとで、演繹という言葉についてカントが説明してる箇所を引用するねー(^o^)/
引用返信/返信 削除キー/
■12781 / inTopicNo.44)  分別
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 18:35:26)
    No.12747
    > カントは、「形而上的なもの」(わたしのでは〈神的なもの〉)を捨て去ることはできなかったってわたし見てるから、彼が人間の認識を考える前提に〈神的なもの〉があった、ったいうのははずせないと思う。上記の文の、『理性』や『能力』のまえに〔人間の〕っていうのをつけて読んじゃうのね、わたしのばあい、彼が言っていることを理解しようとするとき、「神対人間」っていう構図のうちで見て見る、っていうこと。<

    悪魔ちゃんの見方とは、またすこしだけ別の見方として、

    何かを置くと(概念として意味を形成する・知る対象を作る)と、何か以外も置かれる、って現象が生じることもあるかも、と、思ったよ。

    その人にとっての「イチゴ」が生まれると、その人にとっての「非・イチゴ」も生まれる可能性が出てくるかな、って。

    形而上と形而下も、二分法になるのかなぁ。

    ふと思ったこと書きました。


引用返信/返信 削除キー/
■12782 / inTopicNo.45)  知性の論理的機能として
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 18:38:34)
    No12781に返信(pipitさんの記事)
    > No.12747
    >>カントは、「形而上的なもの」(わたしのでは〈神的なもの〉)を捨て去ることはできなかったってわたし見てるから、彼が人間の認識を考える前提に〈神的なもの〉があった、ったいうのははずせないと思う。上記の文の、『理性』や『能力』のまえに〔人間の〕っていうのをつけて読んじゃうのね、わたしのばあい、彼が言っていることを理解しようとするとき、「神対人間」っていう構図のうちで見て見る、っていうこと。<
    >
    > 悪魔ちゃんの見方とは、またすこしだけ別の見方として、
    >
    > 何かを置くと(概念として意味を形成する・知る対象を作る)と、何か以外も置かれる、って現象が生じることもあるかも、と、思ったよ。
    >
    > その人にとっての「イチゴ」が生まれると、その人にとっての「非・イチゴ」も生まれる可能性が出てくるかな、って。
    >
    > 形而上と形而下も、二分法になるのかなぁ。
    >
    > ふと思ったこと書きました。<

    感情で分ける、というよりは、
    知性の論理機能として、どうしても人間は分けちゃう、みたいな。
引用返信/返信 削除キー/
■12783 / inTopicNo.46)  Re[32]: 知性の論理的機能として
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 18:39:20)
    分けちゃうのは、生命にとって、自然なのかもなー
引用返信/返信 削除キー/
■12784 / inTopicNo.47)  Re[30]: 超越
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/17(Mon) 18:41:01)
    ■12776、
    カントのは、わたしのばあい前にも言ったけど、現象学絡みでいろいろ調べて見てるんだけのなかでのもの。pipitさまのようにしてるわけじゃないから、ごめんね。

    でも、ちょっと。
    >悪魔ちゃんは、超越論的=仮象 という意味に、思ってる?<
    わたしの見えね。
    「仮象」はカントの場合「誤った現れ」でいいよね?
    ってしたとき、>超越論的=仮象<は〈超越論的=誤った現れ〉ってなるけど、わたしこう見てないよ。
    pipitさんの言うように
    >わたしは、超越論的=仮象 とは思ってないです。<
    は、わたしのとおんなじ〜。





引用返信/返信 削除キー/
■12785 / inTopicNo.48)  感情
□投稿者/ pipit -(2021/05/17(Mon) 18:43:34)
    まあ、知性の裏で、感情が手を引いてる、のかもやけどね

    そうかぁ、


    感情が理性を道具として使う場合もあるし、、、

    感情なしの理性は存在しないのなぁ

    わからん。

    渇愛がすべてをにぎってるのだろうか

    手綱を、、、
引用返信/返信 削除キー/

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