| おくたがわさん、こんばんは! 喜んでもらえて、光明寺さんのサイトまで見てもらえて(たどり着くの大変ですよね(^人^)) すごく嬉しいです、ありがとうございます(^_^)
■No11868に返信(おくたがわさんの記事)
> ところで3人の方の英訳では、それぞれ > ・He'll pull down the pile, not build it up. > ・you wear away, you don’t heap up. > ・it falls away and doesn't accumulate. > 最初の2つは、人の側の主体が強めに見えます。 > 光明寺さんも、その全体を「そのように彼は念をもっておこなう。」と人を主体にくくっていますが…。<
私見を書きますね。 この経典は、まず、マールンキャプッタさまが釈尊に 「わたしに簡潔に教えを説いてください!」と頼むところからはじまりますよね。 このマールンキャプッタというお名前、無記が説かれた毒矢の喩えの経典に出てくる、弟子のお名前と同じなんですよね。 学術的なことは知らないのですが、 もし、同じ方だとしたら、、、(pipitの妄想・想像↓)
毒矢の喩えで釈尊に諭されたのに、それから月日がたって、おじいさんになってもまだ悟ってないマールンキャプッタさま。。。 ハッとわれにかえるマールンキャプッタさま。。。 やばい!時間が残されてない! 「お釈迦さま〜、すぐに悟れるように超簡潔に私に法を説いて〜」 お釈迦さまは、 「おぬし、今になってもまだそんなこと言うか〜」的なことを言いつつも、 優しく【簡潔に】法を説いてあげる。
そして、それをこう理解しました、と、詩偈にして発表するマールンキャプッタさま。。。 上記英訳部分は、その時はまだ悟っていないマールンキャプッタさまの詩偈ですよね。 このご自分の理解を発表した後に、瞑想実践して悟られますよね。
つまり、釈尊の簡潔な教戒を、 「わたし」という気持ちがまだあるマールンキャプッタさまにとっての実践の仕方に変換して表現してるので、 人が主体になる表現をとっても不自然とまでは言えない可能性はあるのかなあ? と思いました。
マールンキャプッタさまとは別の方で、 この簡潔な教戒を聞いただけで、すぐさま阿羅漢に悟られた方(バーヒヤさま)の経典もあるんです。 (経典、おもしろいです〜)
https://suttacentral.net/ud1.10/en/sujato
↓釈尊の簡潔な教戒のあと、バーヒヤさまはすぐさま悟られたみたいです。
Then, due to this brief Dhamma teaching of the Buddha, Bahiya’s mind was right away freed from defilements by not grasping.
> 「(そのように彼は)念をもっておこなう。」がどういうことなのか。どうすれば『それが滅び、積まれないように』なるのか。 解釈は分かれるのかな?<
わたしは、 自分の行為を観察・自覚・気づくことによって、過度に執着せず、自然にそれが滅びるままにする、 とか、 釈尊の教戒を思いながら、新たな苦を積まないように気をつける、 とか、 今のところそのような感じに捉えています(全然違うかもです!)
マインドフルネスと訳されることも多い『サティ(念)』の解釈もwikiなどを読むにいろいろあるみたいですね。
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