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■11902 / inTopicNo.61)  おくたがわさんへ
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/15(Thu) 20:24:16)
    興味深い返信をありがとうございます。

    今度の土日で私もカキコしてみたいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■11887 / inTopicNo.62)  
□投稿者/ pipit -(2021/04/15(Thu) 06:32:32)
    No.11883
    wikiの「念(仏教)」の項目より抜粋引用します。

    『サンスクリットのスムリティ(smrti)の訳としての念は、心所(心のはたらき)の名であり、かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないことを意味する[2]。五根の一つとしての念根、五力の一つとしての念力に数えられる[2][注釈 1]。また、単に「思い」や「想い」の意味として「念」の語を用いることもある[2]。

    パーリ語の「サティ」(sati)に対応する語であり、これらの語は「意識・記憶していること」全般を広く言い表す語である[要出典]。例えば、上座部仏教圏であるスリランカなどでは、師僧が小僧(沙弥)をしつける際などに、「サティ」(気を付けなさい)という言葉を使ったりする [4]。

    分類としては、念は、五位七十五法では心所有法の大地法の一つに分類され、五位百法では心所有法の別境の一つである[5]。 初期仏教における三十七道品においては、四念処の他に、五根のうちの念根、五力のうちの念力、七覚支のうちの念覚支、八正道の第7の正念などが説かれる[5]。

    安那般那念(アーナパーナ・サティ)は、初期仏教以来の瞑想の導入法として説かれており、自分の呼吸に意識を向ける(あるいは呼吸を数える)という行法である。

    十念とは、仏・法・僧・戒・施・天・休息・安般・身・死という10の対象に向かって想をとどめ、他の想をやめて心を動乱させないことをいう[2][6]。

    業処とは、仏教の瞑想において観想する対象であり約40に分類されるが、その内の十随念のひとつの対象として仏(釈迦)がある(念仏#憶念)。』

    このほかにもいろいろな項目でいろいろな記述がwiki内の中だけでも記されてて、
    また、現代のマインドフルネスとしての定義は定義で、もしかしたらいろいろあるかもです。
引用返信/返信 削除キー/
■11883 / inTopicNo.63)  サティ
□投稿者/ pipit -(2021/04/14(Wed) 23:05:07)
    No.11881
    > マインドフルネスと訳されることも多い『サティ(念)』の解釈もwikiなどを読むにいろいろあるみたいですね。<

    wikiの「マインドフルネス」の項目より一部抜粋します。

    『mindfulness[注釈 2]と英訳された仏教用語は、パーリ語のsati(サティ)および、サンスクリットにおいてsatiに相当するsmrtiに起源がある。Robert Sharfによれば、これらの語の意味は、広範囲に渡る討論や議論のテーマとなっている[53]。元来、smrtiは、to remember(思い出す、記憶している[54])、to recollect(思い出す、回想する[55])、to bear in mind(心に留めておく[56])を意味した。satiもto rememberを意味する。大念処経(訳者注: または念処経)においてsatiは、仏教の法を思い出すこと/覚えていることを意味し、それによって修行者は諸現象の本質を見ることができる[53]。「サティが生じることは、四念処、五根、五力、七覚支、八正道などの健全な諸法を心に呼び起こす」と説明している『ミリンダ王の問い』をSharfは参照している[57]。』
引用返信/返信 削除キー/
■11881 / inTopicNo.64)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/04/14(Wed) 22:46:19)
    おくたがわさん、こんばんは!
    喜んでもらえて、光明寺さんのサイトまで見てもらえて(たどり着くの大変ですよね(^人^))
    すごく嬉しいです、ありがとうございます(^_^)

    No11868に返信(おくたがわさんの記事)

    > ところで3人の方の英訳では、それぞれ
    > ・He'll pull down the pile, not build it up.
    > ・you wear away, you don’t heap up.
    > ・it falls away and doesn't accumulate.
    > 最初の2つは、人の側の主体が強めに見えます。
    > 光明寺さんも、その全体を「そのように彼は念をもっておこなう。」と人を主体にくくっていますが…。<

    私見を書きますね。
    この経典は、まず、マールンキャプッタさまが釈尊に
    「わたしに簡潔に教えを説いてください!」と頼むところからはじまりますよね。
    このマールンキャプッタというお名前、無記が説かれた毒矢の喩えの経典に出てくる、弟子のお名前と同じなんですよね。
    学術的なことは知らないのですが、
    もし、同じ方だとしたら、、、(pipitの妄想・想像↓)

    毒矢の喩えで釈尊に諭されたのに、それから月日がたって、おじいさんになってもまだ悟ってないマールンキャプッタさま。。。
    ハッとわれにかえるマールンキャプッタさま。。。
    やばい!時間が残されてない!
    「お釈迦さま〜、すぐに悟れるように超簡潔に私に法を説いて〜」
    お釈迦さまは、
    「おぬし、今になってもまだそんなこと言うか〜」的なことを言いつつも、
    優しく【簡潔に】法を説いてあげる。

    そして、それをこう理解しました、と、詩偈にして発表するマールンキャプッタさま。。。
    上記英訳部分は、その時はまだ悟っていないマールンキャプッタさまの詩偈ですよね。
    このご自分の理解を発表した後に、瞑想実践して悟られますよね。

    つまり、釈尊の簡潔な教戒を、
    「わたし」という気持ちがまだあるマールンキャプッタさまにとっての実践の仕方に変換して表現してるので、
    人が主体になる表現をとっても不自然とまでは言えない可能性はあるのかなあ?
    と思いました。


    マールンキャプッタさまとは別の方で、
    この簡潔な教戒を聞いただけで、すぐさま阿羅漢に悟られた方(バーヒヤさま)の経典もあるんです。
    (経典、おもしろいです〜)

    https://suttacentral.net/ud1.10/en/sujato

    ↓釈尊の簡潔な教戒のあと、バーヒヤさまはすぐさま悟られたみたいです。


    Then, due to this brief Dhamma teaching of the Buddha, Bahiya’s mind was right away freed from defilements by not grasping.

    > 「(そのように彼は)念をもっておこなう。」がどういうことなのか。どうすれば『それが滅び、積まれないように』なるのか。
    解釈は分かれるのかな?<


    わたしは、
    自分の行為を観察・自覚・気づくことによって、過度に執着せず、自然にそれが滅びるままにする、
    とか、
    釈尊の教戒を思いながら、新たな苦を積まないように気をつける、
    とか、
    今のところそのような感じに捉えています(全然違うかもです!)

    マインドフルネスと訳されることも多い『サティ(念)』の解釈もwikiなどを読むにいろいろあるみたいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■11872 / inTopicNo.65)  自己レスRe[8]: リベットの実験について
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/14(Wed) 18:33:25)
    No11851に返信(おくたがわさんの記事)

    自己レス。

    『先行する無意識的な準備電位が検出されたあとに、行動を意識的に中断・拒否できるかを脳電位計測により調査』
    『自身の脳の準備電位により予測された動作を拒否することができたなら、』

    こういった文章からすると、被験者がいったん「ボタンを押す」と顕在意識で自覚する必要はないとも読めるのか。
    すると、赤シグナルでボタン押しを止めた被験者は
    「ボタンを押そうと決断するより前にいつも赤になったので、ボタンを押さなかった」という風に自覚するのだろうか?

    いや、『意識的に中断・拒否できるかを』なんだから、『押そうと顕在意識で思った後、顕在意識で拒否した』自覚が無いと成立しないと思うのだが…。
    いったん押そうと思わなければ、顕在意識は、初めからただ押さなかっただけであり、「意識的に中断・拒否」などしていないのだから。
    訓練されていたから準備電位を(無意識のうちに)拒否できたという実験者の把握する事実をもって「意識的に中断・拒否できた」とはまさか言わないと思うのだが…。


    *********

    行為の0.2秒前までなら拒否・取消ができる、について。
    0.2秒前とは行為を為そうという顕在意識の発生時。
    つまり、素朴に考える場合の「意志」が行為を決断する時点。
    なんのことはない、行為を顕在意識で決断する前なら行為しないという選択もできるというだけの話なのか。つまり顕在意識が最終決断をしていると。少なくとも顕在意識と同じタイミングで最終決定が生じていると。

    これは、restさんの書かれていた『準備電位は決断の前の動機形成(にすぎない)』を裏付ける事実であるのかも。


    その場合でも、ボタンを押す「顕在意識」の前に「押すを取消す」決断が来た場合、顕在意識の流れはどうなるのかという疑問は依然として残る。

    やはり全ての疑問や奇妙さは「顕在意識より前に準備電位が生じる」という事実によってもたらされていると思われ。
    準備電位とは何なのかをさらに突き詰める必要があるのでは。

    **********


    「準備電位に逆らえないなら自由意志はないが、準備電位の示す方向は意識的に取り消せるので自由意志は確保される」
    という主張が正しくなるためには、その「取消」に準備電位があってはならない。
    と、再考の結果、やはりそう考えます。

    もし「取消」に準備電位が発生するとしたら、
    1 取消さずボタンを押す場合は、取消の準備電位が発生しなかったからボタンを押す準備電位にそのまま従ったので、全ては準備電位に操られている。
    2 次に、取消の準備電位が発生し、ボタンを押さない場合。この「取消し(ボタンを押さない)」準備電位に対する「拒否」も可能だから意志は確保されるという論点は、1と同じ理由で反論される。最初の拒否で決定する場合は、それをもう一度覆す準備電位が出ないから第一の拒否準備電位に従ったのであるから。
    この理屈は、無限後退しても変わらないと思われます。


    > 『「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果』
    > https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    >
    > ちょっと思ったこと。
    > 通常ならボタン押し準備電位発生=赤ランプ から0.3秒後にボタン押しの顕在意識が自覚できるはず。すると、この実験では取消せと示唆する赤シグナルより遅れてボタンを押すという自覚的意志がノコノコ現れることになるのか…。
    > この紹介サイトでは
    > 『そして今回の実験によって示されたのは、まさに脳からの司令を拒否するのは可能だということである。ただし、後戻りできないポイントというのは確かに存在する。実験では、ボタンを押す約0.2秒前までならば、動作を中断、または拒否することが可能であったという。0.2秒を下回ると、ボタンを押す動作は止められなかった。』
    > こう結論しています。
    > 動作の約0.2秒前というのは通常は顕在意識が動作を意志するタイミング。準備電位からは0.3〜0.35秒後。
    > その時点に間に合うとは、何が間に合う 何が動作の0.2秒前までと言っているのか。
    > 『赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタンを押すのを中断、または、拒否できるかどうかを調べた。』
    > というのだから「取り消す」という顕在意識は生じるという前提のよう。
    > その取消そうという顕在意識が動作の0.2秒前までに為されれば間に合うという意味だとしたら、赤ランプ点灯より少し意志が遅れてしまいボタン押し動作予定の0.2秒前(通常ならボタン押しの意志が発生するタイミング)より遅れると取り消せないということか。あるいは、赤ランプのタイミングをズラして色々試したか。
    > いずれにしても、ボタン押しの意志が生じるタイミングより前に取消しの意志もしくは指示が出るときだけ取り消せるということになりそうなのですが…
    > その取り消せる場合、ボタンを押すという意志の顕在意識はどうなるのか。
    > 普通に考えると被験者は『緑の間にボタン押しを決定したが、赤になったので取り消した』と自覚するはず。しかしその場合は、事実とは異なる意識を体験しており、意識が現実そのままの反映ではなく後付けであることを示す証拠の一つになりそう。本当はボタン押し意志の意識より前に取消意志の意識もしくは赤シグナルが来ないと取り消せないのだから。
    > ボタン押しの準備電位と取消指示の赤シグナルのタイミングをシンクロさせるという設定が非常に面白く思えてきました。準備電位が自覚的決断より先にあるがゆえに生じる奇妙さかと思います。
    > そういう点からも、実際の被験者がどういう意識を自覚するのか(ボタン押しの意志・取消の意志の有無と順番)、そして取消の準備電位はどのタイミングで計測されるのかされないのか。知りたいです。
    >
    > ただし、こういう場合、私の勘違いということも多いので、おかしいと思われましたらご指摘ください。
引用返信/返信 削除キー/
■11868 / inTopicNo.66)  Re[10]: 経典
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/14(Wed) 11:33:16)
    No11859に返信(pipitさんの記事)
    pipitさん おはようございます!

    『マールキャプッタ経』の紹介ありがとうございます。
    素晴らしいです!
    禅の「あるがまま」にも通じそうな。


    光明寺さんの訳で、
    『彼が〈色〉を見、また〈受〉に近づくにしても、
    それが滅び、積まれないように、そのように彼は念をもっておこなう。』

    最初自分がバカで「滅び積まれ-ない」と読んで意味が分からなかったのですが、
    それが消え去るように、それが積み上げられないように する
    ですね。
    ところで3人の方の英訳では、それぞれ
    ・He'll pull down the pile, not build it up.
    ・you wear away, you don’t heap up.
    ・it falls away and doesn't accumulate.
    最初の2つは、人の側の主体が強めに見えます。
    光明寺さんも、その全体を「そのように彼は念をもっておこなう。」と人を主体にくくっていますが…。

    なんでこんなことを書いているかと言うと。
    座禅で、様々な思いが湧いてきても、取り合わずそのまま放っておけと言う。
    打ち消そうとか、考えまい、とかもしない。勝手に湧いてきて勝手に消え去るのにまかせる。
    その思いを消そうとするのも逆に固執である。(結果的にかえって積み上げることにもなりかねない。)
    白雲自去来 
    雲は勝手にやってきて勝手に去っていく

    そんなことに引き付けて
    目が見た光景耳が聞いた音は、ほうっておけば消え去る、そのままにまかせる。集めて積み上げようとしない。
    という読み方を自分がしたので、そのあたりの訳が目に付いたのでしょう。

    これは自分自身の先入観にもとずく読み方であるかもしれません。最初に「あるがままにつながりそう」と書いたことも。

    しかし、それらの知覚を束ねる主体・アートマンがあるかないかというのが元の話だったので、関係はあるかな。

    「(そのように彼は)念をもっておこなう。」がどういうことなのか。どうすれば『それが滅び、積まれないように』なるのか。
    解釈は分かれるのかな?

    > 2021/04/14(Wed) 06:54:53 編集(投稿者)
    >
    > おくたがわさん、こんばんは♪
    >
    > ■No11852に返信(おくたがわさんの記事)
    >>https://www.youtube.com/watch?v=mYcnUX7kLc8
    >>馬場 紀寿「仏教が説く秩序の形成と崩壊」
    >>
    >>この動画で
    >>仏教が説く認識(十二処)として
    >>目 - 色
    >>耳 - 声
    >>などそれぞれの知覚器官がそれぞれの対象を認識しているだけであり、それらを統括するような主体(アートマン)は無い。それぞれの器官によるアンサンブルがあるだけだ。
    >>と言っています。
    >>そうすると、仏教では自由意志はないということでしょうか?<
    >
    > 自由意志の、【自由】についての定義が、仏教的にはややこしそうなので、
    > とりあえず置かせてもらって、
    > その前段階の十二処の箇所についてのことで書き込みさせていただきますね。
    > アンサンブルがあるだけという意見のもとになってるのかなと思うたくさんの経典の中の一つをご紹介しますね。(勘違いしてたらすみません)
    >
    > 『マールキャプッタ経(SN35-95)』です。
    > パーリ語の原文は、
    > https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_IV_utf8.html#pts.072
    > です。
    > いろいろな方による訳がインターネットで読めます。
    > (Thanissaro Bhikkhuさまの英訳)
    > https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.than.html
    > ========
    > (Maurice O'Connell Walsheさまの英訳)
    > https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html
    > ========
    > (莊春江さまの中国語訳)
    > https://suttacentral.net/sn35.95/zh/zhuang
    > ========
    > (光明寺住職さまによるサイト【光明寺経蔵】に日本語訳があります。著作権侵害になるといけないので、アドレス情報を貼るにとどめます。(^人^))
    > https://komyojikyozo.web.fc2.com/
    > 相応部>六処篇>六処相応>六品・の2番目「マールキャプッタ経(SN35-95)」
    > M&#257;lu&#7749;kyaputtasutta&#7747;
    > ========
    > Bhikkhu Sujato さまの英訳
    > https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato
    >
    >
    > 長くなるので、続きは、『純粋理性批判を読んでみる』トピに投稿しますね。
    > わたしが他掲示板に投稿した文章を再投稿しようかと思っています。
    >
    > どの角度から物事をみるか、とりあげるか、ということが難しいですが、
    > 仏教の『八正道』の一つ、正精進はwikiでは、パーリ経典からの訳として、
    >
    > 『比丘たちよ、正精進とは何か。
    >
    > 未発生の不善は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。
    >
    > 発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。
    >
    > 未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。
    >
    > 発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。
    >
    > 比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。』
    >
    > とあり、パーリ仏典では、つとめ励むこと、は、とても大切にされてると思っていますが、
    > 大乗仏教ではまたいろいろな教えで説かれてるのかもしれませんね。

引用返信/返信 削除キー/
■11864 / inTopicNo.67)  Re[11]: 志(チェータナー)
□投稿者/ pipit -(2021/04/13(Tue) 21:47:39)
    knowing itselfさん、こんばんは ! (^o^)/ ♪ ♪

    No11861
    > テーラワーダのアビダンマによると、どんな心にも必ず現れる・欠かせない心所が7つあります。その中に「志(チェータナー)」というのがあって、これが意志の働きそのものという感じです。西洋哲学の伝統的な自由意志ほど純粋なものではないですが、人間が思いや行動を制御していく方向づけの機能だと思います。仏教で重要な「業」も、「志」と深い関わりがあるようです。<

    意志が業である、とわたしは言います、とお釈迦さまが説く経文もあったような(・・?)
    いろんなこと、対話するときにはすごくややこしくなりそうですよね。

    なにを『自由』と言うのか、という問題もありますよね。

    わたし、十二因縁の『行』も意志っぽいと思ってて、
    最終的に無明が滅すると行も滅するのかな、って。
    ここらへんのことも、対話がすごくややこしくなりそうですよね。

    自分でみえたらいいんだけどなぁ

    レスありがとうございます(o^^o)




引用返信/返信 削除キー/
■11861 / inTopicNo.68)  志(チェータナー)
□投稿者/ knowing itself -(2021/04/13(Tue) 21:25:38)
    横レス失礼します。

    テーラワーダのアビダンマによると、どんな心にも必ず現れる・欠かせない心所が7つあります。その中に「志(チェータナー)」というのがあって、これが意志の働きそのものという感じです。西洋哲学の伝統的な自由意志ほど純粋なものではないですが、人間が思いや行動を制御していく方向づけの機能だと思います。仏教で重要な「業」も、「志」と深い関わりがあるようです。
引用返信/返信 削除キー/
■11859 / inTopicNo.69)  経典
□投稿者/ pipit -(2021/04/13(Tue) 20:59:08)
    2021/04/14(Wed) 06:54:53 編集(投稿者)

    おくたがわさん、こんばんは♪

    No11852に返信(おくたがわさんの記事)
    > https://www.youtube.com/watch?v=mYcnUX7kLc8
    > 馬場 紀寿「仏教が説く秩序の形成と崩壊」
    >
    > この動画で
    > 仏教が説く認識(十二処)として
    > 目 - 色
    > 耳 - 声
    > などそれぞれの知覚器官がそれぞれの対象を認識しているだけであり、それらを統括するような主体(アートマン)は無い。それぞれの器官によるアンサンブルがあるだけだ。
    > と言っています。
    > そうすると、仏教では自由意志はないということでしょうか?<

    自由意志の、【自由】についての定義が、仏教的にはややこしそうなので、
    とりあえず置かせてもらって、
    その前段階の十二処の箇所についてのことで書き込みさせていただきますね。
    アンサンブルがあるだけという意見のもとになってるのかなと思うたくさんの経典の中の一つをご紹介しますね。(勘違いしてたらすみません)

    『マールキャプッタ経(SN35-95)』です。
    パーリ語の原文は、
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sltp/SN_IV_utf8.html#pts.072
    です。
    いろいろな方による訳がインターネットで読めます。
    (Thanissaro Bhikkhuさまの英訳)
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.than.html
    ========
    (Maurice O'Connell Walsheさまの英訳)
    https://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn35/sn35.095.wlsh.html
    ========
    (莊春江さまの中国語訳)
    https://suttacentral.net/sn35.95/zh/zhuang
    ========
    (光明寺住職さまによるサイト【光明寺経蔵】に日本語訳があります。著作権侵害になるといけないので、アドレス情報を貼るにとどめます。(^人^))
    https://komyojikyozo.web.fc2.com/
    相応部>六処篇>六処相応>六品・の2番目「マールキャプッタ経(SN35-95)」
    M&#257;lu&#7749;kyaputtasutta&#7747;
    ========
    Bhikkhu Sujato さまの英訳
    https://suttacentral.net/sn35.95/en/sujato


    長くなるので、続きは、『純粋理性批判を読んでみる』トピに投稿しますね。
    わたしが他掲示板に投稿した文章を再投稿しようかと思っています。

    どの角度から物事をみるか、とりあげるか、ということが難しいですが、
    仏教の『八正道』の一つ、正精進はwikiでは、パーリ経典からの訳として、

    『比丘たちよ、正精進とは何か。

    未発生の不善は、これが生じないよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。

    発生した不善は、これを解消するよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。

    未発生の善は、これが生じるよう、比丘らは関心を持って努力し精進することである。

    発生し成された善は、これが拡大するよう、比丘たちが関心を持って努力し精進することである。

    比丘たちよ、これを正精進と呼ぶ。』

    とあり、パーリ仏典では、つとめ励むこと、は、とても大切にされてると思っていますが、
    大乗仏教ではまたいろいろな教えで説かれてるのかもしれませんね。




引用返信/返信 削除キー/
■11852 / inTopicNo.70)  Re[8]: リベットの実験について
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/13(Tue) 10:19:47)
    https://www.youtube.com/watch?v=mYcnUX7kLc8
    馬場 紀寿「仏教が説く秩序の形成と崩壊」

    この動画で
    仏教が説く認識(十二処)として
    目 - 色
    耳 - 声
    などそれぞれの知覚器官がそれぞれの対象を認識しているだけであり、それらを統括するような主体(アートマン)は無い。それぞれの器官によるアンサンブルがあるだけだ。
    と言っています。
    そうすると、仏教では自由意志はないということでしょうか?

    それで今 「自由意思 仏教」でググってみたら愚さんの動画が表示されました。
    https://www.youtube.com/watch?time_continue=8&v=HBjbfDeLn8w&feature=emb_logo
    151125 KB会:思考は自発的ではない、自由意志はない_1:13:20 / 2:20:46

    まさに 自由意志はないという表題
    (仏教についてそんな基本的(?)なことも知らなかった自分…)
引用返信/返信 削除キー/
■11851 / inTopicNo.71)  Re[7]: リベットの実験について
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/13(Tue) 10:15:38)
    『「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果』
    https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

    ちょっと思ったこと。
    通常ならボタン押し準備電位発生=赤ランプ から0.3秒後にボタン押しの顕在意識が自覚できるはず。すると、この実験では取消せと示唆する赤シグナルより遅れてボタンを押すという自覚的意志がノコノコ現れることになるのか…。
    この紹介サイトでは
    『そして今回の実験によって示されたのは、まさに脳からの司令を拒否するのは可能だということである。ただし、後戻りできないポイントというのは確かに存在する。実験では、ボタンを押す約0.2秒前までならば、動作を中断、または拒否することが可能であったという。0.2秒を下回ると、ボタンを押す動作は止められなかった。』
    こう結論しています。
    動作の約0.2秒前というのは通常は顕在意識が動作を意志するタイミング。準備電位からは0.3〜0.35秒後。
    その時点に間に合うとは、何が間に合う 何が動作の0.2秒前までと言っているのか。
    『赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタンを押すのを中断、または、拒否できるかどうかを調べた。』
    というのだから「取り消す」という顕在意識は生じるという前提のよう。
    その取消そうという顕在意識が動作の0.2秒前までに為されれば間に合うという意味だとしたら、赤ランプ点灯より少し意志が遅れてしまいボタン押し動作予定の0.2秒前(通常ならボタン押しの意志が発生するタイミング)より遅れると取り消せないということか。あるいは、赤ランプのタイミングをズラして色々試したか。
    いずれにしても、ボタン押しの意志が生じるタイミングより前に取消しの意志もしくは指示が出るときだけ取り消せるということになりそうなのですが…
    その取り消せる場合、ボタンを押すという意志の顕在意識はどうなるのか。
    普通に考えると被験者は『緑の間にボタン押しを決定したが、赤になったので取り消した』と自覚するはず。しかしその場合は、事実とは異なる意識を体験しており、意識が現実そのままの反映ではなく後付けであることを示す証拠の一つになりそう。本当はボタン押し意志の意識より前に取消意志の意識もしくは赤シグナルが来ないと取り消せないのだから。
    ボタン押しの準備電位と取消指示の赤シグナルのタイミングをシンクロさせるという設定が非常に面白く思えてきました。準備電位が自覚的決断より先にあるがゆえに生じる奇妙さかと思います。
    そういう点からも、実際の被験者がどういう意識を自覚するのか(ボタン押しの意志・取消の意志の有無と順番)、そして取消の準備電位はどのタイミングで計測されるのかされないのか。知りたいです。

    ただし、こういう場合、私の勘違いということも多いので、おかしいと思われましたらご指摘ください。
引用返信/返信 削除キー/
■11850 / inTopicNo.72)  Re[6]: リベットの実験について
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/13(Tue) 10:10:41)
    No11473に返信(パニチェさんの記事)
    こんばんは。すごく間があいての返信で、すみません。

    https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    実験について自分が正確に理解していたかどうかこころもとないので、大事と思われるところを自分用に列記します。
    1シグナルが緑ならボタンを押せる(ボタンを押すという意志決定ができる)
    2その際に現れる準備電位から実際にボタンを押すまでの時間は練習段階で平均0.5秒と計測された
    3(いったんボタン押しを志向しても)シグナルが赤になったらボタン押しを取り止めるよう訓練された。
    4本番の実験では、ボタン押しの準備電位が観測された時点で赤いシグナルを出した。ここは重要。テストに出る。
    5つまり、押す準備電位が生じた後でも赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタン押しを拒否できるかどうかを調べた。

    (2について、リベットでは 0.35+0.2=0.55秒だと思いますが、この実験では足でボタンを押すことで準備電位の発生をわずかに遅らせると書かれているので、それが0.05秒の差なのか。)

    > >>リンク先の実験で疑問に思う点は二つあります。
    > >>ひとつは中断する意思決定の準備電位は発生しているのかどうか、もし発生しているとするとそれは何秒前か?ということです。
    >
    >>その準備電位が発生していたら自由意志否定への反論にならないのではないでしょうか?
    >>もちろん「拒否」の顕在意識があって後に準備電位があれば明確な反論になると思いますが、そのような決定的な観察結果があれば明記されているはずと思われ。
    >>ボタン押す準備電位→顕在意識による意思→ボタン押し という行為決定のセットとは異なる仕組み・経路で「拒否」が割り込むということではないでしょうか。
    >
    > これは反論というより疑問です。
    > もし赤シグナルを察知して咄嗟的にボタンを押すことを中断する動作に準備電位が生じていたとしたら、緑シグナル時にボタンを押そうとする際に発生する0.35秒前の準備電位よりも短時間(もっと素早い時間)で発生することになり(そうでないと中断できない)、そうなると緑シグナル時の準備電位と赤シグナルの準備電位の差は何か?という新たなる疑問が生じます。

    取消の準備電位が生じるとしたら、ボタン押し準備電位発生=赤ランプよりも後で、そしてそこから→意識的拒否→実行為までの時間がボタン押しより短い場合のみ間に合うということになりそうですね。

    > 仮に赤シグナルの準備電位は反射的な動作に際して発生するものであるなら、これを自由意志による中断と見なすかどうかを論じる必要が生じる(赤シグナルによる中断に準備電位が発生しないなら、なおさら緑シグナルとの差異が明確になる)のではないか?という疑問です。
    >
    > >>二つ目は中断したのは自由意志によるものではなく、脊髄反射的なものではないか?ということです。つまり意思決定に際する準備電位を打ち消したのは自由意志ではなく(訓練によって習得した)反射ではないか?という疑問です。
    >>私も『赤のシグナルが現れたときには、ボタンを押すのを止めるように訓練された』という部分が引っかかりました。それは自由意志の証明になるのか…
    >
    > 同意です。一つ目の疑問もこれを土台とした疑問であり、それを準備電位が発生する時差あるいは発生するかしないかを検証するべきではないか?と考えたわけです。

    分かりました。パニチェさんの疑問は自分も共有できているように思います。準備電位の有無やタイミングを知りたいです。
    準備電位のタイミングについて気づいたことがあるのですが、少し話がズレるかもしれないので、後であらためて投稿します。

    > >>上記の実験は自由意志による行為より反射の方が速度的に(ショートカット経路によって)上回るので、反射は自由意志による行為を抑え込めることができるということの証明であって、自由意志に関する検証にはならないのではないか?という疑問です。
    > >>さらに言えば、突如現れた蛇を避けるために通常の認識経路ではなく、扁桃体経由のショートカットで反射的に飛び退くような動作を自由意志とするかどうか。言いかえれば何をもって自由意志とするか?という言葉の定義問題にも発展しそうな結果だと思います。

    同感です。科学的な知見に合わせて自由意志の定義を変えていくとしても、本来自由意志のなにが大事なのかも問われることになりそう。


    準備電位から動作までの0.5秒の間に発動できる拒否が思考による判断ではなく、反射的なものの場合、生得的な反射ではなく学習によって身に付くものがあるとして、その学習をするという決断まで自由意志が遡るのか。しかしそうなると、そもそもの問題は未解決になりそう。
    また、教育(価値観・判断基準の植え込み)と自由意志の関係とか。

    >>そもそもの、準備電位が顕在意識より先にあるから自由意志は幻想ではないか という問題について反論なり解決になっているかどうか私には分かりませんでした。
    >
    > 無意識時に脳が反応して、それを後付けで自分の意志であるかのように考えていたら、自由意志があるという主張は説得力があまりないように思えます。
    > 要するに私たちは外部刺激という人形師とこれに反応する神経系(脳も含めた)に操られたマリオネットってことにもなります。
    >
    >>無意識が提示してくる様々な行為の準備に対し、それを拒否するかそのまま実行するかを選べる別なシステムがある。それらの総合で実際の人の行いがきまる。という仕組みが示唆される気がするのですが、仮にそうだった場合にも、そのどの部分に自由意志があるかないか、という問題は難しいままのような気がしています。
    >
    > おくたがわさんは、例えば腱反射には自由意志が入り込む余地があると思いますか?

    腱反射と言うのは脚気のテストみたいなのですか。自由意志は入らないのではないでしょうか。詳しく知らないので直観的にですが。

    > なんか昔々に鮭場と議論(ディベート)した「信号機に意志はあるのか?」が思い出されます。^^

    その話題で議論されていたのは憶えているのですが、内容は思い出せませんすいません。

    >>もしかしたら理解できず、トンチンカンを書いているかもしれません。
    >
    > 全然トンチンカンだとは思いません。むしろ心地よい知的な刺激になるレスです。^^

    ありがとうございます。
    しかし、自分が分かっていなくて変なことを書いている可能性というのをいつも感じます。今回も。

    遅レスでもありますし、返信は自由意志におまかせします。


    追記
    ある動画では、
    身体に対して「歩け」と指令を出す脳の部位に対して「歩けと指令を出せ」と指令を出す脳部位があり、さらにそこに指令を出す部位がある
    そういうことが分かってきて自由意志の問題がさらに難しくなっている
    というようなことを言っていました。
    たしか↓これだったと思います
    https://www.youtube.com/watch?v=wPXLUxkqEt8
    酒井邦嘉「脳から見る人間の言語と心」

引用返信/返信 削除キー/

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