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■11381 / inTopicNo.1)  哲学全般、科学(科学哲学)、仏教etc 6
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/11(Thu) 20:44:57)
    「〈私〉について 11」トピも兼ねる

    ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、科学哲学など哲学全般

    脳科学、進化論、物理(相対性理論、量子力学)

    初期仏教、中論、唯識、華厳、大乗仏教などなど

    上記でなくても何でもどうぞ♪
引用返信/返信 削除キー/
■11383 / inTopicNo.2)  Re[1]:ニーチェの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/12(Fri) 21:18:11)
    パニさん、ちょっと聞いていい?

    わたしニーチェのは『善悪の彼岸』のほかに、工藤綏男さんの「ニーチェ」っていう本を読んだことあるだけど、そのなかに、

    〔‥‥ニーチェほど、危険な誤解をさそう思想家もないであろう。たとえば、神が死んだ、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」(『ツァラトゥストラ』第四部、影)…〕

    ってあったんだけど、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」って、彼、本当にそう言ってるの? 


引用返信/返信 削除キー/
■11384 / inTopicNo.3)  リベットの実験について
□投稿者/ rest -(2021/03/12(Fri) 22:37:34)
    2021/03/12(Fri) 22:57:30 編集(投稿者)

      自由意志が存在するかどうかについてリベットの実験についての考察があります。自由意志は存在するそうです。ただし0.2秒間だけだそうです。詳しくは次の通りです。


      https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

     脳の準備電位が決定した後これを拒絶できるということを示したということは自由意志の存在を示したことになります。
     カントの『純粋理性批判』における第三アンチノミーで展開された「自然因果性」の決定論的傾向を我慢することによって「自由因果性」である選択可能性を広げて自由意志の存在を示したことと共通するものがあります。
引用返信/返信 削除キー/
■11385 / inTopicNo.4)  Re[2]: :ニーチェの
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/12(Fri) 22:42:23)
    2021/03/13(Sat) 10:46:29 編集(投稿者)

    No11383に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > パニさん、ちょっと聞いていい?
    > わたしニーチェのは『善悪の彼岸』のほかに、工藤綏男さんの「ニーチェ」っていう本を読んだことあるだけど、そのなかに、
    > 〔‥‥ニーチェほど、危険な誤解をさそう思想家もないであろう。たとえば、神が死んだ、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」(『ツァラトゥストラ』第四部、影)…〕
    > ってあったんだけど、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」って、彼、本当にそう言ってるの? 

    上記はニーチェの主著である「ツァラトゥストラ」という物語の中に出てくる影(ツァラトゥストラのネガティブな部分の分身)という登場人物が吐いた言葉(ツァラトゥストラというストーリーの中のひとつの台詞)なので、あまり参考にはなりませんし、直接的なニーチェの言葉ではないです。

    以前に引用した以下が真理に関するニーチェのスタンスです。

    『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである(悦ばしき知識 第354番)』

    『真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である。(力への意志 第493番)』

    『「これこれのものはこうであると私は信ずる」という価値評価が、「真理」の本質にほかならない。(力への意志 第507番)』

    『真理とは何か?──惰性のことである。精神的力の最小の消費その他という満足を生ぜしめる仮説そのもの(力への意志 第537番)』


    真理の有無ではなく我々の感覚器官は真理なるものを認識する能力はないだろうということ。
    例えて言うなら、視覚ひとつをとってもコウモリが超音波でもって捉える世界や複眼で捉える世界などなどもあるわけで、感覚器官に世界の在り様が再現されたものである以上、その真偽は判断不可能であるみたいな話です。

    固定的かつ絶対的なもの(真理)を欲するがためにでっち上げる(捏造する)のは、無知無能な人間の無いものねだり(裏返し)程度でしかないというような感覚だと思います。


    また「一切のことは許される」という台詞は、キリスト教の原罪など生が罪深いものとしたり、最後の審判(神によって下される許されるべきものと許されないもの)に対するアンチテーゼ的な台詞であると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■11387 / inTopicNo.5)  Re[3]: リベットの実験について1
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 07:53:45)
    2021/04/17(Sat) 08:52:40 編集(投稿者)

    おはようございます、restさん。横レス失礼します。

    No11384に返信(restさんの記事)

    > 自由意志が存在するかどうかについてリベットの実験についての考察があります。自由意志は存在するそうです。ただし0.2秒間だけだそうです。詳しくは次の通りです。

    > https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

    > 脳の準備電位が決定した後これを拒絶できるということを示したということは自由意志の存在を示したことになります。
    > カントの『純粋理性批判』における第三アンチノミーで展開された「自然因果性」の決定論的傾向を我慢することによって「自由因果性」である選択可能性を広げて自由意志の存在を示したことと共通するものがあります。


    興味深いリンクをありがとうございました。
    リベットは「マインド・タイム」を読みました。
    カントはある見解において脳科学が到達した知見に先駆けていたということは同意です。

    リンク先の実験で疑問に思う点は二つあります。

    ひとつは中断する意思決定の準備電位は発生しているのかどうか、もし発生しているとするとそれは何秒前か?ということです。

    二つ目は中断したのは自由意志によるものではなく、脊髄反射的なものではないか?ということです。つまり意思決定に際する準備電位を打ち消したのは自由意志ではなく(訓練によって習得した)反射ではないか?という疑問です。

    上記の実験は自由意志による行為より反射の方が速度的に(ショートカット経路によって)上回るので、反射は自由意志による行為を抑え込めることができるということの証明であって、自由意志に関する検証にはならないのではないか?という疑問です。

    さらに言えば、突如現れた蛇を避けるために通常の認識経路ではなく、扁桃体経由のショートカットで反射的に飛び退くような動作を自由意志とするかどうか。言いかえれば何をもって自由意志とするか?という言葉の定義問題にも発展しそうな結果だと思います。




引用返信/返信 削除キー/
■11388 / inTopicNo.6)  youtube 意識は幻想か
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 08:37:24)
    2021/03/13(Sat) 10:10:46 編集(投稿者)

    おくたがわさん、面白い動画の紹介をありがとうございました。
    以下は好き勝手に思ったことをカキコします。

    受動意識仮説はありえるとは思いますが、結論から言えば自由意志の有無も含めてペンディングです。
    時間のカットや後付け解釈は支持します。

    エピソード記憶を形成するために意識が生じたという仮説は疑問です。
    理由は次のような点です。

    ゴキブリの迷路学習はエピソード記憶ではなく意味記憶と考えるのか?
    そうなるとエピソード記憶と意味記憶の線引きはどこにとるのか?

    個人的にはエピソード記憶というのは言語的な記憶(言語的に保存され再現される時に映像化される)であり、その根拠としては物心がつく時期と言葉を習得する時期がかぶるということ。

    霊長類にもエピソード記憶を認める見解には賛成で言葉とは言語に限らず、ボディーランゲージも含まれるということ。意識と無意識がグラデーション的であるように、動物や脳の構造の違いによる意識と無意識も境界とか境目というものがない。よってエピソード記憶と意味記憶、手続き記憶も明確に分別できるようなものではないのではないか?(言葉によるラベリングに翻弄されているだけはないのか?)

    ロボットに意識が生じるのかについては如何にも唯物論的な考え方。
    意識やクオリアを有する人間と哲学的ゾンビに差異はないという発想は、1980年のジョン・サールによる「中国語の部屋」への代表的な反論として既に論じられており目新しくはない。哲学について触れているにもかかわらず「意識」とか「クオリア」は論じるが、〈私〉については全く考察されていない。

    東洋哲学との親近性は無我(相依性縁起と無自性)と受動意識仮説の共通性にあると思いますが、今のところパニチェは初めに〈私〉がありきで、そこから意識やクオリア、言語やエピソード記憶が形成される(纏わる)と考えています。

    ニューロンの発火がある一定範囲に及んだ時に意識的活動となるというのはフランシス・クリック&クリストフ・コッホによる「意識ガンマ波説」と同じですね。
    詳しくは。。。
    「Panietzsche Room > 探究 > 脳科学 > 4.意識のガンマ説」にまとめてあります。


    無我と非我については別の機会に。。。^^

引用返信/返信 削除キー/
■11389 / inTopicNo.7)  Re[5]: ニーチェ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 13:07:44)
    ■11385 、パニさん、ありがとうございます。

    もうちょっと。「カント」の本の中に、

    〔ニーチェにとって女性とは、ギリシア市民たちの女性観がそうであってあったように、愛の対象というよりはむしろ、男のために家政をととのえ、強健な子どもを産み育てるという使命を果たすべきものであった。この使命を忘れて男女の同権を主張する女史たちは、自分が女としての資性に欠けていることを自認しているようなもので、愚劣きわまることのように思われた。〕
    ってあって、
    オランダの女流音楽家マティルダ=トランペダッハや、ニーチェの女弟子ルー=サロメにフラれたって書いてあったけど、このへんどうなの?

引用返信/返信 削除キー/
■11392 / inTopicNo.8)  Re[6]: ニーチェ
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 17:51:03)
    No11389に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11385 、パニさん、ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > もうちょっと。「カント」の本の中に、

    > 〔ニーチェにとって女性とは、ギリシア市民たちの女性観がそうであってあったように、愛の対象というよりはむしろ、男のために家政をととのえ、強健な子どもを産み育てるという使命を果たすべきものであった。この使命を忘れて男女の同権を主張する女史たちは、自分が女としての資性に欠けていることを自認しているようなもので、愚劣きわまることのように思われた。〕
    > ってあって、
    > オランダの女流音楽家マティルダ=トランペダッハや、ニーチェの女弟子ルー=サロメにフラれたって書いてあったけど、このへんどうなの?

    ザロメには思いっきりフラれてます。(笑)
    以下、「NIETZSCHE WONDERLAND > ニーチェ伝 > 哲学成熟期」より

    ******************************************

    「永劫回帰」を受胎した同年、ニーチェは教養人が出入りするサロンでパウル・レーと知り合いローマ旅行に招待される。
    同じくサロンの常連でもありレーの友人でもあった帝政ロシアの将軍グスタフの娘、ルー・アンドレアス・ザロメとローマのサンピエトロ寺院近くで出会う。ルーはニーチェの独創的な思想に魅せられ、互いの思想に共鳴し意気投合した三人は、思想の完成を目的としたパリでの奇妙な共同生活を夢想するが、周囲の反対にあい実現しなかった。
    その後、ルーやレーとの親密で楽しい日々を過ごすうちに、ニーチェは最大の理解者であるルーを理想の伴侶として思い描くようになりプロポーズするに至る。

    ルーのニーチェに対する思いは恋情ではなく友情であったため、二度の求婚もニーチェの独り相撲に終わる。
    不幸なことにレーもルーに対して恋愛感情が芽生えており、ベルリンでの同棲計画を実行に移そうとしていた矢先でもあった。その上、嫉妬深いニーチェの妹エリーザベトからレーとルーがニーチェを中傷しているという情報ももたらされ、ニーチェは失恋と友情の破綻、最大の理解者の喪失という三重の孤独の中に沈んでいく。
    後年、ルーはベルリンで多くの著名人と交流を深め、ライナー・マリア・リルケからの求婚もやはり断り、ジークムント・フロイトに師事し自らも精神分析家として活躍した。

    *************** 引用終わり ***************

    さらにニーチェの女性観は自分が求める理想像を押し付けている感じはします。。。と言いつつ、ある意味ではある種の男性が描く男尊女卑かも知れないが本音としての理想像でもあるかもしれませんが、これを実際に女性に求める男はモテないだろうし、総スカンを食らうでしょうね(笑)。
    以下、「ツァラトゥストラ 老若の女どもについて」よりの引用

    ******************************************

    女における一切は謎であり、そして女における一切は一つの解決を持つ。それはつまり妊娠だ。男は女にとって一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、女は男にとって何であるのか?
    真の男は二つの違ったことを欲する。すなわち危険と遊戯だ。それゆえ、真の男は女を最も危険な玩具として欲する。男は戦争向きに教育されるべきであり、女は戦士の休養向きに教育されるべきである。そのほかの一切は愚かなことだ。
    もろもろの、あまりにも甘すぎる果実──戦士はそれを好まない。それゆえ、戦士は女を好む。最も甘い女でさえも苦いのだ。
    男より女の方が子供をよく理解する。だが、男は女より子供っぽい。真の男の内部には、一人の子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。さあ、そなたら女性たちよ、是非とも男の内部の子供を発見せよ!女は、まだ現存しない一つの世界の諸徳に照明されて、宝石のように清純で優雅な、一個の玩具であれ。一つの星の光線がそなたたちの愛のうちに輝いてあれ!そなたたちの希望は、つまりこうであれ、「わたしは超人を産みたい!」

    *************** 引用終わり ***************

    元従軍慰安婦が戦場売春婦か知らんけど、今読んだら怒るでしょうねぇ〜(笑)

引用返信/返信 削除キー/
■11394 / inTopicNo.9)  Re[7]: ニーチェ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 19:21:12)
    ■11392、パニさん、ニーチェについてよく知ってる。さすが!
    聞いてよかった。パニさん、ありがとございます。

    でも、
    >元従軍慰安婦が戦場売春婦<
    に絡めるのどうかと思うけどね。
    その後の「男女同権」っていうこと自身へんなんだよね。

    >女における一切は謎であり、そして女における一切は一つの解決を持つ。それはつまり妊娠だ。男は女にとって一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、女は男にとって何であるのか?<

    ニーチェって、人間の分類の仕方として、男と女っていう「性」で見てるんじゃないかってわたし思ってるのね。わたし『善悪の彼岸』を読んでそう感じたの。

    いまは違うよね。科学的に「性」の概念が変わってきてる。科学的に見ると、「性」に関しては、「ヘテロ」「ホモ」そして「トランスジェンダー」みたいなことが言われてるようだけどね。でも、もう一つないと性の分類は成立しな感じしてる。ま、これはどうでもいいわ。

    『善悪の彼岸』の「序言」の書きだしは、こうね。

    【真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解するにかけては拙(まず)かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣(や)り口ではなかったか。女たちが籠絡(ろうらく)されなかったのは確かなことだ。…】

    で、ところでニーチェは、その【女(あま)っ子】たちを籠絡できたのかしら?
    どうもそうじゃなかったみたいじゃない?

    わたし、ニーチェのについて受け入れてるところは、
    >目的はつねに子供なのだ<
    ってう言うところ。

    もうちょとパニさんに聞いちゃうね。「カント」っていう本のなかに、

    〔…ニーチェによれば、明暗・表裏を含めての生存の全体を大きく肯定し、ありのままの存在と軽快に遊び戯むれる無垢なる小児の立場こそが、「存在の主」としての本来の自分をとりもどす人間回復の自由を可能ならしめるものである。…〕

    って、書いてあるけど、ここんとこどうなのかしら?






















引用返信/返信 削除キー/
■11395 / inTopicNo.10)  Re[8]: ニーチェ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 19:33:20)
    ■11394 、あ、ごめんなさい。
    >もうちょとパニさんに聞いちゃうね。「カント」っていう本のなかに<
    ってって書いちゃったけど〈「ニーチェ」っていう本〉のまちがいです。


引用返信/返信 削除キー/
■11397 / inTopicNo.11)  Re[8]: ニーチェ
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 20:30:38)
    2021/03/13(Sat) 22:00:49 編集(投稿者)

    No11394に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11392、パニさん、ニーチェについてよく知ってる。さすが!
    > 聞いてよかった。パニさん、ありがとございます。

    どういたしまして。

    > でも、
    > >元従軍慰安婦が戦場売春婦<
    > に絡めるのどうかと思うけどね。

    そやね。でも『男は戦争向きに教育されるべきであり、女は戦士の休養向きに教育されるべきである。』ってなくだりがあったから、ついつい。。。(笑)


    > その後の「男女同権」っていうこと自身へんなんだよね。
    > >女における一切は謎であり、そして女における一切は一つの解決を持つ。それはつまり妊娠だ。男は女にとって一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、女は男にとって何であるのか?<
    > ニーチェって、人間の分類の仕方として、男と女っていう「性」で見てるんじゃないかってわたし思ってるのね。わたし『善悪の彼岸』を読んでそう感じたの。
    > いまは違うよね。科学的に「性」の概念が変わってきてる。科学的に見ると、「性」に関しては、「ヘテロ」「ホモ」そして「トランスジェンダー」みたいなことが言われてるようだけどね。でも、もう一つないと性の分類は成立しな感じしてる。

    なるほどね。

    > ま、これはどうでもいいわ。

    了解。

    > 『善悪の彼岸』の「序言」の書きだしは、こうね。

    > 【真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解するにかけては拙(まず)かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣(や)り口ではなかったか。女たちが籠絡(ろうらく)されなかったのは確かなことだ。…】
    > で、ところでニーチェは、その【女(あま)っ子】たちを籠絡できたのかしら?
    > どうもそうじゃなかったみたいじゃない?

    その通り。籠絡できた女性は一人もいなかったと思うよ。

    > わたし、ニーチェのについて受け入れてるところは、
    > >目的はつねに子供なのだ<
    > ってう言うところ。

    へぇ〜、そうなんや。子どもを産まない選択肢も今は大ありやと思うけどね。

    > もうちょとパニさんに聞いちゃうね。「ニーチェ」っていう本のなかに、
    > 〔…ニーチェによれば、明暗・表裏を含めての生存の全体を大きく肯定し、ありのままの存在と軽快に遊び戯むれる無垢なる小児の立場こそが、「存在の主」としての本来の自分をとりもどす人間回復の自由を可能ならしめるものである。…〕
    > って、書いてあるけど、ここんとこどうなのかしら?

    これ説明するとなるとちょい長くなってまうけど、まぁ適当にスルーでもええよ。

    キリスト教的な教義では生の意味や価値や目的はトップダウン且つ画一的に決められてる。
    ニーチェはこれに否を唱え、生はディオニュソス(混沌)で統一した意味や価値や目的などない、純真無垢なキャンパスみたいなもので、そこにどのような絵を描くかは生の主体者である個々人にかかっている。そういう意味では人間は世界や生に意味や価値を付与することが可能なクリエーター(創造者)なんだ、と。

    ツァラトゥストラでは「精神の三変化」を説くシーンがあります。

    ********************************************

    わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。内に畏敬を宿す精神、強くて、重荷に耐える精神にとっては、多くの重いものがある。この精神の強さは、重いものを、最も重いものを欲しがるのだ。何が重いか?重荷に耐える精神はそう尋ねて、ラクダのように、ひざまずき、そして、たっぷりと荷を負わされることを欲する。わたしがわが身に負うて、わたしの強さを享楽すべき、最も重いものは何か、きみら英雄たちよ?重荷に耐える精神はそう尋ねる。

    …《中略》…

    重荷に耐える精神は、これら最も重いもののすべてをわが身に負う。こうして彼は、荷を負わされて砂漠へと急ぐラクダのように、自分の砂漠へと急ぐのだ。だが、この最も寂寥たる砂漠において、第二の変化が起こる。ここで精神はシシになるのだ。彼はみずからの自由をかちとろうとし、自分自身の砂漠において主であろうとするのだ。彼はここで自分にとっての最後の主を捜し求める。彼は最後の主、自分の最後の神に、敵対しようとするのだ。彼は大きな竜と勝利を争おうとするのだ。精神がもはや主とか神とか呼ぶことを欲しない大きな竜とは、どのようなものか?この大きな竜は、「なんじ、なすべし」と呼ばれる。だが、シシの精神は「われ欲す」と言う。「なんじ、なすべし」が、この精神の行く道のかたわらに、金色にきらめきながら、横たわっている。それは一匹の有鱗動物であって、そのうろこの一枚一枚に、「なんじ、なすべし!」が金色に輝いている。これらのうろこには、千年の諸価値が輝いている。そして、あらゆる竜のなかで最も強大な竜は、次のように語る。「諸事物のあらゆる価値──それがわが身に輝いている。」「あらゆる価値はすでに創造された。そして、あらゆる創造された価値──わたしがそれである。まことに、もはや〈われ欲す〉が存在しなくてはならない!」竜はこのように語る。

    わたしの兄弟たちよ、なんのために精神のうちなるシシが必要であるのか?断念し、畏敬の念に充ちた、重荷を負いうる動物では、なぜ充分ではないのか?
    新しい諸価値を創造すること──それはシシもいまだなしえない。だが、新しい創造のための自由を獲得すること──それはシシの権力のなしうることだ。自由を獲得し、義務に対しても或る神聖な否認を行うこと、そのために、わたしの兄弟たちよ、シシが必要なのだ。
    新しい諸価値への権利を取得すること──それは、重荷に耐え、畏敬の念に充ちた精神にとって、最も恐ろしい取得である。まことに、このような精神にとって、それは強奪であり、猛獣のしわざである。
    この精神はかつて「なんじ、なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま彼は、自分の愛からの自由を強奪するために、最も神聖なもののうちにすらも、妄想と恣意とを見出さなくてはならない。この強奪のために、シシが必要なのだ。

    だが、言え、わたしたちの兄弟たちよ、シシもなしえなかった何ごとを、子供はさらになしうるのか?なぜ、強奪するシシは、さらにまた子供にならなくてはならぬのか?子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わたしたちの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ。

    (ツァラトゥストラ 三つの変化について)

    *************** 引用終わり ***************

    ニーチェにとって「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」わけで、生の主体者によって意味や価値を付与された世界には自己の対立物となるものなど存在せず、自己と世界が渾然一体となりえる。
    その世界においてさらなる価値創造を継続するのは、浜辺で砂の城を作っては破壊するような創造と破壊の無垢なる遊戯に高じる子どものような存在に変化するみたいな超人としての象徴的な喩えです。

    人として生まれた特権は世界に意味や価値を創出しつつ自己超克し続けることであり、絶対的な真理やトップダウンの善悪二元論道徳は、本来ダイナミックであるはずの生や個性豊かで多様な側面をもつ人間ならではの特権を画一化し弱体化させるばかりか、畜群動物へと後退させるようなマイナス要素があるということを看破したのだと思います。

    「汝なすべし」という定言命令を背負い力強い足どりで砂漠をゆく駱駝は牧師の長子として生まれたニーチェの幼少期から青年期、「我欲す」という力への意志からの雄叫びとともに自己超克の闘争に挑み続ける獅子はアンチクリストやインモラリストとしての哲学者ニーチェ、「然り」という聖なる肯定をもって無垢なる遊戯に高じる子供は発狂後のディオニュソスと化したニーチェのようで、ニーチェの生涯自体が精神の三変化と対比できるところも興味深いです。
引用返信/返信 削除キー/
■11400 / inTopicNo.12)  Re[4]: リベットの実験について
□投稿者/ rest -(2021/03/13(Sat) 23:07:58)
    No11387に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/03/13(Sat) 09:40:49 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、restさん。横レス失礼します。
    >
    > ■No11384に返信(restさんの記事)
    >
    >>自由意志が存在するかどうかについてリベットの実験についての考察があります。自由意志は存在するそうです。ただし0.2秒間だけだそうです。詳しくは次の通りです。
    >
    >>https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    >
    >>脳の準備電位が決定した後これを拒絶できるということを示したということは自由意志の存在を示したことになります。
    >>カントの『純粋理性批判』における第三アンチノミーで展開された「自然因果性」の決定論的傾向を我慢することによって「自由因果性」である選択可能性を広げて自由意志の存在を示したことと共通するものがあります。
    >
    >
    > 興味深いリンクをありがとうございました。
    > リベットは「マインド・タイム」を読みました。
    > カントはある見解において脳科学が到達した知見に先駆けていたということは同意です。
    >
    > リンク先の実験で疑問に思う点は二つあります。
    >
    > ひとつは中断する意思決定の準備電位は発生しているのかどうか、もし発生しているとするとそれは何秒前か?ということです。

    意味はわかります。中断する意思決定の準備電位が最終的には決めているのではないかという疑問だと思います。しかしその準備電位の決定も中断することができますので無限連鎖になります。そうならないで一次中断で済んでしまうのは自由意志による選択があるからです。二次中断をしないという選択です。それも準備電位が先行しますがそれを受け入れるか受け入れないかの選択の自由があるのです。準備電位と自由意志は相関関係はあるとは思いますがまったく別物だと考えています。


    >
    > 二つ目は中断したのは自由意志によるものではなく、脊髄反射的なものではないか?ということです。つまり意思決定に際する準備電位を打ち消したのは自由意志ではなく(訓練によって習得した)反射ではないか?という疑問です。

     反射にも見えますが、私は訓練による瞬発的な判断力の向上のせいではないかと思っています。たとえば卓球の選手のように一定のルールの認識を前提とした瞬発的な判断力つまり自由意志の一形態ではないかと考えています。


    >
    > 上記の実験は自由意志による行為より反射の方が速度的に(ショートカット経路によって)上回るので、反射は自由意志による行為を抑え込めることができるということの証明であって、自由意志に関する検証にはならないのではないか?という疑問です。

    自由意志と反射の区別は難しいですね。私もわかりません。
    >
    > さらに言えば、突如現れた蛇を避けるために通常の認識経路ではなく、扁桃体経由のショートカットで反射的に飛び退くような動作を自由意志とするかどうか。言いかえれば何をもって自由意志とするか?という言葉の定義問題にも発展しそうな結果だと思います。
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