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■11872 / inTopicNo.37)  自己レスRe[8]: リベットの実験について
  
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/14(Wed) 18:33:25)
    No11851に返信(おくたがわさんの記事)

    自己レス。

    『先行する無意識的な準備電位が検出されたあとに、行動を意識的に中断・拒否できるかを脳電位計測により調査』
    『自身の脳の準備電位により予測された動作を拒否することができたなら、』

    こういった文章からすると、被験者がいったん「ボタンを押す」と顕在意識で自覚する必要はないとも読めるのか。
    すると、赤シグナルでボタン押しを止めた被験者は
    「ボタンを押そうと決断するより前にいつも赤になったので、ボタンを押さなかった」という風に自覚するのだろうか?

    いや、『意識的に中断・拒否できるかを』なんだから、『押そうと顕在意識で思った後、顕在意識で拒否した』自覚が無いと成立しないと思うのだが…。
    いったん押そうと思わなければ、顕在意識は、初めからただ押さなかっただけであり、「意識的に中断・拒否」などしていないのだから。
    訓練されていたから準備電位を(無意識のうちに)拒否できたという実験者の把握する事実をもって「意識的に中断・拒否できた」とはまさか言わないと思うのだが…。


    *********

    行為の0.2秒前までなら拒否・取消ができる、について。
    0.2秒前とは行為を為そうという顕在意識の発生時。
    つまり、素朴に考える場合の「意志」が行為を決断する時点。
    なんのことはない、行為を顕在意識で決断する前なら行為しないという選択もできるというだけの話なのか。つまり顕在意識が最終決断をしていると。少なくとも顕在意識と同じタイミングで最終決定が生じていると。

    これは、restさんの書かれていた『準備電位は決断の前の動機形成(にすぎない)』を裏付ける事実であるのかも。


    その場合でも、ボタンを押す「顕在意識」の前に「押すを取消す」決断が来た場合、顕在意識の流れはどうなるのかという疑問は依然として残る。

    やはり全ての疑問や奇妙さは「顕在意識より前に準備電位が生じる」という事実によってもたらされていると思われ。
    準備電位とは何なのかをさらに突き詰める必要があるのでは。

    **********


    「準備電位に逆らえないなら自由意志はないが、準備電位の示す方向は意識的に取り消せるので自由意志は確保される」
    という主張が正しくなるためには、その「取消」に準備電位があってはならない。
    と、再考の結果、やはりそう考えます。

    もし「取消」に準備電位が発生するとしたら、
    1 取消さずボタンを押す場合は、取消の準備電位が発生しなかったからボタンを押す準備電位にそのまま従ったので、全ては準備電位に操られている。
    2 次に、取消の準備電位が発生し、ボタンを押さない場合。この「取消し(ボタンを押さない)」準備電位に対する「拒否」も可能だから意志は確保されるという論点は、1と同じ理由で反論される。最初の拒否で決定する場合は、それをもう一度覆す準備電位が出ないから第一の拒否準備電位に従ったのであるから。
    この理屈は、無限後退しても変わらないと思われます。


    > 『「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果』
    > https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    >
    > ちょっと思ったこと。
    > 通常ならボタン押し準備電位発生=赤ランプ から0.3秒後にボタン押しの顕在意識が自覚できるはず。すると、この実験では取消せと示唆する赤シグナルより遅れてボタンを押すという自覚的意志がノコノコ現れることになるのか…。
    > この紹介サイトでは
    > 『そして今回の実験によって示されたのは、まさに脳からの司令を拒否するのは可能だということである。ただし、後戻りできないポイントというのは確かに存在する。実験では、ボタンを押す約0.2秒前までならば、動作を中断、または拒否することが可能であったという。0.2秒を下回ると、ボタンを押す動作は止められなかった。』
    > こう結論しています。
    > 動作の約0.2秒前というのは通常は顕在意識が動作を意志するタイミング。準備電位からは0.3〜0.35秒後。
    > その時点に間に合うとは、何が間に合う 何が動作の0.2秒前までと言っているのか。
    > 『赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタンを押すのを中断、または、拒否できるかどうかを調べた。』
    > というのだから「取り消す」という顕在意識は生じるという前提のよう。
    > その取消そうという顕在意識が動作の0.2秒前までに為されれば間に合うという意味だとしたら、赤ランプ点灯より少し意志が遅れてしまいボタン押し動作予定の0.2秒前(通常ならボタン押しの意志が発生するタイミング)より遅れると取り消せないということか。あるいは、赤ランプのタイミングをズラして色々試したか。
    > いずれにしても、ボタン押しの意志が生じるタイミングより前に取消しの意志もしくは指示が出るときだけ取り消せるということになりそうなのですが…
    > その取り消せる場合、ボタンを押すという意志の顕在意識はどうなるのか。
    > 普通に考えると被験者は『緑の間にボタン押しを決定したが、赤になったので取り消した』と自覚するはず。しかしその場合は、事実とは異なる意識を体験しており、意識が現実そのままの反映ではなく後付けであることを示す証拠の一つになりそう。本当はボタン押し意志の意識より前に取消意志の意識もしくは赤シグナルが来ないと取り消せないのだから。
    > ボタン押しの準備電位と取消指示の赤シグナルのタイミングをシンクロさせるという設定が非常に面白く思えてきました。準備電位が自覚的決断より先にあるがゆえに生じる奇妙さかと思います。
    > そういう点からも、実際の被験者がどういう意識を自覚するのか(ボタン押しの意志・取消の意志の有無と順番)、そして取消の準備電位はどのタイミングで計測されるのかされないのか。知りたいです。
    >
    > ただし、こういう場合、私の勘違いということも多いので、おかしいと思われましたらご指摘ください。
引用返信/返信 削除キー/
■11881 / inTopicNo.38)  おくたがわさんへ
□投稿者/ pipit -(2021/04/14(Wed) 22:46:19)
    おくたがわさん、こんばんは!
    喜んでもらえて、光明寺さんのサイトまで見てもらえて(たどり着くの大変ですよね(^人^))
    すごく嬉しいです、ありがとうございます(^_^)

    No11868に返信(おくたがわさんの記事)

    > ところで3人の方の英訳では、それぞれ
    > ・He'll pull down the pile, not build it up.
    > ・you wear away, you don’t heap up.
    > ・it falls away and doesn't accumulate.
    > 最初の2つは、人の側の主体が強めに見えます。
    > 光明寺さんも、その全体を「そのように彼は念をもっておこなう。」と人を主体にくくっていますが…。<

    私見を書きますね。
    この経典は、まず、マールンキャプッタさまが釈尊に
    「わたしに簡潔に教えを説いてください!」と頼むところからはじまりますよね。
    このマールンキャプッタというお名前、無記が説かれた毒矢の喩えの経典に出てくる、弟子のお名前と同じなんですよね。
    学術的なことは知らないのですが、
    もし、同じ方だとしたら、、、(pipitの妄想・想像↓)

    毒矢の喩えで釈尊に諭されたのに、それから月日がたって、おじいさんになってもまだ悟ってないマールンキャプッタさま。。。
    ハッとわれにかえるマールンキャプッタさま。。。
    やばい!時間が残されてない!
    「お釈迦さま〜、すぐに悟れるように超簡潔に私に法を説いて〜」
    お釈迦さまは、
    「おぬし、今になってもまだそんなこと言うか〜」的なことを言いつつも、
    優しく【簡潔に】法を説いてあげる。

    そして、それをこう理解しました、と、詩偈にして発表するマールンキャプッタさま。。。
    上記英訳部分は、その時はまだ悟っていないマールンキャプッタさまの詩偈ですよね。
    このご自分の理解を発表した後に、瞑想実践して悟られますよね。

    つまり、釈尊の簡潔な教戒を、
    「わたし」という気持ちがまだあるマールンキャプッタさまにとっての実践の仕方に変換して表現してるので、
    人が主体になる表現をとっても不自然とまでは言えない可能性はあるのかなあ?
    と思いました。


    マールンキャプッタさまとは別の方で、
    この簡潔な教戒を聞いただけで、すぐさま阿羅漢に悟られた方(バーヒヤさま)の経典もあるんです。
    (経典、おもしろいです〜)

    https://suttacentral.net/ud1.10/en/sujato

    ↓釈尊の簡潔な教戒のあと、バーヒヤさまはすぐさま悟られたみたいです。


    Then, due to this brief Dhamma teaching of the Buddha, Bahiya’s mind was right away freed from defilements by not grasping.

    > 「(そのように彼は)念をもっておこなう。」がどういうことなのか。どうすれば『それが滅び、積まれないように』なるのか。
    解釈は分かれるのかな?<


    わたしは、
    自分の行為を観察・自覚・気づくことによって、過度に執着せず、自然にそれが滅びるままにする、
    とか、
    釈尊の教戒を思いながら、新たな苦を積まないように気をつける、
    とか、
    今のところそのような感じに捉えています(全然違うかもです!)

    マインドフルネスと訳されることも多い『サティ(念)』の解釈もwikiなどを読むにいろいろあるみたいですね。
引用返信/返信 削除キー/
■11883 / inTopicNo.39)  サティ
□投稿者/ pipit -(2021/04/14(Wed) 23:05:07)
    No.11881
    > マインドフルネスと訳されることも多い『サティ(念)』の解釈もwikiなどを読むにいろいろあるみたいですね。<

    wikiの「マインドフルネス」の項目より一部抜粋します。

    『mindfulness[注釈 2]と英訳された仏教用語は、パーリ語のsati(サティ)および、サンスクリットにおいてsatiに相当するsmrtiに起源がある。Robert Sharfによれば、これらの語の意味は、広範囲に渡る討論や議論のテーマとなっている[53]。元来、smrtiは、to remember(思い出す、記憶している[54])、to recollect(思い出す、回想する[55])、to bear in mind(心に留めておく[56])を意味した。satiもto rememberを意味する。大念処経(訳者注: または念処経)においてsatiは、仏教の法を思い出すこと/覚えていることを意味し、それによって修行者は諸現象の本質を見ることができる[53]。「サティが生じることは、四念処、五根、五力、七覚支、八正道などの健全な諸法を心に呼び起こす」と説明している『ミリンダ王の問い』をSharfは参照している[57]。』
引用返信/返信 削除キー/
■11887 / inTopicNo.40)  
□投稿者/ pipit -(2021/04/15(Thu) 06:32:32)
    No.11883
    wikiの「念(仏教)」の項目より抜粋引用します。

    『サンスクリットのスムリティ(smrti)の訳としての念は、心所(心のはたらき)の名であり、かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないことを意味する[2]。五根の一つとしての念根、五力の一つとしての念力に数えられる[2][注釈 1]。また、単に「思い」や「想い」の意味として「念」の語を用いることもある[2]。

    パーリ語の「サティ」(sati)に対応する語であり、これらの語は「意識・記憶していること」全般を広く言い表す語である[要出典]。例えば、上座部仏教圏であるスリランカなどでは、師僧が小僧(沙弥)をしつける際などに、「サティ」(気を付けなさい)という言葉を使ったりする [4]。

    分類としては、念は、五位七十五法では心所有法の大地法の一つに分類され、五位百法では心所有法の別境の一つである[5]。 初期仏教における三十七道品においては、四念処の他に、五根のうちの念根、五力のうちの念力、七覚支のうちの念覚支、八正道の第7の正念などが説かれる[5]。

    安那般那念(アーナパーナ・サティ)は、初期仏教以来の瞑想の導入法として説かれており、自分の呼吸に意識を向ける(あるいは呼吸を数える)という行法である。

    十念とは、仏・法・僧・戒・施・天・休息・安般・身・死という10の対象に向かって想をとどめ、他の想をやめて心を動乱させないことをいう[2][6]。

    業処とは、仏教の瞑想において観想する対象であり約40に分類されるが、その内の十随念のひとつの対象として仏(釈迦)がある(念仏#憶念)。』

    このほかにもいろいろな項目でいろいろな記述がwiki内の中だけでも記されてて、
    また、現代のマインドフルネスとしての定義は定義で、もしかしたらいろいろあるかもです。
引用返信/返信 削除キー/
■11902 / inTopicNo.41)  おくたがわさんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/15(Thu) 20:24:16)
    興味深い返信をありがとうございます。

    今度の土日で私もカキコしてみたいと思います。
引用返信/返信 削除キー/
■11931 / inTopicNo.42)  Re[7]: リベットの実験について4−1
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/17(Sat) 09:07:11)
    2021/04/17(Sat) 09:34:56 編集(投稿者)

    おはようございます、おくたがわさん。
    レスありがとうございます。

    No11850に返信(おくたがわさんの記事)

    > こんばんは。すごく間があいての返信で、すみません。

    もうまんたい♪
    半年や1年あこうがレスが逃げるわけではないので全く問題ありません。^^

    まずは私の今現在の結論から述べますと私は自由意志を認めます。
    根拠はパニチェは自由意志の根源的な主体でもある〈私〉は脳の随伴現象や物理現象によって記述できる(説明あるいは解明できる)ようなものでは明らかにないからです。
    でも上記の結論は(話が大きく逸れるので)このレス交換ではいったんペンディングします。

    以下、同意できたところは省略させてもらいます。

    > 準備電位から動作までの0.5秒の間に発動できる拒否が思考による判断ではなく、反射的なものの場合、生得的な反射ではなく学習によって身に付くものがあるとして、その学習をするという決断まで自由意志が遡るのか。しかしそうなると、そもそもの問題は未解決になりそう。
    > また、教育(価値観・判断基準の植え込み)と自由意志の関係とか。

    同意です。

    > 腱反射と言うのは脚気のテストみたいなのですか。自由意志は入らないのではないでしょうか。詳しく知らないので直観的にですが。

    私も同じように考えています。腱反射や脊髄反射など、反射には意志や自由意志は入り込む余地はないと思います。

    >>なんか昔々に鮭場と議論(ディベート)した「信号機に意志はあるのか?」が思い出されます。^^
    > その話題で議論されていたのは憶えているのですが、内容は思い出せませんすいません。

    いえいえ、とんでもない。おくたがわさんが覚えていないのは当然です。むしろ覚えていたらキショイ(笑)です。
    これについては後のおくたがわさんのレスでカキコします。^^

    > しかし、自分が分かっていなくて変なことを書いている可能性というのをいつも感じます。今回も。
    > 遅レスでもありますし、返信は自由意志におまかせします。

    返信のタイミングやレス内容も含めて気軽にいきましょう。
    心地よい刺激になりますし、昔の掲示板のようにツッコミや議論の勝ち負けなど、ここでは全く無関係ですからね。^^

    > 追記
    > ある動画では、
    > 身体に対して「歩け」と指令を出す脳の部位に対して「歩けと指令を出せ」と指令を出す脳部位があり、さらにそこに指令を出す部位がある
    > そういうことが分かってきて自由意志の問題がさらに難しくなっている
    > というようなことを言っていました。
    > たしか↓これだったと思います
    > https://www.youtube.com/watch?v=wPXLUxkqEt8
    > 酒井邦嘉「脳から見る人間の言語と心」

    歩行とか呼吸って意識と無意識の狭間にあるんだと思います。
    次は右足、次は左足などいちいち意志しているわけはありませんからね。
    日常的な朝の出勤までの動作もいちいち「次はこれ」と考えることなく無意識的(自動的)に行われます。
    雲水にとっては作務も修行であり、作務によって眼が開くなんてこともよくあるそうで(禅定によって眼が開くとは限らないようです)、それはきっと忘我のうちに行われる作務が禅定の代わりになっているのだと思います。
    仏教で自由意志が否定されるのは、私たちが日常的に考えている自我とか自己、つまり自由意志の主体は幻想(相依性縁起によってつくられたもの)であり、そんなものは真の我ではない(非我)あるいは無い(無我)と説かれている(達観している)からだと思います。

    PS.酒井邦嘉「脳から見る人間の言語と心」を見ました。感想としては言語を過大評価し過ぎているように思われますし、人間の本性についての考察はあまりにも一方向で浅いように感じました。

引用返信/返信 削除キー/
■11932 / inTopicNo.43)  Re[9]:リベットの実験について4−2
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/17(Sat) 09:10:14)
    No11872に返信(おくたがわさんの記事)
    > 「準備電位に逆らえないなら自由意志はないが、準備電位の示す方向は意識的に取り消せるので自由意志は確保される」
    > という主張が正しくなるためには、その「取消」に準備電位があってはならない。
    > と、再考の結果、やはりそう考えます。

    > もし「取消」に準備電位が発生するとしたら、
    > 1 取消さずボタンを押す場合は、取消の準備電位が発生しなかったからボタンを押す準備電位にそのまま従ったので、全ては準備電位に操られている。
    > 2 次に、取消の準備電位が発生し、ボタンを押さない場合。この「取消し(ボタンを押さない)」準備電位に対する「拒否」も可能だから意志は確保されるという論点は、1と同じ理由で反論される。最初の拒否で決定する場合は、それをもう一度覆す準備電位が出ないから第一の拒否準備電位に従ったのであるから。
    > この理屈は、無限後退しても変わらないと思われます。

    同意します。
    もし中断にも準備電位が発生しているのなら、つまるところは反射のような行為と自由意志による行為に差異はないのではないか?
    結局のところ後付けで「自ら動いたように思える行為については」自由意志とラベリングしているだけではないか?ということになり、セキバ氏と議論した「信号機が青から赤になることと、私たちの自由意志による行為に差異はあるのか?」というディベートが思い出されます。


    >> 『「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果』
    >>https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

    >>ちょっと思ったこと。
    >>通常ならボタン押し準備電位発生=赤ランプ から0.3秒後にボタン押しの顕在意識が自覚できるはず。すると、この実験では取消せと示唆する赤シグナルより遅れてボタンを押すという自覚的意志がノコノコ現れることになるのか…。
    >>この紹介サイトでは
    >>『そして今回の実験によって示されたのは、まさに脳からの司令を拒否するのは可能だということである。ただし、後戻りできないポイントというのは確かに存在する。実験では、ボタンを押す約0.2秒前までならば、動作を中断、または拒否することが可能であったという。0.2秒を下回ると、ボタンを押す動作は止められなかった。』
    >>こう結論しています。
    >>動作の約0.2秒前というのは通常は顕在意識が動作を意志するタイミング。準備電位からは0.3〜0.35秒後。
    >>その時点に間に合うとは、何が間に合う 何が動作の0.2秒前までと言っているのか。
    >>『赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタンを押すのを中断、または、拒否できるかどうかを調べた。』
    >>というのだから「取り消す」という顕在意識は生じるという前提のよう。
    >>その取消そうという顕在意識が動作の0.2秒前までに為されれば間に合うという意味だとしたら、赤ランプ点灯より少し意志が遅れてしまいボタン押し動作予定の0.2秒前(通常ならボタン押しの意志が発生するタイミング)より遅れると取り消せないということか。あるいは、赤ランプのタイミングをズラして色々試したか。
    >>いずれにしても、ボタン押しの意志が生じるタイミングより前に取消しの意志もしくは指示が出るときだけ取り消せるということになりそうなのですが…
    >>その取り消せる場合、ボタンを押すという意志の顕在意識はどうなるのか。
    >>普通に考えると被験者は『緑の間にボタン押しを決定したが、赤になったので取り消した』と自覚するはず。しかしその場合は、事実とは異なる意識を体験しており、意識が現実そのままの反映ではなく後付けであることを示す証拠の一つになりそう。本当はボタン押し意志の意識より前に取消意志の意識もしくは赤シグナルが来ないと取り消せないのだから。
    >>ボタン押しの準備電位と取消指示の赤シグナルのタイミングをシンクロさせるという設定が非常に面白く思えてきました。準備電位が自覚的決断より先にあるがゆえに生じる奇妙さかと思います。
    >>そういう点からも、実際の被験者がどういう意識を自覚するのか(ボタン押しの意志・取消の意志の有無と順番)、そして取消の準備電位はどのタイミングで計測されるのかされないのか。知りたいです。
    >>ただし、こういう場合、私の勘違いということも多いので、おかしいと思われましたらご指摘ください。

    その通りだと思います。
    だから私は取り消しは行為ではなく反射ではないのか?と考えているわけです。
    問題は行為と反射に差異があるのかどうか。。。

引用返信/返信 削除キー/
■11993 / inTopicNo.44)  自由と政治
□投稿者/ rest -(2021/04/18(Sun) 12:21:06)
    2/1,ミャンマーにおいて国軍のクーデターが発生して以来デモ弾圧で700人以上の死亡者がでている。
     日本の外務省は市民殺害の続くミャンマー情勢に関して世論調査で情勢改善に向けて積極的関与する必要があるとの回答が72.3%もあった。
     民主派による連邦議会代表委員会CRPHは「挙国一致政府」を16日に発足。承認を世界に求めている。日本は承認すべきではないか。そうなると「誰が為に鐘はなる」(ヘミングウエー著)の主人公のように義勇兵として内戦に参加という事態もありうる。自由か独裁か、民主主義か専制主義か。国軍は民主主義を雑草にたとえて刈り取ると主張しているが軍政こそが雑草ではないか。
     サイコパスは独裁者タイプに多い。支配ー被支配の関係を国民に強いる。それに対して民主主義は統治者を自ら選んで自らを統治するので統治者と国民の関係は支配ー被支配の関係にない。形式上の権力は自ら決めたルールを自ら守らせるためのいわば自律を意味する。独裁制は独裁者が決めたルールを守らせる他律であり、支配ー被支配の関係にある。民主主義社会は統治者と人民の関係は支配ー被支配の関係ではなく、対等な関係である。ミヤンマーの人民の戦いを支持したい。
     決定論支持で自由意志を否定するとこのような自由をめぐる戦いが無意味に思えるかもしれないが。
引用返信/返信 削除キー/
■11994 / inTopicNo.45)  Re[9]: 自由と政治
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/18(Sun) 14:06:19)
    こんにちは、restさん。
    レスありがとうございいます。

    No11993に返信(restさんの記事)
    > 2/1,ミャンマーにおいて国軍のクーデターが発生して以来デモ弾圧で700人以上の死亡者がでている。
    >  日本の外務省は市民殺害の続くミャンマー情勢に関して世論調査で情勢改善に向けて積極的関与する必要があるとの回答が72.3%もあった。
    >  民主派による連邦議会代表委員会CRPHは「挙国一致政府」を16日に発足。承認を世界に求めている。日本は承認すべきではないか。そうなると「誰が為に鐘はなる」(ヘミングウエー著)の主人公のように義勇兵として内戦に参加という事態もありうる。自由か独裁か、民主主義か専制主義か。国軍は民主主義を雑草にたとえて刈り取ると主張しているが軍政こそが雑草ではないか。
    >  サイコパスは独裁者タイプに多い。支配ー被支配の関係を国民に強いる。それに対して民主主義は統治者を自ら選んで自らを統治するので統治者と国民の関係は支配ー被支配の関係にない。形式上の権力は自ら決めたルールを自ら守らせるためのいわば自律を意味する。独裁制は独裁者が決めたルールを守らせる他律であり、支配ー被支配の関係にある。民主主義社会は統治者と人民の関係は支配ー被支配の関係ではなく、対等な関係である。ミヤンマーの人民の戦いを支持したい。
    > 決定論支持で自由意志を否定するとこのような自由をめぐる戦いが無意味に思えるかもしれないが。

    実際に決定論支持で自由意志を否定する人ってどれくらいいるでしょうか。
    私はもちろん違いますし、そんなに多いとは思いません。
    科学は唯物論であり、脳を機械論的に記述しようとすると自由意志なんてものは否定するようなメカニズム論になると思います。

    ところが脳科学は脳のマッピング(どのような部位がどのような機能を有しているか)とか脳内物質の解明など、部分を分析するレベルであって、脳全体の機能が対象となるであろう(ひょっとしたら身体性も含めた)意識や意志はもちろん、その手前の自我意識の解明などはほど遠い。
    唯物論を前提とした脳科学的な実験や検証から自由意志を否定されるような知見が出てくるのは、それこそ理論負荷性にあると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■12004 / inTopicNo.46)  神の摂理
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/18(Sun) 15:28:55)
    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(ニーチェ著「悦ばしき知識 第140番」より)』

    審判という行為自体が愛の対象となりえるなんて、どう考えても矛盾している。
    万人は既に救われているという浄土系の教説の方が慈悲や愛に溢れているのではいか?

    神の摂理や意向など人間には思い及ばないし、知る由もないという論理は、それを発言している人間にその言説の根拠も聞いてみたいものだ。
    発言自体が嘘つきパラドックス的であることの自覚もないのか。。。。
    要するに「自分には分からない」と述べているだけに過ぎない。

引用返信/返信 削除キー/
■12130 / inTopicNo.47)  因果性と自由
□投稿者/ rest -(2021/04/24(Sat) 11:19:26)
    2021/04/25(Sun) 21:47:30 編集(投稿者)

    ヒュームによれば原因と結果の結びつきは観念の習慣的連合にすぎない。自然の斉一性は恒常的連接の経験から生じるとしている。

    2H^2+O^2→2H^2O (^2は添え字 化学反応式)

    左辺の水素と酸素は原因で右辺の水は結果である。しかし左辺が右辺になる必然性はない。水素と酸素をいくらかき混ぜても水にはならない。いくらまぜても水素と酸素のままである。そこで必要になってくるのが着火である。着火するかどうかは人間の自由意志にかかっている。着火すれば水ができる。原因と結果に必然性はなく人間の自由意志が関わってくる。着火しなければ永遠に水素と酸素のままであり、着火を選択すれば水素と酸素は水になる。
     今度は逆の場合

     2H^2O →2H^2 + O^2

    左辺の水が原因となり、右辺の水素と酸素は結果となる。原因と結果は時間的順序であり、任意に入れ替えることができる。今度も何もしなければ左辺の水は永遠に水のままであり、人間の自由意志によって電気分解することによって右辺の水素と酸素を得ることができる。自由意志によって電気分解しなければ永遠にそのままであり、電気分解を選択すれば水素と酸素ができる。原因と結果に必然性はなく自由意志が関わることができる。
     自然現象には恒常的連接による習慣的な因果性があるが、人為的でなくとも我々の主観がその規則性を認識しえても因果性は必然的とは限らない。人為の関わる余地があるからだ。


引用返信/返信 削除キー/
■12143 / inTopicNo.48)  勿忘草さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/24(Sat) 21:21:59)
    No12128に返信(勿忘草さんの記事)

    また気が向いたらカキコして下さい。

    別れ際ですが歯に衣着せぬ私らしく苦言を一言。。。

    信仰にせよ、哲学にせよ、もうちょっと真摯というか誠実に向き合った方がいいと思います。

    レス交換にしても、知ったかより、知ろうという意欲が自分を深めることになる。

    お元気で。
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