| 2021/03/13(Sat) 10:46:29 編集(投稿者)
■No11383に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
> パニさん、ちょっと聞いていい? > わたしニーチェのは『善悪の彼岸』のほかに、工藤綏男さんの「ニーチェ」っていう本を読んだことあるだけど、そのなかに、 > 〔‥‥ニーチェほど、危険な誤解をさそう思想家もないであろう。たとえば、神が死んだ、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」(『ツァラトゥストラ』第四部、影)…〕 > ってあったんだけど、「真理はどこにもない、いっさいのことは許される」って、彼、本当にそう言ってるの?
上記はニーチェの主著である「ツァラトゥストラ」という物語の中に出てくる影(ツァラトゥストラのネガティブな部分の分身)という登場人物が吐いた言葉(ツァラトゥストラというストーリーの中のひとつの台詞)なので、あまり参考にはなりませんし、直接的なニーチェの言葉ではないです。
以前に引用した以下が真理に関するニーチェのスタンスです。
『われわれは認識のための、「真理」のための器官を、全く何ひとつ有(も)っていない。われわれは、人間群畜や種属のために有用だとされるちょうどそれだけを「知る」(あるいは信ずる・あるいは妄想する)のである(悦ばしき知識 第354番)』
『真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができないかもしれないような種類の誤謬である。生にとっての価値が結局は決定的である。(力への意志 第493番)』
『「これこれのものはこうであると私は信ずる」という価値評価が、「真理」の本質にほかならない。(力への意志 第507番)』
『真理とは何か?──惰性のことである。精神的力の最小の消費その他という満足を生ぜしめる仮説そのもの(力への意志 第537番)』
真理の有無ではなく我々の感覚器官は真理なるものを認識する能力はないだろうということ。 例えて言うなら、視覚ひとつをとってもコウモリが超音波でもって捉える世界や複眼で捉える世界などなどもあるわけで、感覚器官に世界の在り様が再現されたものである以上、その真偽は判断不可能であるみたいな話です。
固定的かつ絶対的なもの(真理)を欲するがためにでっち上げる(捏造する)のは、無知無能な人間の無いものねだり(裏返し)程度でしかないというような感覚だと思います。
また「一切のことは許される」という台詞は、キリスト教の原罪など生が罪深いものとしたり、最後の審判(神によって下される許されるべきものと許されないもの)に対するアンチテーゼ的な台詞であると思います。
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