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■11416 / inTopicNo.85)  Re[4]: リベットの実験について
  
□投稿者/ おくたがわ -(2021/03/15(Mon) 18:48:33)
    No11387に返信(パニチェさんの記事)
    restさん、興味深い情報をありがとうございます。
    また、動画に興味を持ってくださった皆さん、ありがとうございます。
    パニチェさん、横レスで失礼します

    > 2021/03/13(Sat) 09:40:49 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、restさん。横レス失礼します。
    >
    > ■No11384に返信(restさんの記事)
    >
    >>自由意志が存在するかどうかについてリベットの実験についての考察があります。自由意志は存在するそうです。ただし0.2秒間だけだそうです。詳しくは次の通りです。
    >
    >>https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    >
    >>脳の準備電位が決定した後これを拒絶できるということを示したということは自由意志の存在を示したことになります。
    >>カントの『純粋理性批判』における第三アンチノミーで展開された「自然因果性」の決定論的傾向を我慢することによって「自由因果性」である選択可能性を広げて自由意志の存在を示したことと共通するものがあります。
    >
    >
    > 興味深いリンクをありがとうございました。
    > リベットは「マインド・タイム」を読みました。
    > カントはある見解において脳科学が到達した知見に先駆けていたということは同意です。
    >
    > リンク先の実験で疑問に思う点は二つあります。
    >
    > ひとつは中断する意思決定の準備電位は発生しているのかどうか、もし発生しているとするとそれは何秒前か?ということです。

    その準備電位が発生していたら自由意志否定への反論にならないのではないでしょうか?
    もちろん「拒否」の顕在意識があって後に準備電位があれば明確な反論になると思いますが、そのような決定的な観察結果があれば明記されているはずと思われ。
    ボタン押す準備電位→顕在意識による意思→ボタン押し という行為決定のセットとは異なる仕組み・経路で「拒否」が割り込むということではないでしょうか。

    > 二つ目は中断したのは自由意志によるものではなく、脊髄反射的なものではないか?ということです。つまり意思決定に際する準備電位を打ち消したのは自由意志ではなく(訓練によって習得した)反射ではないか?という疑問です。

    私も『赤のシグナルが現れたときには、ボタンを押すのを止めるように訓練された』という部分が引っかかりました。それは自由意志の証明になるのか…

    > 上記の実験は自由意志による行為より反射の方が速度的に(ショートカット経路によって)上回るので、反射は自由意志による行為を抑え込めることができるということの証明であって、自由意志に関する検証にはならないのではないか?という疑問です。
    >
    > さらに言えば、突如現れた蛇を避けるために通常の認識経路ではなく、扁桃体経由のショートカットで反射的に飛び退くような動作を自由意志とするかどうか。言いかえれば何をもって自由意志とするか?という言葉の定義問題にも発展しそうな結果だと思います。

    そもそもの、準備電位が顕在意識より先にあるから自由意志は幻想ではないか という問題について反論なり解決になっているかどうか私には分かりませんでした。


    無意識が提示してくる様々な行為の準備に対し、それを拒否するかそのまま実行するかを選べる別なシステムがある。それらの総合で実際の人の行いがきまる。という仕組みが示唆される気がするのですが、仮にそうだった場合にも、そのどの部分に自由意志があるかないか、という問題は難しいままのような気がしています。


    もしかしたら理解できず、トンチンカンを書いているかもしれません。
引用返信/返信 削除キー/
■11413 / inTopicNo.86)  脳科学について
□投稿者/ rest -(2021/03/14(Sun) 20:52:24)
     脳科学は科学といえるか。大脳機能の局在論と全体論で対立が続き、決着がついていないことが根拠。
    1920年代米国のKarl Lashley博士はラットの迷路記憶後、大脳皮質を破壊した。脳のどこを壊したかではなく、脳をどれだけ壊したかに相関して、記憶の消失が生じることを示した。記憶の海馬説(局在論)に対して全体論の立場である。
     てんかんの手術で脳の右半分失った3歳男子のニコや11歳の子供ブルックスは左半分を切除後、正常な心や精神の機能を保っていたという全体論のケースもある。
    高次機能をもった自我や自由意志を脳のどこかに局在しているとみるか、あるいは脳全体の総合的な働きとみるかの対立もある。
     リベットの実験では脳の第二次運動野を中心に準備電位を記録しているので局在論の立場のようだ。
引用返信/返信 削除キー/
■11405 / inTopicNo.87)  Re[7]: ニーチェの
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/14(Sun) 09:29:54)
    2021/03/14(Sun) 10:57:20 編集(投稿者)

    No11402に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > おはようございます。
    > パニさん、■11397、ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > パニさんひょっとしてニーチェのおおかた打ち込んじゃってるんじゃないかしら。

    そんなことはないんだけど、Panietzsche Roomにニーチェのアフォリズムを引用したかつてのYahoo!掲示板&textream時代の投稿が残ってます。^^

    > ツァラトゥストラの「精神の三変化」、比喩的?でなんかわたしにはわかりずらかった。

    ツァラトゥストラ自体が難解やから、全体の文脈からここだけ切り取っても余計に分かりにくやろね。

    > でもこれだけじゃわるいから、少しだけ。
    > >わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。<

    > ラクダになった精神は、次にはシシになって、最後には精神は子供になる、っていう話だと思ったんだけど、違ってたらごめん。

    ここで語られる比喩はその通りです。

    > こう見たとき、わたしのばあい、精神はどのようにしてラクダになってゆくのかしら、っていうところの方に興味がある。だからわたしメルポンね。

    なるほど。^^
引用返信/返信 削除キー/
■11402 / inTopicNo.88)  Re[6]: ニーチェの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/14(Sun) 08:59:03)
    おはようございます。
    パニさん、■11397、ありがとうございます。

    パニさんひょっとしてニーチェのおおかた打ち込んじゃってるんじゃないかしら。

    ツァラトゥストラの「精神の三変化」、比喩的?でなんかわたしにはわかりずらかった。
    でもこれだけじゃわるいから、少しだけ。

    >わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。<

    ラクダになった精神は、次にはシシになって、最後には精神は子供になる、っていう話だと思ったんだけど、違ってたらごめん。
    こう見たとき、わたしのばあい、精神はどのようにしてラクダになってゆくのかしら、っていうところの方に興味がある。だからわたしメルポンね。

引用返信/返信 削除キー/
■11401 / inTopicNo.89)  Re[5]: リベットの実験について2
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/14(Sun) 08:03:09)
    2021/04/17(Sat) 08:54:13 編集(投稿者)

    レスありがとうございます。

    No11400に返信(restさんの記事)

    > 意味はわかります。中断する意思決定の準備電位が最終的には決めているのではないかという疑問だと思います。しかしその準備電位の決定も中断することができますので無限連鎖になります。そうならないで一次中断で済んでしまうのは自由意志による選択があるからです。二次中断をしないという選択です。それも準備電位が先行しますがそれを受け入れるか受け入れないかの選択の自由があるのです。準備電位と自由意志は相関関係はあるとは思いますがまったく別物だと考えています。

    実験結果を肯定的に捉えればrestさんに同意します。
    あえて批判的に捉えるとすると。。。。。t

    >>二つ目は中断したのは自由意志によるものではなく、脊髄反射的なものではないか?ということです。つまり意思決定に際する準備電位を打ち消したのは自由意志ではなく(訓練によって習得した)反射ではないか?という疑問です。
    >  反射にも見えますが、私は訓練による瞬発的な判断力の向上のせいではないかと思っています。たとえば卓球の選手のように一定のルールの認識を前提とした瞬発的な判断力つまり自由意志の一形態ではないかと考えています。

    >>上記の実験は自由意志による行為より反射の方が速度的に(ショートカット経路によって)上回るので、反射は自由意志による行為を抑え込めることができるということの証明であって、自由意志に関する検証にはならないのではないか?という疑問です。
    > 自由意志と反射の区別は難しいですね。私もわかりません。

    実験は、例えばイチゴ狩りに行ったとして、今まさにイチコをもぎ取ろうとした時に(自由意志)、モゾモゾと動く蛇を察知して咄嗟に手を引っ込める(中断する)動作と同じではないかという疑問です。
    咄嗟の反射的な動作に準備電位が生じないかもしれないし、生じたとしても約0.35秒前よりも短い時間である可能性もあります。

    上記のように考える根拠は以下のように咄嗟的な動作や反射には通常の認識経路ではなく扁桃体経由の短縮経路が存在するからです。
    実験では「赤のシグナルが現れたときには、ボタンを押すのを止めるように訓練された」とのことですから、restさんも指摘する卓球の選手のような瞬発的な動作、つまり反射に近い動作のように思えるのです。

    ******************************************

    五感を通して取り込まれた情報は、ひとまず視床で分類されてから、それぞれの処理領域に送られる。やぶでヘビを見たときのような感情的な刺激の場合、情報は二つに分けられて二系統で流れていく。どちらを通っても最終的には脳の警報装置であり、感情反応の発電装置である扁桃体に到達するのだが、二つの経路はかなり性質を異にする。第一経路は、脳の後部にある視覚野を通る。そこで情報が分析され、わかったことが発信される。この段階では、模様のある細長いものが、いまここでのたくっているという情報にすぎない。脳の認知領域が働きだしてようやく、そのくねくねするものが何か判断される。情報にヘビというラベルがついたことで、長期記憶に蓄積されているヘビ関連の知識が引っぱりだされる──動物で、いろんな種類があって、危険化もしれない?これらの要素がひとつになって、「ヘビだ。ほら、ここ。ぎゃーっ」といった感じのメッセージが作られる。メッセージを聞いた扁桃体が、身体を動かそうとする。
    第一経路は長く曲がりくねっていて、途中にいくつか停留所がある。差しせまった状況だと、これではまにあわない──もっとすばやく反応できるシステムが必要だが、それを受け持つのが第二経路である。視床と扁桃体は、もともと近い場所にあり、神経組織の束で結ばれている。また扁桃体は闘争や逃避反応とコントロールする視床下部ともうつながっている。これがルドゥーの言う「ぬかるみの近道」で、ここを通れば、情報は1000分の1秒単位の速さで、目から体に到達する。恐怖の条件づけは、情報がこの近道を通るときに起こるようだ。たいていの記憶は、大脳辺縁系のなかにある小さな、しかしとても重要な海馬によってコード化される。(リタ・カーター著、養老孟司監修 脳と心の地形図)

    *************** 引用終わり ***************

    上記のような第二経路を通る動作や訓練された俊敏な動きにも準備電位が生じるかどうかは興味深いし検証すべきだと思います。
    腱反射のような動きは準備電位は生じないような気がします。


引用返信/返信 削除キー/
■11400 / inTopicNo.90)  Re[4]: リベットの実験について
□投稿者/ rest -(2021/03/13(Sat) 23:07:58)
    No11387に返信(パニチェさんの記事)
    > 2021/03/13(Sat) 09:40:49 編集(投稿者)
    >
    > おはようございます、restさん。横レス失礼します。
    >
    > ■No11384に返信(restさんの記事)
    >
    >>自由意志が存在するかどうかについてリベットの実験についての考察があります。自由意志は存在するそうです。ただし0.2秒間だけだそうです。詳しくは次の通りです。
    >
    >>https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/
    >
    >>脳の準備電位が決定した後これを拒絶できるということを示したということは自由意志の存在を示したことになります。
    >>カントの『純粋理性批判』における第三アンチノミーで展開された「自然因果性」の決定論的傾向を我慢することによって「自由因果性」である選択可能性を広げて自由意志の存在を示したことと共通するものがあります。
    >
    >
    > 興味深いリンクをありがとうございました。
    > リベットは「マインド・タイム」を読みました。
    > カントはある見解において脳科学が到達した知見に先駆けていたということは同意です。
    >
    > リンク先の実験で疑問に思う点は二つあります。
    >
    > ひとつは中断する意思決定の準備電位は発生しているのかどうか、もし発生しているとするとそれは何秒前か?ということです。

    意味はわかります。中断する意思決定の準備電位が最終的には決めているのではないかという疑問だと思います。しかしその準備電位の決定も中断することができますので無限連鎖になります。そうならないで一次中断で済んでしまうのは自由意志による選択があるからです。二次中断をしないという選択です。それも準備電位が先行しますがそれを受け入れるか受け入れないかの選択の自由があるのです。準備電位と自由意志は相関関係はあるとは思いますがまったく別物だと考えています。


    >
    > 二つ目は中断したのは自由意志によるものではなく、脊髄反射的なものではないか?ということです。つまり意思決定に際する準備電位を打ち消したのは自由意志ではなく(訓練によって習得した)反射ではないか?という疑問です。

     反射にも見えますが、私は訓練による瞬発的な判断力の向上のせいではないかと思っています。たとえば卓球の選手のように一定のルールの認識を前提とした瞬発的な判断力つまり自由意志の一形態ではないかと考えています。


    >
    > 上記の実験は自由意志による行為より反射の方が速度的に(ショートカット経路によって)上回るので、反射は自由意志による行為を抑え込めることができるということの証明であって、自由意志に関する検証にはならないのではないか?という疑問です。

    自由意志と反射の区別は難しいですね。私もわかりません。
    >
    > さらに言えば、突如現れた蛇を避けるために通常の認識経路ではなく、扁桃体経由のショートカットで反射的に飛び退くような動作を自由意志とするかどうか。言いかえれば何をもって自由意志とするか?という言葉の定義問題にも発展しそうな結果だと思います。
    >
    >
    >
    >
引用返信/返信 削除キー/
■11397 / inTopicNo.91)  Re[8]: ニーチェ
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 20:30:38)
    2021/03/13(Sat) 22:00:49 編集(投稿者)

    No11394に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11392、パニさん、ニーチェについてよく知ってる。さすが!
    > 聞いてよかった。パニさん、ありがとございます。

    どういたしまして。

    > でも、
    > >元従軍慰安婦が戦場売春婦<
    > に絡めるのどうかと思うけどね。

    そやね。でも『男は戦争向きに教育されるべきであり、女は戦士の休養向きに教育されるべきである。』ってなくだりがあったから、ついつい。。。(笑)


    > その後の「男女同権」っていうこと自身へんなんだよね。
    > >女における一切は謎であり、そして女における一切は一つの解決を持つ。それはつまり妊娠だ。男は女にとって一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、女は男にとって何であるのか?<
    > ニーチェって、人間の分類の仕方として、男と女っていう「性」で見てるんじゃないかってわたし思ってるのね。わたし『善悪の彼岸』を読んでそう感じたの。
    > いまは違うよね。科学的に「性」の概念が変わってきてる。科学的に見ると、「性」に関しては、「ヘテロ」「ホモ」そして「トランスジェンダー」みたいなことが言われてるようだけどね。でも、もう一つないと性の分類は成立しな感じしてる。

    なるほどね。

    > ま、これはどうでもいいわ。

    了解。

    > 『善悪の彼岸』の「序言」の書きだしは、こうね。

    > 【真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解するにかけては拙(まず)かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣(や)り口ではなかったか。女たちが籠絡(ろうらく)されなかったのは確かなことだ。…】
    > で、ところでニーチェは、その【女(あま)っ子】たちを籠絡できたのかしら?
    > どうもそうじゃなかったみたいじゃない?

    その通り。籠絡できた女性は一人もいなかったと思うよ。

    > わたし、ニーチェのについて受け入れてるところは、
    > >目的はつねに子供なのだ<
    > ってう言うところ。

    へぇ〜、そうなんや。子どもを産まない選択肢も今は大ありやと思うけどね。

    > もうちょとパニさんに聞いちゃうね。「ニーチェ」っていう本のなかに、
    > 〔…ニーチェによれば、明暗・表裏を含めての生存の全体を大きく肯定し、ありのままの存在と軽快に遊び戯むれる無垢なる小児の立場こそが、「存在の主」としての本来の自分をとりもどす人間回復の自由を可能ならしめるものである。…〕
    > って、書いてあるけど、ここんとこどうなのかしら?

    これ説明するとなるとちょい長くなってまうけど、まぁ適当にスルーでもええよ。

    キリスト教的な教義では生の意味や価値や目的はトップダウン且つ画一的に決められてる。
    ニーチェはこれに否を唱え、生はディオニュソス(混沌)で統一した意味や価値や目的などない、純真無垢なキャンパスみたいなもので、そこにどのような絵を描くかは生の主体者である個々人にかかっている。そういう意味では人間は世界や生に意味や価値を付与することが可能なクリエーター(創造者)なんだ、と。

    ツァラトゥストラでは「精神の三変化」を説くシーンがあります。

    ********************************************

    わたしはきみたちに精神の三つの変化を挙げてみせよう。すなわち、精神がラクダになり、そしてラクダがシシになり、そして最後にシシが子供になる次第を。内に畏敬を宿す精神、強くて、重荷に耐える精神にとっては、多くの重いものがある。この精神の強さは、重いものを、最も重いものを欲しがるのだ。何が重いか?重荷に耐える精神はそう尋ねて、ラクダのように、ひざまずき、そして、たっぷりと荷を負わされることを欲する。わたしがわが身に負うて、わたしの強さを享楽すべき、最も重いものは何か、きみら英雄たちよ?重荷に耐える精神はそう尋ねる。

    …《中略》…

    重荷に耐える精神は、これら最も重いもののすべてをわが身に負う。こうして彼は、荷を負わされて砂漠へと急ぐラクダのように、自分の砂漠へと急ぐのだ。だが、この最も寂寥たる砂漠において、第二の変化が起こる。ここで精神はシシになるのだ。彼はみずからの自由をかちとろうとし、自分自身の砂漠において主であろうとするのだ。彼はここで自分にとっての最後の主を捜し求める。彼は最後の主、自分の最後の神に、敵対しようとするのだ。彼は大きな竜と勝利を争おうとするのだ。精神がもはや主とか神とか呼ぶことを欲しない大きな竜とは、どのようなものか?この大きな竜は、「なんじ、なすべし」と呼ばれる。だが、シシの精神は「われ欲す」と言う。「なんじ、なすべし」が、この精神の行く道のかたわらに、金色にきらめきながら、横たわっている。それは一匹の有鱗動物であって、そのうろこの一枚一枚に、「なんじ、なすべし!」が金色に輝いている。これらのうろこには、千年の諸価値が輝いている。そして、あらゆる竜のなかで最も強大な竜は、次のように語る。「諸事物のあらゆる価値──それがわが身に輝いている。」「あらゆる価値はすでに創造された。そして、あらゆる創造された価値──わたしがそれである。まことに、もはや〈われ欲す〉が存在しなくてはならない!」竜はこのように語る。

    わたしの兄弟たちよ、なんのために精神のうちなるシシが必要であるのか?断念し、畏敬の念に充ちた、重荷を負いうる動物では、なぜ充分ではないのか?
    新しい諸価値を創造すること──それはシシもいまだなしえない。だが、新しい創造のための自由を獲得すること──それはシシの権力のなしうることだ。自由を獲得し、義務に対しても或る神聖な否認を行うこと、そのために、わたしの兄弟たちよ、シシが必要なのだ。
    新しい諸価値への権利を取得すること──それは、重荷に耐え、畏敬の念に充ちた精神にとって、最も恐ろしい取得である。まことに、このような精神にとって、それは強奪であり、猛獣のしわざである。
    この精神はかつて「なんじ、なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま彼は、自分の愛からの自由を強奪するために、最も神聖なもののうちにすらも、妄想と恣意とを見出さなくてはならない。この強奪のために、シシが必要なのだ。

    だが、言え、わたしたちの兄弟たちよ、シシもなしえなかった何ごとを、子供はさらになしうるのか?なぜ、強奪するシシは、さらにまた子供にならなくてはならぬのか?子供は無邪気そのものであり、忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、一つの自力でころがる車輪、一つの第一運動、一つの神聖な肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、わたしたちの兄弟たちよ、一つの神聖な肯定が必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失った精神は自分の世界をかちえるのだ。

    (ツァラトゥストラ 三つの変化について)

    *************** 引用終わり ***************

    ニーチェにとって「人生は認識者にとって一個の実験でありうる(悦ばしき知識 第324番)」わけで、生の主体者によって意味や価値を付与された世界には自己の対立物となるものなど存在せず、自己と世界が渾然一体となりえる。
    その世界においてさらなる価値創造を継続するのは、浜辺で砂の城を作っては破壊するような創造と破壊の無垢なる遊戯に高じる子どものような存在に変化するみたいな超人としての象徴的な喩えです。

    人として生まれた特権は世界に意味や価値を創出しつつ自己超克し続けることであり、絶対的な真理やトップダウンの善悪二元論道徳は、本来ダイナミックであるはずの生や個性豊かで多様な側面をもつ人間ならではの特権を画一化し弱体化させるばかりか、畜群動物へと後退させるようなマイナス要素があるということを看破したのだと思います。

    「汝なすべし」という定言命令を背負い力強い足どりで砂漠をゆく駱駝は牧師の長子として生まれたニーチェの幼少期から青年期、「我欲す」という力への意志からの雄叫びとともに自己超克の闘争に挑み続ける獅子はアンチクリストやインモラリストとしての哲学者ニーチェ、「然り」という聖なる肯定をもって無垢なる遊戯に高じる子供は発狂後のディオニュソスと化したニーチェのようで、ニーチェの生涯自体が精神の三変化と対比できるところも興味深いです。
引用返信/返信 削除キー/
■11395 / inTopicNo.92)  Re[8]: ニーチェ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 19:33:20)
    ■11394 、あ、ごめんなさい。
    >もうちょとパニさんに聞いちゃうね。「カント」っていう本のなかに<
    ってって書いちゃったけど〈「ニーチェ」っていう本〉のまちがいです。


引用返信/返信 削除キー/
■11394 / inTopicNo.93)  Re[7]: ニーチェ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 19:21:12)
    ■11392、パニさん、ニーチェについてよく知ってる。さすが!
    聞いてよかった。パニさん、ありがとございます。

    でも、
    >元従軍慰安婦が戦場売春婦<
    に絡めるのどうかと思うけどね。
    その後の「男女同権」っていうこと自身へんなんだよね。

    >女における一切は謎であり、そして女における一切は一つの解決を持つ。それはつまり妊娠だ。男は女にとって一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、女は男にとって何であるのか?<

    ニーチェって、人間の分類の仕方として、男と女っていう「性」で見てるんじゃないかってわたし思ってるのね。わたし『善悪の彼岸』を読んでそう感じたの。

    いまは違うよね。科学的に「性」の概念が変わってきてる。科学的に見ると、「性」に関しては、「ヘテロ」「ホモ」そして「トランスジェンダー」みたいなことが言われてるようだけどね。でも、もう一つないと性の分類は成立しな感じしてる。ま、これはどうでもいいわ。

    『善悪の彼岸』の「序言」の書きだしは、こうね。

    【真理が女である、と仮定すれば――、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解するにかけては拙(まず)かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女(あま)っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣(や)り口ではなかったか。女たちが籠絡(ろうらく)されなかったのは確かなことだ。…】

    で、ところでニーチェは、その【女(あま)っ子】たちを籠絡できたのかしら?
    どうもそうじゃなかったみたいじゃない?

    わたし、ニーチェのについて受け入れてるところは、
    >目的はつねに子供なのだ<
    ってう言うところ。

    もうちょとパニさんに聞いちゃうね。「カント」っていう本のなかに、

    〔…ニーチェによれば、明暗・表裏を含めての生存の全体を大きく肯定し、ありのままの存在と軽快に遊び戯むれる無垢なる小児の立場こそが、「存在の主」としての本来の自分をとりもどす人間回復の自由を可能ならしめるものである。…〕

    って、書いてあるけど、ここんとこどうなのかしら?






















引用返信/返信 削除キー/
■11392 / inTopicNo.94)  Re[6]: ニーチェ
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 17:51:03)
    No11389に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■11385 、パニさん、ありがとうございます。

    どういたしまして。

    > もうちょっと。「カント」の本の中に、

    > 〔ニーチェにとって女性とは、ギリシア市民たちの女性観がそうであってあったように、愛の対象というよりはむしろ、男のために家政をととのえ、強健な子どもを産み育てるという使命を果たすべきものであった。この使命を忘れて男女の同権を主張する女史たちは、自分が女としての資性に欠けていることを自認しているようなもので、愚劣きわまることのように思われた。〕
    > ってあって、
    > オランダの女流音楽家マティルダ=トランペダッハや、ニーチェの女弟子ルー=サロメにフラれたって書いてあったけど、このへんどうなの?

    ザロメには思いっきりフラれてます。(笑)
    以下、「NIETZSCHE WONDERLAND > ニーチェ伝 > 哲学成熟期」より

    ******************************************

    「永劫回帰」を受胎した同年、ニーチェは教養人が出入りするサロンでパウル・レーと知り合いローマ旅行に招待される。
    同じくサロンの常連でもありレーの友人でもあった帝政ロシアの将軍グスタフの娘、ルー・アンドレアス・ザロメとローマのサンピエトロ寺院近くで出会う。ルーはニーチェの独創的な思想に魅せられ、互いの思想に共鳴し意気投合した三人は、思想の完成を目的としたパリでの奇妙な共同生活を夢想するが、周囲の反対にあい実現しなかった。
    その後、ルーやレーとの親密で楽しい日々を過ごすうちに、ニーチェは最大の理解者であるルーを理想の伴侶として思い描くようになりプロポーズするに至る。

    ルーのニーチェに対する思いは恋情ではなく友情であったため、二度の求婚もニーチェの独り相撲に終わる。
    不幸なことにレーもルーに対して恋愛感情が芽生えており、ベルリンでの同棲計画を実行に移そうとしていた矢先でもあった。その上、嫉妬深いニーチェの妹エリーザベトからレーとルーがニーチェを中傷しているという情報ももたらされ、ニーチェは失恋と友情の破綻、最大の理解者の喪失という三重の孤独の中に沈んでいく。
    後年、ルーはベルリンで多くの著名人と交流を深め、ライナー・マリア・リルケからの求婚もやはり断り、ジークムント・フロイトに師事し自らも精神分析家として活躍した。

    *************** 引用終わり ***************

    さらにニーチェの女性観は自分が求める理想像を押し付けている感じはします。。。と言いつつ、ある意味ではある種の男性が描く男尊女卑かも知れないが本音としての理想像でもあるかもしれませんが、これを実際に女性に求める男はモテないだろうし、総スカンを食らうでしょうね(笑)。
    以下、「ツァラトゥストラ 老若の女どもについて」よりの引用

    ******************************************

    女における一切は謎であり、そして女における一切は一つの解決を持つ。それはつまり妊娠だ。男は女にとって一つの手段である。目的はつねに子供なのだ。だが、女は男にとって何であるのか?
    真の男は二つの違ったことを欲する。すなわち危険と遊戯だ。それゆえ、真の男は女を最も危険な玩具として欲する。男は戦争向きに教育されるべきであり、女は戦士の休養向きに教育されるべきである。そのほかの一切は愚かなことだ。
    もろもろの、あまりにも甘すぎる果実──戦士はそれを好まない。それゆえ、戦士は女を好む。最も甘い女でさえも苦いのだ。
    男より女の方が子供をよく理解する。だが、男は女より子供っぽい。真の男の内部には、一人の子供が隠れている。この子供が遊びたがるのだ。さあ、そなたら女性たちよ、是非とも男の内部の子供を発見せよ!女は、まだ現存しない一つの世界の諸徳に照明されて、宝石のように清純で優雅な、一個の玩具であれ。一つの星の光線がそなたたちの愛のうちに輝いてあれ!そなたたちの希望は、つまりこうであれ、「わたしは超人を産みたい!」

    *************** 引用終わり ***************

    元従軍慰安婦が戦場売春婦か知らんけど、今読んだら怒るでしょうねぇ〜(笑)

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■11389 / inTopicNo.95)  Re[5]: ニーチェ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/03/13(Sat) 13:07:44)
    ■11385 、パニさん、ありがとうございます。

    もうちょっと。「カント」の本の中に、

    〔ニーチェにとって女性とは、ギリシア市民たちの女性観がそうであってあったように、愛の対象というよりはむしろ、男のために家政をととのえ、強健な子どもを産み育てるという使命を果たすべきものであった。この使命を忘れて男女の同権を主張する女史たちは、自分が女としての資性に欠けていることを自認しているようなもので、愚劣きわまることのように思われた。〕
    ってあって、
    オランダの女流音楽家マティルダ=トランペダッハや、ニーチェの女弟子ルー=サロメにフラれたって書いてあったけど、このへんどうなの?

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■11388 / inTopicNo.96)  youtube 意識は幻想か
□投稿者/ パニチェ -(2021/03/13(Sat) 08:37:24)
    2021/03/13(Sat) 10:10:46 編集(投稿者)

    おくたがわさん、面白い動画の紹介をありがとうございました。
    以下は好き勝手に思ったことをカキコします。

    受動意識仮説はありえるとは思いますが、結論から言えば自由意志の有無も含めてペンディングです。
    時間のカットや後付け解釈は支持します。

    エピソード記憶を形成するために意識が生じたという仮説は疑問です。
    理由は次のような点です。

    ゴキブリの迷路学習はエピソード記憶ではなく意味記憶と考えるのか?
    そうなるとエピソード記憶と意味記憶の線引きはどこにとるのか?

    個人的にはエピソード記憶というのは言語的な記憶(言語的に保存され再現される時に映像化される)であり、その根拠としては物心がつく時期と言葉を習得する時期がかぶるということ。

    霊長類にもエピソード記憶を認める見解には賛成で言葉とは言語に限らず、ボディーランゲージも含まれるということ。意識と無意識がグラデーション的であるように、動物や脳の構造の違いによる意識と無意識も境界とか境目というものがない。よってエピソード記憶と意味記憶、手続き記憶も明確に分別できるようなものではないのではないか?(言葉によるラベリングに翻弄されているだけはないのか?)

    ロボットに意識が生じるのかについては如何にも唯物論的な考え方。
    意識やクオリアを有する人間と哲学的ゾンビに差異はないという発想は、1980年のジョン・サールによる「中国語の部屋」への代表的な反論として既に論じられており目新しくはない。哲学について触れているにもかかわらず「意識」とか「クオリア」は論じるが、〈私〉については全く考察されていない。

    東洋哲学との親近性は無我(相依性縁起と無自性)と受動意識仮説の共通性にあると思いますが、今のところパニチェは初めに〈私〉がありきで、そこから意識やクオリア、言語やエピソード記憶が形成される(纏わる)と考えています。

    ニューロンの発火がある一定範囲に及んだ時に意識的活動となるというのはフランシス・クリック&クリストフ・コッホによる「意識ガンマ波説」と同じですね。
    詳しくは。。。
    「Panietzsche Room > 探究 > 脳科学 > 4.意識のガンマ説」にまとめてあります。


    無我と非我については別の機会に。。。^^

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