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■12266 / inTopicNo.49)  おくたがわさんへ
  
□投稿者/ pipit -(2021/04/29(Thu) 17:59:15)
    >>12251
    おくたがわさん、こんにちは!(^o^)/♪

    まず、話題になってる経典のお三方によるそれぞれの英訳、日訳のページをご紹介いたしますね。
    小マールキヤ経
    パーリ仏典経蔵中部に収録されている第63経
    (1)
    https://suttacentral.net/mn63/en/sujato
    (2)
    https://suttacentral.net/mn63/en/bodhi
    (3)
    光明寺経蔵さまのサイト
    https://komyojikyozo.web.fc2.com/
    『中部』>「中分五十篇」>「比丘品」>「小マールキヤ経」

    それで、私は、なんですが、経典の内容は、

    >毒矢の喩えの時に、他の者には教えていることを自分には教えてくれないという不満を持って問うたところ、相手のステージによって必要なものを説くと仏陀は答えたとのこと。<

    とは微妙に違うかな??との感想を持っています。

    釈尊が他人に教えてた、とはなってなく、誰であろうと釈尊は苦集滅道についてを説くのだ、みたいな印象です。
    マールキャプッタさまが阿羅漢になった時の説法も結局は滅苦への道なので、四聖諦に含まれる法話かな?、
    マールキャプッタさまの場合、法話の中身を実践するか否かで(若い時に同じような説法を聞いていたとしても)、悟るか悟らないかの違いが出たのかなぁ?と妄想しています。
    (もちろんpipitの勘違いの可能性はいつでもありますm(_ _)m)

    >見ないもの聞かないものには執着しないだろうと応答した後で、
    見られたもの聞かれたものは、ただそれだけのものとしてあり(それを滅するにまかせ積み上げなければ)執着はないと、
    そしてそのとき、あなたは、この世にも、あの世(他界・他世)にも、両者の中間にもない 
    となりますね。<


    >なんか、カントの自己意識の部分も連想しました。
    様々な表象が統合されることが認識や思考の前提とし、統合される表象には必ず自己意識が伴うと書いていたような(理解が間違っていたら指摘ください)。
    予め存在する自己が予めまとまっている対象を知覚し認識・思考するという発想ではなく、個々に出現した表象を統合して認識・思考に至る過程で自己が登場するという感じ。<

    同じようにわたしも感じています(^。^)
    否応なしに(人間のつくりとして?)意識に『わたし』という意識も着けちゃうけど、それは意識なだけで、


    ここまでは、カントの統覚のおはなしで、
    ここからは、仏教のおはなし


    見られたものを、わたしが見た、と考える。
    聞かれたものを、わたしが聞いた、と考える。
    思われたものを、わたしが思った、と考える。

    その自己(わたし)意識を不着させないとき、、、どんな世界が開かれるのか、、、


    、、、といっても、カントも、わたしは感情みたいなもの、ってプロレゴーメナで言ってるとか?御子柴善之先生の『カント哲学の核心』p201参照、、、を見直したら、概念ですらないって!
    『「私」は、ある現在在の感情に他ならず、いささかも概念を含まない。それは一切の思考がそれと関係(偶有性の関係)をもつものの表象に過ぎない。(Ak334、中公218、岩波178)』
    読み返してびっくりしました。
    (でも、いつも通り、カント言説はわかりそうでわかりませんが(^^;)

    おくたがわさん、いつも本当〜〜〜にっ!ありがとうございます!!

引用返信/返信 削除キー/
■12253 / inTopicNo.50)  大規模検査の必要性
□投稿者/ rest -(2021/04/29(Thu) 11:06:06)
    2021/04/29(Thu) 11:08:38 編集(投稿者)

     今年2月に政府専門家会議に提出された報告書には、PCR検査を行う国内施設を調査した結果、陽性検体を陽性と判定する確率は99.4%〜99.8%だったと報告されている。つまり偽陽性は著しく少ない、ということがわかる。
     さらに日本医師会の有識者会議特別チームでは、感染していない人を陰性と判定する確率は99%以上とされている。つまり偽陰性も著しく少ない、ということを示している。
     これらのことから偽陽性、偽陰性を理由にPCR検査の大規模検査に反対する根拠はないことがわかる。大規模PCR検査を通して、できれば全数検査を通して陽性患者を早めに発見し、保護隔離することによって市中感染を防ぐことができる。
     ある少数政党の政策だからといって偏見でみるのではなく、国民の命を守るという視点から大胆に採用してもらいたいものだ。この手法は共有財産だと思う。
     国民の自粛疲れに応えるものとして大規模検査を期待したい。
引用返信/返信 削除キー/
■12251 / inTopicNo.51)  Re[10]: pipitさんへ
□投稿者/ おくたがわ -(2021/04/29(Thu) 08:50:06)
    No11881に返信(pipitさんの記事)
    pipitさん、おはようございます。遅〜いレスですみません。いつの話やねん あほ〜〜と言ってください(心の中で)。

    > 私見を書きますね。
    > この経典は、まず、マールンキャプッタさまが釈尊に
    > 「わたしに簡潔に教えを説いてください!」と頼むところからはじまりますよね。
    > このマールンキャプッタというお名前、無記が説かれた毒矢の喩えの経典に出てくる、弟子のお名前と同じなんですよね。
    > 学術的なことは知らないのですが、
    > もし、同じ方だとしたら、、、(pipitの妄想・想像↓)

    毒矢の喩えについて説明したサイトで、後年のマールンキャプッタ尊者が未だ修行が進んでいなかった頃の話と書いたのがありましたので、同一人説が当たりではないでしょうか。
    『マールキャプッタ経』だけ見ていたら、分かりが早い人かと思っていたら、こういう経緯があったのですね。
    pipitさんが書かれていたように、すごく嬉しかったでしょうね。発言を反復までしてもらって。

    毒矢の喩えの時に、他の者には教えていることを自分には教えてくれないという不満を持って問うたところ、相手のステージによって必要なものを説くと仏陀は答えたとのこと。
    後年の『マールキャプッタ経』は高度な段階で説く真理と考えていいのでしょうか。それにより『尊者マールキャプッタもまた、阿羅漢たちの一人となったのである』という記述もあり。
    個人的には、けっこう核心の部分であるように感じました。

    見ないもの聞かないものには執着しないだろうと応答した後で、
    見られたもの聞かれたものは、ただそれだけのものとしてあり(それを滅するにまかせ積み上げなければ)執着はないと、
    そしてそのとき、あなたは、この世にも、あの世(他界・他世)にも、両者の中間にもない 
    となりますね。(読みが間違っていたら指摘ください。

    紹介いただいた3種の英訳も味わい深かった。詩的とも思います。


    なんか、カントの自己意識の部分も連想しました。
    様々な表象が統合されることが認識や思考の前提とし、統合される表象には必ず自己意識が伴うと書いていたような(理解が間違っていたら指摘ください)。
    予め存在する自己が予めまとまっている対象を知覚し認識・思考するという発想ではなく、個々に出現した表象を統合して認識・思考に至る過程で自己が登場するという感じ。

    > マールンキャプッタさまとは別の方で、
    > この簡潔な教戒を聞いただけで、すぐさま阿羅漢に悟られた方(バーヒヤさま)の経典もあるんです。

    毒矢のときに理屈で形而上学的な問題を考えようとするタイプだったマールンキャプッタさんは修行に時間がかかった というのが、ありそう という感じで。
    実際にいた人たち感。

    > > 「(そのように彼は)念をもっておこなう。」がどういうことなのか。どうすれば『それが滅び、積まれないように』なるのか。
    > 解釈は分かれるのかな?<
    >
    >
    > わたしは、
    > 自分の行為を観察・自覚・気づくことによって、過度に執着せず、自然にそれが滅びるままにする、
    > とか、
    > 釈尊の教戒を思いながら、新たな苦を積まないように気をつける、
    > とか、
    > 今のところそのような感じに捉えています(全然違うかもです!)

    ありがとうございます。観察・自覚・気づく - 大事なのでしょうね。

    > マインドフルネスと訳されることも多い『サティ(念)』の解釈もwikiなどを読むにいろいろあるみたいですね。

    色々な情報を紹介いただき、ありがとうございます。
引用返信/返信 削除キー/
■12246 / inTopicNo.52)  合成の誤謬
□投稿者/ rest -(2021/04/28(Wed) 20:58:53)
    東京電力福島第一原発で発生した放射性物質トリチウムを含む処理水において、トリチウム濃度を希釈して海に垂れ流すそうだ。IAEAも了解しているので別に問題がなさそうだが、本当に大丈夫だろうか。
     私が心配しているのはトリチウムを薄めてもトリチウムの絶対量は太平洋において増えていくということだ。日本だけではなく全世界の原子力発電所のトリチウム処理水が海に垂れ流しされると、海全体のトリチウムの絶対量が年々増えていく。これが海産物に影響は与えないだろうか。
     個別に正しいことが全体では間違っていることがある。これを合成の誤謬という。これに該当するのではないか。
     無論トリチウムの半減期が12年なので半分は消えるが毎年累積していくのでしかも世界的に累積していくので問題は解決しない。ちょうど二酸化炭素の排出が世界的に増加していく割合と、森林や植物の光合成により、二酸化炭素が減る割合の比較で前者が後者を上回っているのと同じでトリチウムの増える割合と半減期で消える割合の比較が必要だ。二酸化炭素が全地球的規模の問題になっているように、トリチウムもそうならないとはいえない。データーはないが、そういう問題があることを指摘しておきたい。
引用返信/返信 削除キー/
■12148 / inTopicNo.53)  予定説(二重予定説)
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/25(Sun) 07:30:20)
    2021/04/25(Sun) 07:49:50 編集(投稿者)

    エフニさんも指摘していたが「何でそんなこと貴方が知ってるの?」ってのが最強の反論となる。
    論理や根拠で返そうとすると必ず破綻する。

    それを言っちゃぁ〜聖書も同じよってことになるが。。。
    要するに信仰とはそういうもの。

    論理的に説明する必要などないし、むしろ論理や根拠が示せないのは信仰を否定されたり批判されることにはならない。
    必ずしも論理が正しさや実相の根拠にはならないということ。

    何故なら論理は言語であり、言語は不完全なものであるから。
    論理至上主義こそナンセンス。

    だから仏教では実相や真如は拈華微笑に象徴される教外別伝や勝義諦、不立文字や言語道断とされる。
    拈華微笑も、仏典で語られる他の多くのイベントと同じく後から創作されたフィクションであるとは思うが、教説を広めるための方便だろう。

    有神論者には自身の信仰対象や教義を哲学や科学でもって根拠付けたがるタイプも多いが、裏返して言えば、それは自身の信仰について自信のなさの表出でもあるのではないか?
引用返信/返信 削除キー/
■12143 / inTopicNo.54)  勿忘草さんへ
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/24(Sat) 21:21:59)
    No12128に返信(勿忘草さんの記事)

    また気が向いたらカキコして下さい。

    別れ際ですが歯に衣着せぬ私らしく苦言を一言。。。

    信仰にせよ、哲学にせよ、もうちょっと真摯というか誠実に向き合った方がいいと思います。

    レス交換にしても、知ったかより、知ろうという意欲が自分を深めることになる。

    お元気で。
引用返信/返信 削除キー/
■12130 / inTopicNo.55)  因果性と自由
□投稿者/ rest -(2021/04/24(Sat) 11:19:26)
    2021/04/25(Sun) 21:47:30 編集(投稿者)

    ヒュームによれば原因と結果の結びつきは観念の習慣的連合にすぎない。自然の斉一性は恒常的連接の経験から生じるとしている。

    2H^2+O^2→2H^2O (^2は添え字 化学反応式)

    左辺の水素と酸素は原因で右辺の水は結果である。しかし左辺が右辺になる必然性はない。水素と酸素をいくらかき混ぜても水にはならない。いくらまぜても水素と酸素のままである。そこで必要になってくるのが着火である。着火するかどうかは人間の自由意志にかかっている。着火すれば水ができる。原因と結果に必然性はなく人間の自由意志が関わってくる。着火しなければ永遠に水素と酸素のままであり、着火を選択すれば水素と酸素は水になる。
     今度は逆の場合

     2H^2O →2H^2 + O^2

    左辺の水が原因となり、右辺の水素と酸素は結果となる。原因と結果は時間的順序であり、任意に入れ替えることができる。今度も何もしなければ左辺の水は永遠に水のままであり、人間の自由意志によって電気分解することによって右辺の水素と酸素を得ることができる。自由意志によって電気分解しなければ永遠にそのままであり、電気分解を選択すれば水素と酸素ができる。原因と結果に必然性はなく自由意志が関わることができる。
     自然現象には恒常的連接による習慣的な因果性があるが、人為的でなくとも我々の主観がその規則性を認識しえても因果性は必然的とは限らない。人為の関わる余地があるからだ。


引用返信/返信 削除キー/
■12004 / inTopicNo.56)  神の摂理
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/18(Sun) 15:28:55)
    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(ニーチェ著「悦ばしき知識 第140番」より)』

    審判という行為自体が愛の対象となりえるなんて、どう考えても矛盾している。
    万人は既に救われているという浄土系の教説の方が慈悲や愛に溢れているのではいか?

    神の摂理や意向など人間には思い及ばないし、知る由もないという論理は、それを発言している人間にその言説の根拠も聞いてみたいものだ。
    発言自体が嘘つきパラドックス的であることの自覚もないのか。。。。
    要するに「自分には分からない」と述べているだけに過ぎない。

引用返信/返信 削除キー/
■11994 / inTopicNo.57)  Re[9]: 自由と政治
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/18(Sun) 14:06:19)
    こんにちは、restさん。
    レスありがとうございいます。

    No11993に返信(restさんの記事)
    > 2/1,ミャンマーにおいて国軍のクーデターが発生して以来デモ弾圧で700人以上の死亡者がでている。
    >  日本の外務省は市民殺害の続くミャンマー情勢に関して世論調査で情勢改善に向けて積極的関与する必要があるとの回答が72.3%もあった。
    >  民主派による連邦議会代表委員会CRPHは「挙国一致政府」を16日に発足。承認を世界に求めている。日本は承認すべきではないか。そうなると「誰が為に鐘はなる」(ヘミングウエー著)の主人公のように義勇兵として内戦に参加という事態もありうる。自由か独裁か、民主主義か専制主義か。国軍は民主主義を雑草にたとえて刈り取ると主張しているが軍政こそが雑草ではないか。
    >  サイコパスは独裁者タイプに多い。支配ー被支配の関係を国民に強いる。それに対して民主主義は統治者を自ら選んで自らを統治するので統治者と国民の関係は支配ー被支配の関係にない。形式上の権力は自ら決めたルールを自ら守らせるためのいわば自律を意味する。独裁制は独裁者が決めたルールを守らせる他律であり、支配ー被支配の関係にある。民主主義社会は統治者と人民の関係は支配ー被支配の関係ではなく、対等な関係である。ミヤンマーの人民の戦いを支持したい。
    > 決定論支持で自由意志を否定するとこのような自由をめぐる戦いが無意味に思えるかもしれないが。

    実際に決定論支持で自由意志を否定する人ってどれくらいいるでしょうか。
    私はもちろん違いますし、そんなに多いとは思いません。
    科学は唯物論であり、脳を機械論的に記述しようとすると自由意志なんてものは否定するようなメカニズム論になると思います。

    ところが脳科学は脳のマッピング(どのような部位がどのような機能を有しているか)とか脳内物質の解明など、部分を分析するレベルであって、脳全体の機能が対象となるであろう(ひょっとしたら身体性も含めた)意識や意志はもちろん、その手前の自我意識の解明などはほど遠い。
    唯物論を前提とした脳科学的な実験や検証から自由意志を否定されるような知見が出てくるのは、それこそ理論負荷性にあると思います。

引用返信/返信 削除キー/
■11993 / inTopicNo.58)  自由と政治
□投稿者/ rest -(2021/04/18(Sun) 12:21:06)
    2/1,ミャンマーにおいて国軍のクーデターが発生して以来デモ弾圧で700人以上の死亡者がでている。
     日本の外務省は市民殺害の続くミャンマー情勢に関して世論調査で情勢改善に向けて積極的関与する必要があるとの回答が72.3%もあった。
     民主派による連邦議会代表委員会CRPHは「挙国一致政府」を16日に発足。承認を世界に求めている。日本は承認すべきではないか。そうなると「誰が為に鐘はなる」(ヘミングウエー著)の主人公のように義勇兵として内戦に参加という事態もありうる。自由か独裁か、民主主義か専制主義か。国軍は民主主義を雑草にたとえて刈り取ると主張しているが軍政こそが雑草ではないか。
     サイコパスは独裁者タイプに多い。支配ー被支配の関係を国民に強いる。それに対して民主主義は統治者を自ら選んで自らを統治するので統治者と国民の関係は支配ー被支配の関係にない。形式上の権力は自ら決めたルールを自ら守らせるためのいわば自律を意味する。独裁制は独裁者が決めたルールを守らせる他律であり、支配ー被支配の関係にある。民主主義社会は統治者と人民の関係は支配ー被支配の関係ではなく、対等な関係である。ミヤンマーの人民の戦いを支持したい。
     決定論支持で自由意志を否定するとこのような自由をめぐる戦いが無意味に思えるかもしれないが。
引用返信/返信 削除キー/
■11932 / inTopicNo.59)  Re[9]:リベットの実験について4−2
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/17(Sat) 09:10:14)
    No11872に返信(おくたがわさんの記事)
    > 「準備電位に逆らえないなら自由意志はないが、準備電位の示す方向は意識的に取り消せるので自由意志は確保される」
    > という主張が正しくなるためには、その「取消」に準備電位があってはならない。
    > と、再考の結果、やはりそう考えます。

    > もし「取消」に準備電位が発生するとしたら、
    > 1 取消さずボタンを押す場合は、取消の準備電位が発生しなかったからボタンを押す準備電位にそのまま従ったので、全ては準備電位に操られている。
    > 2 次に、取消の準備電位が発生し、ボタンを押さない場合。この「取消し(ボタンを押さない)」準備電位に対する「拒否」も可能だから意志は確保されるという論点は、1と同じ理由で反論される。最初の拒否で決定する場合は、それをもう一度覆す準備電位が出ないから第一の拒否準備電位に従ったのであるから。
    > この理屈は、無限後退しても変わらないと思われます。

    同意します。
    もし中断にも準備電位が発生しているのなら、つまるところは反射のような行為と自由意志による行為に差異はないのではないか?
    結局のところ後付けで「自ら動いたように思える行為については」自由意志とラベリングしているだけではないか?ということになり、セキバ氏と議論した「信号機が青から赤になることと、私たちの自由意志による行為に差異はあるのか?」というディベートが思い出されます。


    >> 『「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ):研究結果』
    >>https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

    >>ちょっと思ったこと。
    >>通常ならボタン押し準備電位発生=赤ランプ から0.3秒後にボタン押しの顕在意識が自覚できるはず。すると、この実験では取消せと示唆する赤シグナルより遅れてボタンを押すという自覚的意志がノコノコ現れることになるのか…。
    >>この紹介サイトでは
    >>『そして今回の実験によって示されたのは、まさに脳からの司令を拒否するのは可能だということである。ただし、後戻りできないポイントというのは確かに存在する。実験では、ボタンを押す約0.2秒前までならば、動作を中断、または拒否することが可能であったという。0.2秒を下回ると、ボタンを押す動作は止められなかった。』
    >>こう結論しています。
    >>動作の約0.2秒前というのは通常は顕在意識が動作を意志するタイミング。準備電位からは0.3〜0.35秒後。
    >>その時点に間に合うとは、何が間に合う 何が動作の0.2秒前までと言っているのか。
    >>『赤いシグナルを見た被験者が意識的にボタンを押すのを中断、または、拒否できるかどうかを調べた。』
    >>というのだから「取り消す」という顕在意識は生じるという前提のよう。
    >>その取消そうという顕在意識が動作の0.2秒前までに為されれば間に合うという意味だとしたら、赤ランプ点灯より少し意志が遅れてしまいボタン押し動作予定の0.2秒前(通常ならボタン押しの意志が発生するタイミング)より遅れると取り消せないということか。あるいは、赤ランプのタイミングをズラして色々試したか。
    >>いずれにしても、ボタン押しの意志が生じるタイミングより前に取消しの意志もしくは指示が出るときだけ取り消せるということになりそうなのですが…
    >>その取り消せる場合、ボタンを押すという意志の顕在意識はどうなるのか。
    >>普通に考えると被験者は『緑の間にボタン押しを決定したが、赤になったので取り消した』と自覚するはず。しかしその場合は、事実とは異なる意識を体験しており、意識が現実そのままの反映ではなく後付けであることを示す証拠の一つになりそう。本当はボタン押し意志の意識より前に取消意志の意識もしくは赤シグナルが来ないと取り消せないのだから。
    >>ボタン押しの準備電位と取消指示の赤シグナルのタイミングをシンクロさせるという設定が非常に面白く思えてきました。準備電位が自覚的決断より先にあるがゆえに生じる奇妙さかと思います。
    >>そういう点からも、実際の被験者がどういう意識を自覚するのか(ボタン押しの意志・取消の意志の有無と順番)、そして取消の準備電位はどのタイミングで計測されるのかされないのか。知りたいです。
    >>ただし、こういう場合、私の勘違いということも多いので、おかしいと思われましたらご指摘ください。

    その通りだと思います。
    だから私は取り消しは行為ではなく反射ではないのか?と考えているわけです。
    問題は行為と反射に差異があるのかどうか。。。

引用返信/返信 削除キー/
■11931 / inTopicNo.60)  Re[7]: リベットの実験について4−1
□投稿者/ パニチェ -(2021/04/17(Sat) 09:07:11)
    2021/04/17(Sat) 09:34:56 編集(投稿者)

    おはようございます、おくたがわさん。
    レスありがとうございます。

    No11850に返信(おくたがわさんの記事)

    > こんばんは。すごく間があいての返信で、すみません。

    もうまんたい♪
    半年や1年あこうがレスが逃げるわけではないので全く問題ありません。^^

    まずは私の今現在の結論から述べますと私は自由意志を認めます。
    根拠はパニチェは自由意志の根源的な主体でもある〈私〉は脳の随伴現象や物理現象によって記述できる(説明あるいは解明できる)ようなものでは明らかにないからです。
    でも上記の結論は(話が大きく逸れるので)このレス交換ではいったんペンディングします。

    以下、同意できたところは省略させてもらいます。

    > 準備電位から動作までの0.5秒の間に発動できる拒否が思考による判断ではなく、反射的なものの場合、生得的な反射ではなく学習によって身に付くものがあるとして、その学習をするという決断まで自由意志が遡るのか。しかしそうなると、そもそもの問題は未解決になりそう。
    > また、教育(価値観・判断基準の植え込み)と自由意志の関係とか。

    同意です。

    > 腱反射と言うのは脚気のテストみたいなのですか。自由意志は入らないのではないでしょうか。詳しく知らないので直観的にですが。

    私も同じように考えています。腱反射や脊髄反射など、反射には意志や自由意志は入り込む余地はないと思います。

    >>なんか昔々に鮭場と議論(ディベート)した「信号機に意志はあるのか?」が思い出されます。^^
    > その話題で議論されていたのは憶えているのですが、内容は思い出せませんすいません。

    いえいえ、とんでもない。おくたがわさんが覚えていないのは当然です。むしろ覚えていたらキショイ(笑)です。
    これについては後のおくたがわさんのレスでカキコします。^^

    > しかし、自分が分かっていなくて変なことを書いている可能性というのをいつも感じます。今回も。
    > 遅レスでもありますし、返信は自由意志におまかせします。

    返信のタイミングやレス内容も含めて気軽にいきましょう。
    心地よい刺激になりますし、昔の掲示板のようにツッコミや議論の勝ち負けなど、ここでは全く無関係ですからね。^^

    > 追記
    > ある動画では、
    > 身体に対して「歩け」と指令を出す脳の部位に対して「歩けと指令を出せ」と指令を出す脳部位があり、さらにそこに指令を出す部位がある
    > そういうことが分かってきて自由意志の問題がさらに難しくなっている
    > というようなことを言っていました。
    > たしか↓これだったと思います
    > https://www.youtube.com/watch?v=wPXLUxkqEt8
    > 酒井邦嘉「脳から見る人間の言語と心」

    歩行とか呼吸って意識と無意識の狭間にあるんだと思います。
    次は右足、次は左足などいちいち意志しているわけはありませんからね。
    日常的な朝の出勤までの動作もいちいち「次はこれ」と考えることなく無意識的(自動的)に行われます。
    雲水にとっては作務も修行であり、作務によって眼が開くなんてこともよくあるそうで(禅定によって眼が開くとは限らないようです)、それはきっと忘我のうちに行われる作務が禅定の代わりになっているのだと思います。
    仏教で自由意志が否定されるのは、私たちが日常的に考えている自我とか自己、つまり自由意志の主体は幻想(相依性縁起によってつくられたもの)であり、そんなものは真の我ではない(非我)あるいは無い(無我)と説かれている(達観している)からだと思います。

    PS.酒井邦嘉「脳から見る人間の言語と心」を見ました。感想としては言語を過大評価し過ぎているように思われますし、人間の本性についての考察はあまりにも一方向で浅いように感じました。

引用返信/返信 削除キー/

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