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■13356 / inTopicNo.13)  余談(傲慢について)
  
□投稿者/ rest -(2021/05/29(Sat) 10:22:14)
     経済学の父、アダム・スミスの著書『道徳感情論』によれば「卑下していじけるよりは傲慢なほうがよい」ということを書いた一節があるが、これが後年「自由放任主義」へと発展し、神の見えざる手によって調和に導かれる、という考えにつながった。
     ただその考え方だと景気循環でくる大恐慌における大量の失業者の存在が放置されることになり、社会問題に目をつぶることになる。その考え方に異を唱えたのがJ.M.ケインズだった。
     戦時中における日本の軍部の失敗の原因として傲慢なリーダーの態度がいわれる。自分の都合の悪い情報を提供する部下を遠ざけ、結果まわりはリーダーにとって都合のいい情報のみを提供するごますり集団でかたまってしまう。どうなるかというと都合の悪い、しかし客観的な情報が入らなくなり、正しい政策判断ができなくなってしまった。それが敗戦につながった。
     
     平家物語の冒頭を紹介したい。

     「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夢のごとし。たけき者もついにはほろびぬ、ひとえに風の前の塵に同じ」

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■13312 / inTopicNo.14)  藁人形論法と確定する!(笑)
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/28(Fri) 20:31:18)
    No13187に追記(パニチェさんの記事)

    > 多分、アートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めていることになるという解釈でしょうね。(次の土日で調べ直してみます)

    以下、引用しておきます。

    『以上の考察から判明したように、最初期の仏教においては、客体的に把捉し得るありとあらゆるものが,アートマンならざるもの、すなわち非我である、ということを強調していたのである。決してアートマンが存在しない、とはいわなかった。そうして倫理的行為の主体としてのアートマンを認めていたが、それの形而上学的性格については、完全に沈黙を守っている。このように形而上学的問題に触れることを避けていたのである。(中村元選集第15巻 原始仏教の思想P576より)』

    『ともかくも右の一連の教説においては、われわれの個体を構成しているいかなるものをも、「アートマンならざるもの」(非我)とよんでいるのであり、いわゆる無我説を述べているのではない。(中村元選集第15巻 原始仏教の思想P615より)』

    『我という形而上学的原理を想定しないという点では、説一切有部は仏教本来の立場に忠実であった。しかし、経典の中には、なんらかの意味において、我に類する原理を想定するような思想も表明されていたし、小乗諸派のなかには、このような思想傾向を発展せしめたものもある。すなわち小乗諸派では有情の輪廻を認めていたから、輪廻の主体を想定せざるをえず、しかし、仏教は無我説であるから、ただちに実体としてのアートマンを認めることができない。そこで、我とは異なるが、それと類似したなんらかの輪廻の主体を想定した。そうして、それによって生存主体(有情)の連続、因果応報の可能なるゆえんを説明しようとした。(中村元選集第20巻原始仏教から大乗仏教へP118より)』

    何れにせよ佐々木氏の「中村博士は仏教では我を認めている」または「中村博士は我の実在を認めていた」と主張も、「中村博士は輪廻の主体をアートマンと想定していた」という主張も藁人形論法であることが確定しました(笑)。

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■13187 / inTopicNo.15)  Re[26]: 阿含経
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/25(Tue) 20:59:16)
    2021/05/25(Tue) 21:18:48 編集(投稿者)

    こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。

    No13174に返信(おくたがわさんの記事)

    > これは佐々木氏が言っている中村氏の著書の該当部分で、佐々木氏が反論しているようなことを中村氏は書いていないということでしょうか?

    私は神々との対話という本も読んでいませんので、中村博士が佐々木氏の示している箇所をどのように解説しているかは実際には知りません。

    ただ佐々木氏は「私」や「我」を「アートマン」と同義に考えており、これがそもそもの間違いだと思います。
    少なくとも私は中村博士が「仏教では我を認めている」とか「我の実在を認めていた」と主張しているなんてことは知りませんし、そんな主張は読んだ記憶がありません。

    私が知っているのは先にも述べましたが原始仏典では無我以前に非我が使われており、この非我とは「アートマンならざるもの」という意味だと解説されています。
    原始仏典ではアートマンの存在は否定していないという主張はどこかでされているかもしれませんが、これをもって「仏教では我を認めている」や「我の実在を認めていた」とはイコールにならないということです。

    佐々木氏も12:02で「(中村先生は)岩波文庫の中ではアートマンを認めている議論のひとつの証拠なんだというふうにおっしゃってるんですね」と言い直して(当人は無自覚だとは思いますが)おり、これなら中村博士としての主張は辻褄は合います。
    むしろ私が佐々木氏に問いたいのは「では原始仏教での『非我』とは『どういう我に非ず』なんですか?」ですね。^^

    > 原始仏典ではアートマンがあるかないかについては言っていないということでしょうか? あるいは、これはアートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めているという解釈でしょうか?

    多分、アートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めていることになるという解釈でしょうね。(次の土日で調べ直してみます)

    > ほんとに何も知らない上に物分かりが悪いので、話にならないと思われましたらスルーしてください。

    全然、大丈夫ですし、むしろ有難いです。
    私も返信することによって自分の考えをまとめたり、書籍で再確認するきっかけになっていますから。

引用返信/返信 削除キー/
■13174 / inTopicNo.16)  Re[25]: 阿含経
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/25(Tue) 20:16:44)
    No13150に返信(パニチェさんの記事)
    こんばんは。レスありがとうございます。

    > 佐々木閑氏はどうも藁人形論法をやってるように私には思えます。
    > 中村元博士は仏教に我を認めているということではなくて、原始仏典では無我説以前に非我説が先行しており、その非我説は「アートマンならざるもの」という表現が用いられているということを解説している。

    これは佐々木氏が言っている中村氏の著書の該当部分で、佐々木氏が反論しているようなことを中村氏は書いていないということでしょうか?

    > 純粋に学問的に原始仏典で用いられている表現をもとに解説しているのであって、これに反論するなら、やはり原始仏典でアートマンの存在を否定しているものを提示すべきだと思う。
    > もっとも私は梵語やパーリ語を読めるわけではないので、この点については中村元博士の解説を信用しているということにはなるが。。。
    >
    > *** 以下、中村元選集第15巻 原始仏教の思想Tより ***
    > 「五つの構成要素のいちいちが苦であるがゆえに非我であるという教説、また無常であるがゆえに無我であるという教説も述べれれているが、とくに次の句がしばしばくり返されている。『物質的なかたち[または感受作用・形成作用・識別作用]は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみであるものは非我である。非我であるものはわがものではない。これはわれではない。これはアートマンではない(yad anatta tam netam mama neso hamasim na meso atta)。正しい知恵をもってこの[道理]を如実に観ずべし。』(大正経 二巻2ページ上)」

    原始仏典ではアートマンがあるかないかについては言っていないということでしょうか? あるいは、これはアートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めているという解釈でしょうか?

    ほんとに何も知らない上に物分かりが悪いので、話にならないと思われましたらスルーしてください。
引用返信/返信 削除キー/
■13150 / inTopicNo.17)  Re[24]: 阿含経
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/24(Mon) 20:54:07)
    こんばんは、おくたがわさん。
    動画の紹介ありがとうございます。

    No13132に返信(おくたがわさんの記事)

    > こんにちは。
    > 続きの動画で関連する内容があり、中村さんの考えへの言及がありました。
    > 『佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−7」』
    > https://youtu.be/iLh-rVv_UBo?t=595

    > どちらが正しいか言える素養が私にはまったくありませんし議論もできず申し訳ありませんが、あくまでご参考までに。

    佐々木閑氏はどうも藁人形論法をやってるように私には思えます。
    中村元博士は仏教に我を認めているということではなくて、原始仏典では無我説以前に非我説が先行しており、その非我説は「アートマンならざるもの」という表現が用いられているということを解説している。

    純粋に学問的に原始仏典で用いられている表現をもとに解説しているのであって、これに反論するなら、やはり原始仏典でアートマンの存在を否定しているものを提示すべきだと思う。
    もっとも私は梵語やパーリ語を読めるわけではないので、この点については中村元博士の解説を信用しているということにはなるが。。。

    *** 以下、中村元選集第15巻 原始仏教の思想Tより ***
    「五つの構成要素のいちいちが苦であるがゆえに非我であるという教説、また無常であるがゆえに無我であるという教説も述べれれているが、とくに次の句がしばしばくり返されている。『物質的なかたち[または感受作用・形成作用・識別作用]は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみであるものは非我である。非我であるものはわがものではない。これはわれではない。これはアートマンではない(yad anatta tam netam mama neso hamasim na meso atta)。正しい知恵をもってこの[道理]を如実に観ずべし。』(大正経 二巻2ページ上)」


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■13132 / inTopicNo.18)  Re[23]: 阿含経
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/24(Mon) 16:09:36)
    No12937に返信(パニチェさんの記事)
    こんにちは。
    続きの動画で関連する内容があり、中村さんの考えへの言及がありました。
    『佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−7」』
    https://youtu.be/iLh-rVv_UBo?t=595

    どちらが正しいか言える素養が私にはまったくありませんし議論もできず申し訳ありませんが、あくまでご参考までに。
引用返信/返信 削除キー/
■13101 / inTopicNo.19)  社会哲学と尊属殺人
□投稿者/ rest -(2021/05/23(Sun) 22:45:45)
     ドイツの社会学者テンニースによると、社会の結合類型としてゲマインシャフト(共同社会)とゲゼルシャフト(利益社会)がある。
     私はこのことに関連して社会的結合のありかたとして個性的結合と類的結合というわけかたをしている。個性的結合はゲゼルシャフトを意味し、類的結合はゲマインシャフトを意味している。
     具体的にいうと個性的結合は同時に類的対立を生じさせ、たとえば市場経済の物々交換において異なる商品を扱う業者では懇意に交換がなされ、同じ商品を扱う業者では対立、競争が生じる。個性が違うと安心するが個性が同じだと緊張し対立が生じる。個性的結合は物々交換だから当然利益社会である。つまりゲゼルシャフトだ。
    また個性的結合は同時に類的対立も引き起こすので、血縁共同体と著しい緊張関係をもたらす。家族内対立であり、少年なら反抗期、うまくいけば自立心を養うがうまくいかないときは尊属殺人にいたるケースがある。本質は類的対立なのだ。
     類的結合は同時に個性的対立を生じさせ、共同体社会(ゲマインシャフト)における秩序維持機能を果たす。共同体社会におけるルールは諸個人の類的行為によって維持されるが個性的結合が強いと類的行為を嫌ってルールからはみだしていく。これがルール違反であり、犯罪であり、悪の本質であるといえる。
     共同体は個性に対して抑圧的であるのも類的結合が同時に個性的対立という原理の反映である。共同体は自己と異質なものには攻撃的に対立する。日本におけるいわゆる世間というのは諸個人に同調圧力が働くのも、共同体による異質なものへの対立が原理的に働くからだ。
     私が基準にしている社会の望ましい在り方は、フロイトから学んだ。超自我(共同体意識)とイド(個性的意識)の中間的な仲立ちをする自我(エゴ)の在り方だ。どちらも認めて共存する在り方だ。現実原則に基づく。個性的結合と類的結合は対立はするけれどもどちらも必要な存在でありバランスが大切だろうと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■13093 / inTopicNo.20)  
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/23(Sun) 21:47:58)
    2021/05/23(Sun) 21:53:22 編集(投稿者)

    以下、Panietzsche Room > ニーチェU > ツァラトゥストラの動物たち > 蛇より

    『ツァラトゥストラが、われとわが心にこう語り終えとき、折しも太陽は正午の空に佇んでいた。ふと彼は、探る目付きで天を見やった─頭上に鳥の鋭い叫びを聞いたのである。すると見よ!一羽の鷲が空に大きな輪を描き、鷲には一匹の蛇が懸かっていた。獲物とは見えず、あたかも盟友のようであった。というのも、蛇は鷲の首に輪をなして絡まっていたからである。「あれは、わたしの動物たちだ!」ツァラトゥストラはこう言って心の底から喜んだ。「太陽の下で最も誇り高い動物と、太陽の下で最も賢明な動物だ、─彼らが物見にやってきた。ツァラトゥストラがまだ生きているかどうかを、彼らは探ろうと欲している。まことに、わたしはまだ生きているのだろうか?人間たちの許にいることが、動物たちの許にいるよりずっと危険なことを私は知った。ツァラトゥストラは危険な道を歩むのだ。わたしの動物たちが、わたしを導いてくれますように。」こう言ってから、ツァラトゥストラは森の聖者の言葉を思い出した。吐息して、彼はおのれの心にこう語った。「わたしはもっと賢くありたい!わたしの蛇のごとく、どこまでも賢くありたい!だが、それは不可能な願いというものだ。ならばわたしは、わたしの誇りに、それがわたしの賢明さと、常に相共に歩んでくれることを願おう!いつかわたしの賢明さが、わたしを捨てることがあっても、─ああ、賢明さは飛び去ることが好きなのだ!─そのときわたしの誇りが、なおもわたしの愚味と共に、天翔けり行かんことを!」─こうしてツァラトゥストラの没落は始まった。(ツァラトゥストラの序説)』

    『脱皮する。─脱皮することのできない蛇は破滅する。その意見を変えることを妨げられた精神の持ち主たちも同様である。彼らは精神であることを止める。(曙光 第573番)』


    大地を這いまわり、超人が立脚する大地に根ざした二次元動物の蛇は鷲とともにツァラトゥストラの友である。
    脱皮し続ける蛇は自己超克の象徴でもある。

    大地の主であり、遥か昔に手足を退化させ現在の体形に至った。
    そういう意味では完全体と言ってもいいかもしれない。

    旧約聖書では、蛇はアダムとイブをそそのかした動物として悪者にされている。
    古代エジプト(BC1500〜1450)の「アラン(アモン)・ラー」への信仰では蛇は聖なる動物である。ツタンカーメンの黄金のマスクの頭部や玉座にも蛇があしらわれているのはこのためであり、ツァラトゥストラでは永劫回帰の象徴として再び蛇が鷲とともに聖なる動物として採用された。

    「正午の太陽」とは、彼岸や審判、背後世界に生の意味や価値を求める思想を「夜の哲学」と批判し、これに対抗して打ち立てた「永劫回帰」や「運命愛」を代表とする超人思想のことである。

    鷲は上昇気流に乗り円を描きながら、より高みへと上っていく。
    蛇は高みで旋回する鷲の首に螺旋状に巻き付く友である。
    鷲と蛇の高みへの循環こそ永劫回帰の象徴である。

    PS.日本にも白蛇信仰がある。ちなみにフクロウも人間のラベリングによって悪者にされたり縁起のよい動物になったりしてる。ほんま動物にとっては迷惑な話やね。

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■13007 / inTopicNo.21)  別の選択肢
□投稿者/ rest -(2021/05/22(Sat) 10:01:19)
     戸塚ヨットスクール事件というのがあった。ひきこもり少年などを集めてスパルタ式に暴力を伴う猛特訓で矯正するという中で生徒が死亡したり、行方不明になったりした事件だ。いまではひきこもりを矯正する仕事人という業者による監禁、暴行事件も後をたたないようだ。全国で20万〜40万世帯、人数にして100万人いると推計されているひここもり。いまも人権上の問題を抱えている状態だ。別の選択肢だが県ひきこもり地域支援センターで相談するのも一つの選択肢ではないか。
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■12937 / inTopicNo.22)  Re[22]: 阿含経
□投稿者/ パニチェ -(2021/05/21(Fri) 11:05:03)
    おはようございます、おくたがわさん。

    No12934に返信(おくたがわさんの記事)

    > 『佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−4」』
    > https://www.youtube.com/watch?v=zJa-RB4LSoY&t=1s
    > 『〜 心に生じる粗雑な思考を 
    > 内側にひっこめ、なにものにも依存せず
    > 他者を悩ますことなく、煩悩を断ち切り
    > 誰に対しても誹ることがない』

    とてもためになる動画ですね。紹介ありがとうございました。
    私は動画の違うところに興味がわいたというか、今、私が探究しているところとかぶるところがあったので自分の考えをまとめる意味もあり、自己レスっぽい投稿をしてみます。

    佐々木閑氏が述べている仏教とバラモン教(ジャイナ教は詳しくないので省きます)の違い、つまり自己の内にアートマンなるものを認めるか否かでバラモン教と仏教は異なるという主張について、私は以前は同じように考えていたが、最近になってむしろ違いはないのでは?という考えに至っている。

    原始仏教では無我よりも非我が用いられたという中村元博士の主張を支持する。
    原始仏典では、日常的に用いられる「私」、つまり物質的な自己の肉体や呼び名(ラベリング)としての自己なるものは「アートマンならざるものである(非我)」という教説が主となっている。

    「アートマンなるものは存在しない」という無我説は後世のものであって、これはアートマンなるものが自己の実体、あるいは塊があるかのような誤解に基づくものであって、もともとは「物質的な自己の肉体や呼び名(ラベリング)としての自己なるものはアートマンならざるものであり(非我)、そんなものは無い(無我)。」という教説であろう。
    つまり無い、無自性なるものはアートマンではなく「物質的な自己の肉体や呼び名」であるということ。

    何故なら仏教(大乗仏教)でも一切衆生悉有仏性を認めており、大乗起信論(如来蔵思想)や金剛般若経においても仏性なる如来は般若心経の六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)と説かれ、「生ずることがないという存在の本質の異名(17・c)」とされる。

    つまりアートマンの実体であるブラフマンが如来であり、梵我一如(アドヴァイタ)は仏教においても見性体験であるということ。ここに至って仏教とバラモン教の差異はない。

    探究途上であるのは〈私〉との整合性であるが、これは実体験的なところから言えば〈私〉が確たる存在の本質として上回っており、これがブラフマンなるものと不二となるか否かはまだ分からない、今のところは不二ではないというところにいる。


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■12934 / inTopicNo.23)  阿含経
□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/21(Fri) 09:48:22)
    最近yutubeの動画で阿含経について見ています。初期仏教とのことですが、素朴に(?)良いことが言われているよう。

    昨日他トピで起きていたことについて、たまたまタイムリーと(私には)思える動画を見たので
    『佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−4」』
    https://www.youtube.com/watch?v=zJa-RB4LSoY&t=1s
    『〜 心に生じる粗雑な思考を 
    内側にひっこめ、なにものにも依存せず
    他者を悩ますことなく、煩悩を断ち切り
    誰に対しても誹ることがない』

    私は、あの流れを見て何人かの人に対して腹を立てましたが、その私の判断や理由も粗雑な思考であり得るのでしょう。

    また、後半の『「呼び名」の上で生きることへの警鐘』の部分、
    言葉による規定、特にそれを他者への批判に用いることについてもタイムリーに考えさせられました。

    もちろん、前述の「粗雑な思考」とか「煩悩」も他者を非難するために用いるなら危ないことこの上ないものになるでしょう。
    腹を立てて文句を言いたくなっていた自分の中ではそれが起きてしまっているわけです。この投稿をしている動機にもそれは残っているのでしょう。



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■12802 / inTopicNo.24)  私的格言
□投稿者/ 田秋 -(2021/05/18(Tue) 06:04:45)
    他人に欠点・欠陥を見出した時、往々にしてそれが自分の欠点・欠陥の場合がある。何故それを嫌悪するのかというと、自分がそうであるとは認めたくないからだ。
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