| ■No13187に追記(パニチェさんの記事)
> 多分、アートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めていることになるという解釈でしょうね。(次の土日で調べ直してみます)
以下、引用しておきます。
『以上の考察から判明したように、最初期の仏教においては、客体的に把捉し得るありとあらゆるものが,アートマンならざるもの、すなわち非我である、ということを強調していたのである。決してアートマンが存在しない、とはいわなかった。そうして倫理的行為の主体としてのアートマンを認めていたが、それの形而上学的性格については、完全に沈黙を守っている。このように形而上学的問題に触れることを避けていたのである。(中村元選集第15巻 原始仏教の思想P576より)』
『ともかくも右の一連の教説においては、われわれの個体を構成しているいかなるものをも、「アートマンならざるもの」(非我)とよんでいるのであり、いわゆる無我説を述べているのではない。(中村元選集第15巻 原始仏教の思想P615より)』
『我という形而上学的原理を想定しないという点では、説一切有部は仏教本来の立場に忠実であった。しかし、経典の中には、なんらかの意味において、我に類する原理を想定するような思想も表明されていたし、小乗諸派のなかには、このような思想傾向を発展せしめたものもある。すなわち小乗諸派では有情の輪廻を認めていたから、輪廻の主体を想定せざるをえず、しかし、仏教は無我説であるから、ただちに実体としてのアートマンを認めることができない。そこで、我とは異なるが、それと類似したなんらかの輪廻の主体を想定した。そうして、それによって生存主体(有情)の連続、因果応報の可能なるゆえんを説明しようとした。(中村元選集第20巻原始仏教から大乗仏教へP118より)』
何れにせよ佐々木氏の「中村博士は仏教では我を認めている」または「中村博士は我の実在を認めていた」と主張も、「中村博士は輪廻の主体をアートマンと想定していた」という主張も藁人形論法であることが確定しました(笑)。
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