□投稿者/ パニチェ -(2021/05/25(Tue) 20:59:16)
| 2021/05/25(Tue) 21:18:48 編集(投稿者)
こんばんは、おくたがわさん。レスありがとうございます。
■No13174に返信(おくたがわさんの記事)
> これは佐々木氏が言っている中村氏の著書の該当部分で、佐々木氏が反論しているようなことを中村氏は書いていないということでしょうか?
私は神々との対話という本も読んでいませんので、中村博士が佐々木氏の示している箇所をどのように解説しているかは実際には知りません。
ただ佐々木氏は「私」や「我」を「アートマン」と同義に考えており、これがそもそもの間違いだと思います。 少なくとも私は中村博士が「仏教では我を認めている」とか「我の実在を認めていた」と主張しているなんてことは知りませんし、そんな主張は読んだ記憶がありません。
私が知っているのは先にも述べましたが原始仏典では無我以前に非我が使われており、この非我とは「アートマンならざるもの」という意味だと解説されています。 原始仏典ではアートマンの存在は否定していないという主張はどこかでされているかもしれませんが、これをもって「仏教では我を認めている」や「我の実在を認めていた」とはイコールにならないということです。
佐々木氏も12:02で「(中村先生は)岩波文庫の中ではアートマンを認めている議論のひとつの証拠なんだというふうにおっしゃってるんですね」と言い直して(当人は無自覚だとは思いますが)おり、これなら中村博士としての主張は辻褄は合います。 むしろ私が佐々木氏に問いたいのは「では原始仏教での『非我』とは『どういう我に非ず』なんですか?」ですね。^^
> 原始仏典ではアートマンがあるかないかについては言っていないということでしょうか? あるいは、これはアートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めているという解釈でしょうか?
多分、アートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めていることになるという解釈でしょうね。(次の土日で調べ直してみます)
> ほんとに何も知らない上に物分かりが悪いので、話にならないと思われましたらスルーしてください。
全然、大丈夫ですし、むしろ有難いです。 私も返信することによって自分の考えをまとめたり、書籍で再確認するきっかけになっていますから。
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