□投稿者/ おくたがわ -(2021/05/25(Tue) 20:16:44)
| ■No13150に返信(パニチェさんの記事) こんばんは。レスありがとうございます。
> 佐々木閑氏はどうも藁人形論法をやってるように私には思えます。 > 中村元博士は仏教に我を認めているということではなくて、原始仏典では無我説以前に非我説が先行しており、その非我説は「アートマンならざるもの」という表現が用いられているということを解説している。
これは佐々木氏が言っている中村氏の著書の該当部分で、佐々木氏が反論しているようなことを中村氏は書いていないということでしょうか?
> 純粋に学問的に原始仏典で用いられている表現をもとに解説しているのであって、これに反論するなら、やはり原始仏典でアートマンの存在を否定しているものを提示すべきだと思う。 > もっとも私は梵語やパーリ語を読めるわけではないので、この点については中村元博士の解説を信用しているということにはなるが。。。 > > *** 以下、中村元選集第15巻 原始仏教の思想Tより *** > 「五つの構成要素のいちいちが苦であるがゆえに非我であるという教説、また無常であるがゆえに無我であるという教説も述べれれているが、とくに次の句がしばしばくり返されている。『物質的なかたち[または感受作用・形成作用・識別作用]は無常である。無常であるものは苦しみである。苦しみであるものは非我である。非我であるものはわがものではない。これはわれではない。これはアートマンではない(yad anatta tam netam mama neso hamasim na meso atta)。正しい知恵をもってこの[道理]を如実に観ずべし。』(大正経 二巻2ページ上)」
原始仏典ではアートマンがあるかないかについては言っていないということでしょうか? あるいは、これはアートマンではない(非我)という言説がアートマンの存在を認めているという解釈でしょうか?
ほんとに何も知らない上に物分かりが悪いので、話にならないと思われましたらスルーしてください。
|
|