□投稿者/ パニチェ -(2021/05/21(Fri) 11:05:03)
| おはようございます、おくたがわさん。
■No12934に返信(おくたがわさんの記事)
> 『佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−4」』 > https://www.youtube.com/watch?v=zJa-RB4LSoY&t=1s > 『〜 心に生じる粗雑な思考を > 内側にひっこめ、なにものにも依存せず > 他者を悩ますことなく、煩悩を断ち切り > 誰に対しても誹ることがない』
とてもためになる動画ですね。紹介ありがとうございました。 私は動画の違うところに興味がわいたというか、今、私が探究しているところとかぶるところがあったので自分の考えをまとめる意味もあり、自己レスっぽい投稿をしてみます。
佐々木閑氏が述べている仏教とバラモン教(ジャイナ教は詳しくないので省きます)の違い、つまり自己の内にアートマンなるものを認めるか否かでバラモン教と仏教は異なるという主張について、私は以前は同じように考えていたが、最近になってむしろ違いはないのでは?という考えに至っている。
原始仏教では無我よりも非我が用いられたという中村元博士の主張を支持する。 原始仏典では、日常的に用いられる「私」、つまり物質的な自己の肉体や呼び名(ラベリング)としての自己なるものは「アートマンならざるものである(非我)」という教説が主となっている。
「アートマンなるものは存在しない」という無我説は後世のものであって、これはアートマンなるものが自己の実体、あるいは塊があるかのような誤解に基づくものであって、もともとは「物質的な自己の肉体や呼び名(ラベリング)としての自己なるものはアートマンならざるものであり(非我)、そんなものは無い(無我)。」という教説であろう。 つまり無い、無自性なるものはアートマンではなく「物質的な自己の肉体や呼び名」であるということ。
何故なら仏教(大乗仏教)でも一切衆生悉有仏性を認めており、大乗起信論(如来蔵思想)や金剛般若経においても仏性なる如来は般若心経の六不(不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減)と説かれ、「生ずることがないという存在の本質の異名(17・c)」とされる。
つまりアートマンの実体であるブラフマンが如来であり、梵我一如(アドヴァイタ)は仏教においても見性体験であるということ。ここに至って仏教とバラモン教の差異はない。
探究途上であるのは〈私〉との整合性であるが、これは実体験的なところから言えば〈私〉が確たる存在の本質として上回っており、これがブラフマンなるものと不二となるか否かはまだ分からない、今のところは不二ではないというところにいる。
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