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■43464 / inTopicNo.1)  Re[80]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/08(Sun) 09:59:02)
    あ、ごめん、見返して確認して見たらまた書き写し間違えしてたの気づいた。
    No43455の(K2)の(1)の
    『また、私たちの一切の認識もこころの変容であるから、内官に属している。』
    の部分は削除で〜す。

    あ〜ぁ、訂正で101になっちゃた。

引用返信/返信 削除キー/
■43463 / inTopicNo.2)  Re[79]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/08(Sun) 09:38:52)
    pipiさま、おはようございま〜す

    No43459
    No43461
    ありがとごさいます!
    わたし外国語苦手なので助かりました。
    でもちょとわたしには難しかったで〜す。

    そういうなかでわたしに思われたのを書くと、

    チャットGPTの日本語訳では、「innere Sinn」を「内的”感覚”」って訳されてるのかな?
    でも、pipiさまが思ったように、
    >そのような感じで、「感覚を通じて」という原文であっても、感覚を得る能力を通じてという意味合いで「感官」と訳す方が多いのかもしれないなと今思いました。<
    「Sinn」を「感覚」って見るよりいいかも、って。

    あと、
    『外的感覚(私たちの精神の一つの性質)』っていうところがちょっと気になった。
    あ、〔外的感覚〕って訳されてるのをわたし問題としてるんじゃなくて。
    御子柴さんの(p91)では、
    『(私たちのこころの一性質である)外的感官』
    ってうところ。
    ようするに、
    「外官」は精神(こころ)の一つの性質である。
    ってしてるところね。




引用返信/返信 削除キー/
■43461 / inTopicNo.3)  Re[78]: つれづれなるままに
□投稿者/ pipit -(2025/06/08(Sun) 07:23:12)
    悪魔ちゃん、おはよう(^▽^)/

    No43459で引用した純粋理性批判B37のドイツ語原文をチャットGPTに日本語に訳してもらいました。
    ---

    外的感覚(私たちの精神の一つの性質)を通じて、私たちは対象を私たちの外に、そしてそれら全体を空間の中に表象します。そこでは、それらの形状、大きさ、そして相互の関係が規定されているか、あるいは規定可能です。
    内的感覚によって、精神は自己自身あるいはその内的状態を直観しますが、それは魂そのものを対象として直観するものではありません。ただし、内的状態の直観が可能となるためには、特定の形式が必要であり、内的規定に属するすべてのものは時間の関係の中で表象されます。
    時間は、空間と同様に、私たちの内にあるものとして外的に直観されることはできません。
    では、空間と時間とは何なのでしょうか?

    ---

    日本語訳冒頭部分の原文は「Vermittelst des außeren Sinnes,」※ウムラウト省略
    なんだけど、チャットGPTにVermittelst について詳しく教えてと頼んで得た回答が下記のものです。(抜粋コピペ)

    「(略)1. 「vermittelst」の基本情報

    * **語源動詞**:vermitteln(媒介する、仲介する)
    * **vermittelst**:ここでは前置詞または前置詞的表現として使われています。
    * **意味**:「…を通じて」「…によって」
    →「mittels」や「durch」と意味的に近いですが、**より文語的・哲学的な語調**を持ちます。

    (略)

    3. カント文脈での重要性
    カントは「Vermittlung(媒介)」という概念を頻繁に使います。彼の哲学では、何かが他の何かを**「媒介して」経験される・認識される**という構造が重要です。

    「vermittelst des außeren Sinnes」
     → 外的感覚という媒介を通じて、対象が私たちに現れる。
    (略)」
    チャットGPT回答コピペ終わり
    -----------------------------------------

    ん?今気づいたけど、チャットGPTの日本語訳が一か所まずい可能性あるね。
    「時間は、空間と同様に、私たちの内にあるものとして外的に直観されることはできません」と訳してるけど、カント哲学的には、(空間が内的に直観されないのと同様に)とした方が適切かもしれないね。
    おそらくカントの原文が言葉足らず(文脈でわかるけど)なのかな。
    そのような感じで、「感覚を通じて」という原文であっても、感覚を得る能力を通じてという意味合いで「感官」と訳す方が多いのかもしれないなと今思いました。
835×714 => 600×513

B37.jpg
/145KB
引用返信/返信 削除キー/
■43459 / inTopicNo.4)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ pipit -(2025/06/07(Sat) 23:40:55)
    2025/06/08(Sun) 07:29:09 編集(投稿者)

    悪魔ちゃん、こんばんは(^○^)

    No43456
    > あと、「Sinn」なんだけど、(本Ko)を見たら、「感官」のほかに「意味」とも日訳されてるみたい。
    > なんかよく分かんないけど。<

    哲学の諸先生方には叱られるかもやけど、「Sinn」を「感覚」って考えたらシンプルになるんちゃうかなーって思っちゃったんだよ。

    「感官」と訳されていることが多い「Sinn」の註釈が中山元先生の訳本にあったから引用するね。↓

    (中山元先生の註釈)
    『(22)「感覚能力」はジンの訳であり、通常は「感官」と訳される。外的な感覚能力は「外官」、内的な感覚能力は「内官」と訳されるのが通例である。ただしこれらの訳語は人間の感覚器官を意味するようにみえるので、器官と能力の両方を意味しうる「感覚能力」という訳語を使っている。ジンのほんらいの意味は、「感覚、意味」である。』
    (『純粋理性批判1』p255)

    とあったので、本来の意味で考えた方がわかりやすいかも?と思っちゃったよ。

    御子柴先生解説本p91に〈外的感官と内的感官〉という解説があるよ。ここで引用されているカントのB37の原文はコチラだよ。Sinnが出てくるよ。
    ※文字化けするところは似た形のアルファベットに置き換えてます。


    Vermittelst des auBeren Sinnes, (einer Eigenschaft unseres Gemuts), stellen wir uns Gegenstande als auBer uns, und diese insgesamt im Raume vor. Darinnen ist ihre Gestalt, GroBe und Verhaltnis gegeneinander bestimmt, oder bestimmbar. Der innere Sinn, vermittelst dessen das Gemut sich selbst, oder seinen inneren Zustand anschaut, gibt zwar keine Anschauung von der Seele selbst, als einem Objekt; allein es ist doch eine bestimmte Form, unter der die Anschauung ihres inneren Zustandes allein moglich ist, so daB alles, was zu den inneren Bestimmungen gehort, in Verhaltnissen der Zeit vorgestellt wird. AuBerlich kann die Zeit nicht angeschaut werden, so wenig wie der Raum, als etwas in uns. Was sind nun Raum und Zeit?

    思ったんだけど、触発で現れるのが受動的感覚で、
    悟性の自発性でも「自己触発」して心の内的感覚として現れてくるなら、
    ちょっとややこしいことになるよね。

    悪魔ちゃんが、思うと思われるを区別してたように記憶しているんだけど、
    思われるが受動的かなぁって。
    思うことによって思われるが現れると考えたら...ややこいね!
引用返信/返信 削除キー/
■43457 / inTopicNo.5)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 19:53:37)
    No43456のつづき

    カントの言う「感官」についてね。

    (資料S)から、
    (S2)――――――――――
    ・(1)たとえば「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」の「五つ以上でも以下でもない」(VII,S.154)外的感官に対して、「一つしかない」(VII,S.161)内的感官は、「それを介して心がそれ自身ないしその内的状態を直観する」(A22/B37)ものとして説明されるのだが、
    (2)この両者の関係について、カントは並行的関係、外的感官の内的感官への従属、内的感官の外的感官への従属という、それぞれ還元不可能な三つの異なる見解を主張しているように思われ、
    (3)さらに「意識」との関係においては、一方で「意識は内的感官である」(Refl.1680,XVI,S,80)、
    (4)「この自己自身の意識は通常、内的感官、ないし経験的統覚と呼ばれる」(A107)と両者を同一視しながら、
    (5)他方で、「統覚と統覚の総合的統一は内的感官とは同一ではまったくない」(B154)
    と述べ、二つをそれぞれ区別しているからである。
    ――――――――――(p43)

    そして、

    (S3)〔『純粋理性批判』における内的感官はむしろ、それを「介する」ことで経験的な直接性が確保されるような、外的感官とまったく同じ意味での、感覚器官としての「感官」なのである。〕(p47)

    ってあった。

    カントの言う、「内官」、「統覚」、「自己意識」、こういうの関係してるみたいで、ここんとこしばらく考えてるんだけど、な〜んかめんどくさ〜

    今日はここまでね。

引用返信/返信 削除キー/
■43456 / inTopicNo.6)  Re[76]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 19:31:11)
    No43455のつづき、
    「感官」、とくに「内官」についてね。

    No43291の(資料S)から、
    (S1)――――――――――
    カント哲学において内的感官innerer Sinnについて語るとき、そこにはある種の居心地の悪さがつきまとってる。その原因は、内的感官が超越論哲学のなかで軽視できない位置をしめているにもかかわらず、どこにも十分な説明がなされてないために、内的感官そのものの機能をそれ自身で規定することができず、つねに他の諸能力との対比において、またそれらとの関係において規定するしかないという点に存しているように思われる。つまり内的innerが示す「内部性」は「外部性」との、したがって「外的感官」との関係において、またSinnが示す「感官」は、「意識」や自己意識としての「統覚」との関係において規定されることになるのである。だがさらに厄介なのは、これらの関係もまた明白ではないことである。(p43)
    ――――――――――
    っていうことみたい。
    野内さんも、カント沼〜、って思ってるんじゃないかしら?ね。

    あと、「Sinn」なんだけど、(本Ko)を見たら、「感官」のほかに「意味」とも日訳されてるみたい。
    なんかよく分かんないけど。

引用返信/返信 削除キー/
■43455 / inTopicNo.7)  Re[75]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 18:42:41)
    わたしの物語り、いまは(本Ko)の第七章(p156〜)のところに取り組んでるところね。
    No43454のつづき
    つぎに、
    〈三様の総合への一般的注意――第二節第一項〉のところの訳文を書き出すと、

    (K2)――――――――
    (1)私たちの表象は、それがどこに由来するにせよ、すなわち、外的な物の影響によってひき起こされているにせよ内的な原因によって引き起こされているにせよ、ア・プリオリに成立しているにせよ経験的に現象として成立しているにせよ、やはりこころの変容であるから、内官に属している。また、私たちの一切の認識もこころの変容であるから、内官に属している。
    (2)また、私たちの一切の認識もこころの変容としてはつまるところやはり内官の形式的条件に、すなわち時間に従っている。私たちの表象がそこで総じて秩序づけられ、結合され、関係づけられねばならないような、時間に従っている。以上のことが、以下で一貫して基礎におかれねばならない一般的な注意である。(A98f.)
    ――――――――(p160〜p161)

    (1)に「こころ」ってある。
    わたしのばあい、「意識(感覚、知覚、記憶、想像、思考、感情、欲望、意志)」≒「精神」≒「こころ」ってして見てるんだけど、
    カントの場合こういうんじゃなさそうで、
    カントの日訳の、「こころ」と「意識」は別の意味としているのかも、って。
    で、わたし、カントの「意識」=〈コギト(私は考える)〉ってして見てるなかで、これと区別された「こころ」っていうの、「精神」とか「魂」ってして見たらどうかな、って。人間(あるいは私)を、〈精神〉と〈身体〉に分節して見たようなときの〈精神〉っていうことね。
    ひとまず、カントの、
    「こころ」≒「精神(魂)」
    ってして見ることにしたよ。

    (1)の「内官」なんだけど、
    No43412の(K1)の(2)の「感官」とかかわるんだけど、
    御子柴さんは〔内官(内的感官)〕(p161)っていってるから、「内的感官」でいいかな。
    No41830にあるように、
    「感官」っていうの、「外的感官(外向きの感覚)」と「内的感官(内向きの感覚)」に分けてあって、前者の形式が「空間」、後者の形式が「時間」。みたい。

    (2)、『私たちの表象がそこで総じて秩序づけられ、結合され、関係づけられねばならないような、時間に従っている。』
    ってあるけど、カント、あいかわらず“ねばならない”っていうのが好きみたいね。

    そもそも、カントの言う「感官」っていうのどういうの?っていうことで、
    No43291の(資料S)と合わせて見てくことにするよ。

引用返信/返信 削除キー/
■43454 / inTopicNo.8)  Re[74]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 16:37:42)
    No43452のつづき、

    (K1)の最後のところね。わたしの見方で書くと、
    (K1-A)―――――――――――――――――
    (4)さて、以上の三つの総合は三つの主観的認識〈経験的認識(判断)〉源泉へと導くものである。それらの認識〈経験的判断〉源泉が、悟性〈(経験的)コギト〉さえも可能にし、そして悟性〈(経験的)コギト〉を介して一切の経験〈客観/科学的〉を悟性〈(経験的)コギト〉の経験的〈知覚(主観/素朴的)〉と〈経験(客観/科学的)〉な産物として可能にするのである。
    ――――――――――――――――――――
    ってなる。

    No43412の(K1)のところはだいたいこんな感じでみて見たよ。

    いま思ったんだけど、(K1)の(1)の
    『認識とは、比較され結合された諸表象の全体』
    っていうところ、
    たとえば、「表象〈q〉と〈p〉が比較され、〈pはqである〉みたいに結合された諸表象の全体、この〈pはqである〉を認識〈経験的判断〉っていう。」
    みたいなふうにも思ったりしてる。

    ちょっとまとめるね。
    (K1)の(2)のところは抜かして、「三つの主観的認識の源泉」についてわたしの見えは、

    (K1-A)経験的〈知覚(主観/素朴的)〉と〈経験(客観/科学的)〉な認識〈経験的判断〉されたものもの(産物)を可能にする源泉となっているのが「覚知」と「構想力」と「統覚」。そして、この三つの〈よりどころ〉になってるのが「自発性」である〈(経験的)コギト〉。

    ってカントは見てるのかな?

引用返信/返信 削除キー/
■43453 / inTopicNo.9)  Re[73]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 15:01:31)
    ごめん、間違えました。
    No43452の下から三行目の(1),(2),(3)は、(a),(b),(c)で〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■43452 / inTopicNo.10)  Re[72]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 14:54:34)
    カントのわたしの物語りつづけま〜す。

    No43412の(K1)〈悟性を可能にする、三つの主観的認識源泉〉のところを見てるんだけど。
    この「「主観的」ってあるの、pipiさまのおかげで、〈主観の内の客観〉っていふうにして見たことから、「知覚〈主観/素朴的)〉」だけじゃなくて「経験〈客観/科学的〉」の両方を指しているとして見た。すなわち「経験的」っていうことね。だから、「主観的認識」っていうのを〈経験的認識〉、あるいは〈経験的判断〉って見ることになるかな。
    で、
    No43414のつづき、

    (K1)、わたしの見方で書くと、
    (K1-A)―――――――――――――――――
    (3)この自発性〈(経験的)コギト〉が、一切の認識〈経験的判断(知覚判断と経験判断)〉において必然的に現れる三様の総合の根拠である。
    三様の総合とは、直観においてこころの変容としての諸表象を覚知すること、構想において諸表象を再生すること、概念において諸表象を再認すること、である。
    ――――――――――――――――――――

    【根拠】っていうの、ネットで調べたら、
    (デジタル大辞泉)
    物事が存在するための理由となるもの。存在の理由。
    (精選版 日本国語大辞典)
    ( ━する ) もととしてよること。また、そのよりどころ。基づくところ。

    ってあった。
    ここでは「根拠」っていうのを「よりどころ」ってして、

    (3)の最初の二行を、
    @一切の認識〈経験的判断(知覚判断と経験判断)〉において、
    A〈(経験的)コギト〉が、必然的に現れる三様の総合の〈よりどころ〉である。
    ってして見て、
    B「三様の総合」が@に「必然的に現れる」。この「三様の総合」の〈よりどころ〉となっているのが〈(経験的)コギト〉である。
    ってして見た。

    で、「三様の総合」っていうの、
    御子柴さんは、
    〔三つの主観的認識源泉とは「感官、構想力、統覚」(A94)です〕
    〔「構想(Einbildung)」とは、「像(Bild)を作ること」〕
    〔概念における再認の総合を可能にする源泉として「統覚」〕
    って言ってる。

    で、簡単に、「主観的認識〈経験的認識(判断)〉」の源泉っていうのを、
    (a)感官〈内的感官〉における「覚知」
    (b)像(Bild)を作る「構想力」
    (c)概念における「統覚」
    ってして見た。

    後御子柴さんは、
    ・(a),(b)に、(c)が加わることで、
    〔主観の能力としての「悟性」が可能になり、客観的な対象認識としての経験が可能になるのです〕
    って言ってる。(ここの〔経験〕を〈客観/科学的〉ってしてわたし見てるよ)

    (c)の「概念」なんだけど、
    No39211で見たように、
    「概念」っていうのを、「悟性の能力である思惟〈思考〉に属するもの」ってして見てる。
    そして、わたしのばあい、〈思考-概念〉と〈概念-思考〉に分けて見てる。
    (c)の「概念」っていうのを〈思考-概念〉の方、ってして見た。

    (a),(b),(c)については後で出てくるのでそのときに。

    ひとまず、ここからは、
    「主観的認識」〈経験的認識(判断)〉の源泉には、〔感官〈内的感官〉における「覚知」〕〔像を作る「構想力」〕〔概念における「統覚」〕の三つかがあって、その根拠となっているのが自発性〈(経験的)コギト〉。
    ってして見た。
    わたしのばあい、この三つの源泉は、あくまでも「経験的なもの」においてのものと、見てる。
    んだけけど、
    御子柴さんは、
    〔カントは三つの主観的認識源泉に対応して、三様の総合に相当する内容を他の箇所ではつぎのように表現しています。「1)感官による、ア・プリオリな多様を見渡す作用、2)構想力による、ア・プリオリな多様の総合、最後に3)根源的統覚による、この総合の統一」(A949)〕
    って言ってる。
    ここには〔ア・プリオリ〕とか〔根源的〕ってあるから、この三つが、「経験的なもの」としてわたしが見てる(1),(2),(3)と同じことでいいのかはわかんない。(K1)では「主観的認識源泉」ってあって、この「源泉」っていうのが〔ア・プリオリ〕、〔根源的〕と同じとして見ていいのかはいまんとこ分かんないっていうこと。

引用返信/返信 削除キー/
■43425 / inTopicNo.11)  Re[71]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/02(Mon) 18:36:24)
    No43417

    >カントの説が、〈主観が客観を成立させてる。〉だったら、<
    >『主観的認識源泉』が客観的認識源泉と同一である可能性もあるのかなーと思いました。<
    なるほど〜(・。・)!
    〈主観の内の客観〉って見ると、「主観的認識」の話しの中に「経験〈客観/科学的〉」が出てきてもおかしくないよね。
     pipiさま、ありがとうございま〜す。

    「主観」と「客観」につては、
    No41232でネットからのをわたしまとめて見て、
    カントのは、
    〈主観のなかで、論理的・科学的に認識されたものに限って、それを「客観」ってしてる〉
    ってしてわたし見てるとこ。
    「客観」の見方、わたしのとカントのとはちょっと違うけどね。

    >pipitの私見では、知覚がカテゴリーによる規則に従ってるか否かで、知覚で終わるか、経験に至るかにカントは分別してるのかなと考えています。<
    カントの、そういうふうなのかも。
    わたしのばあい、
    No41075で見たように、
    〈知覚は概念的思考がすでに組み込まれてる〉
    って、こういうふうにカントは知覚を見ているんだとわたし見てる。
    メルポンのわたしのから見ると、カントは知覚に思考-概念を伴わせちゃってる、とも見れるのね。

    >(カントの文章)
    >『可能な経験一般のア・プリオリな諸条件が同時に経験の諸対象の可能性の諸条件である。(以下略)(A111)』
    『カント純粋理性批判』角川選書p180<
    ここんとこ、わたしに見方で書くと、
    「可能な経験〈客観/科学的〉一般のア・プリオリな諸条件が同時に経験〈客観/科学的〉の諸対象の可能性の諸条件である。」
    ってなる。
    ここのカントの文章の最後の方に『それゆえにア・プリオリな客観的妥当性をもつのである』ってあるから、
    このところは「経験的」の、「知覚〈主観/素朴的〉」の方じゃなくて、「経験〈客観/科学的〉」にかんして話してるんだとわたしには見えてる。

    >人間は対象認識をするように定められていて、対象をつくっちゃうのかなって<
    ここんとこで想い出したんだけど、
    メルポンのを読んでるなかで「投影」っていうのが出てきてて、前にネットで調べて見たのね。
    「投影」っていうより「投射」っていうのが一般的見たいで、「投射」で調べて見て見たら、
    〔光の像や影などをスクリーンなどにうつし出すこと。投影。〕
    ってあったんだけど、メルポンの言う「投影」っていうのたぶんこう言うんじゃないな、って思って、
    ブリタニカ国際大百科事典のなかに、
    〔(4) 刺激対象を知覚する際に,個体の興味,欲求,期待などの影響を受けてそれにそうように知覚が生じること。投影ともいう。〕
    ってあったのね。たぶんこういことあるかも、って、で、メルポンのはこういう意味なんじゃないかな〜って。

    >対象をつくっちゃてる<のが認識(判断)する前の知覚するときにすでに起こっちゃてる、って。

    ごめんね、カントのを見るときでも、どうしてもメルポンのと絡めて見ちゃうからお喋りちょっと長くなっちゃたみたい。
    わたしの、つれづれなるままに(孤独であるのにまかせて)で、独学だし、話しできてよかった。
    pipiさま、カントの、またいろいろ教てください。

引用返信/返信 削除キー/
■43417 / inTopicNo.12)  Re[70]: つれづれなるままに
□投稿者/ pipit -(2025/06/01(Sun) 21:35:25)
    悪魔ちゃん、こんばんは(^○^)

    No43415
    カントの説が、〈主観が客観を成立させてる。〉だったら、
    『主観的認識源泉』が客観的認識源泉と同一である可能性もあるのかなーと思いました。

    pipitの私見では、知覚がカテゴリーによる規則に従ってるか否かで、知覚で終わるか、経験に至るかにカントは分別してるのかなと考えています。

    ちょっと先の記述になるけど、御子柴先生解説本p180の最終2行から、上記のことに関連するかなと思うカントの文章と御子柴先生の解説がのっています。

    (カントの文章)
    『可能な経験一般のア・プリオリな諸条件が同時に経験の諸対象の可能性の諸条件である。(以下略)(A111)』
    『カント純粋理性批判』角川選書p180

    今日の夕方に部屋を眺めて考えていたことは、人間は対象認識をするように定められていて、対象をつくっちゃうのかなって。
    色を感じるのも、点画ではなく水彩画みたいに色を感じてしまうのかなって。

引用返信/返信 削除キー/

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