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Re[74]: つれづれなるままに
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2025/06/07(Sat) 16:37:42)
| No43452のつづき、
(K1)の最後のところね。わたしの見方で書くと、 (K1-A)――――――――――――――――― (4)さて、以上の三つの総合は三つの主観的認識〈経験的認識(判断)〉源泉へと導くものである。それらの認識〈経験的判断〉源泉が、悟性〈(経験的)コギト〉さえも可能にし、そして悟性〈(経験的)コギト〉を介して一切の経験〈客観/科学的〉を悟性〈(経験的)コギト〉の経験的〈知覚(主観/素朴的)〉と〈経験(客観/科学的)〉な産物として可能にするのである。 ―――――――――――――――――――― ってなる。
No43412の(K1)のところはだいたいこんな感じでみて見たよ。
いま思ったんだけど、(K1)の(1)の 『認識とは、比較され結合された諸表象の全体』 っていうところ、 たとえば、「表象〈q〉と〈p〉が比較され、〈pはqである〉みたいに結合された諸表象の全体、この〈pはqである〉を認識〈経験的判断〉っていう。」 みたいなふうにも思ったりしてる。
ちょっとまとめるね。 (K1)の(2)のところは抜かして、「三つの主観的認識の源泉」についてわたしの見えは、
(K1-A)経験的〈知覚(主観/素朴的)〉と〈経験(客観/科学的)〉な認識〈経験的判断〉されたものもの(産物)を可能にする源泉となっているのが「覚知」と「構想力」と「統覚」。そして、この三つの〈よりどころ〉になってるのが「自発性」である〈(経験的)コギト〉。
ってカントは見てるのかな?
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