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■36162 / inTopicNo.13)  Re[82]: つれづれなるままに
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/14(Sun) 17:04:37)
    もう少し
    No36015の資料のを見てく。

    No36130の(u)に、
    〔想像とは存在定立の排去を自然に遂行された知覚のこと〕ってあって、え?想像も知覚なの?ってわたしには分け分かんなくなっちゃうのね。
    もっとも現象学では、
    No36154の@だから言表としてはしょうがないのかもしれないけど。

    でね、「知覚」と「想像」、どういう言表で区別しよっかな、って。いろいろ考えてみて、
    〈知覚されたもの〉と〈知覚されているもの〉っていうふうにして見たのね。
    な〜んか微妙に違えた言い方での区別なんだけど、
    〈知覚されたもの〉っていうのは〈端的な知覚〉のこと(端的を〈まのあたりのさま〉っていう意味で)。
    〈知覚されているもの〉っていうのは、知覚・記憶・想像が絡み合って出来てるもの。
    って。

    No36006の図の、わたしの外にあるものの部分だけを描いて見たの、添付しま〜す。
    こういうのを見ながら考えて見てるよ。
    〈端的な知覚〉っていうの、わたしが、「現前(現在)する現実的なもの」である「それ」を見るとき、わたしに見えてるのはこちらの側面、向こう側は見えてないよね。わたしに感覚されてるのは「それ」の「見えてるもの」で、知覚はその感覚を対象として志向して、知覚〈されたもの〉が構成されるのね。こういうのを〈端的な知覚〉って呼ぶことにした。
    そして、〈知覚されているもの〉を知覚・記憶・想像が絡み合って出来てるもの、ってして見たのね。
    〈端的な知覚〉っていうのは、知覚によって〈されたもの〉で、想像によって〈されたもの〉じゃない、っていうことでちょっと区別することができるかな?って。
    No36130の(t)に〔物理的像〕っていうのあるじゃん、こんな感じのを〈端的な知覚〉ってして見たのね。こういうのを〈知覚像〉ってしちゃっおっかな〜、とも思ったんだけど、いまは保留。

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■36160 / inTopicNo.14)  Re[81]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/14(Sun) 10:49:11)
    いまのわたしの物語りは、
    No36016のメルポンのを捉えることなんだけど、
    最初読んだとき、メルポンの場合、「イメージ」と「想像」っていうの、意味、違うく使ってるのかしら?って。
    で、
    ネットで調べたんだけど、
    「image」は日本語で「イメージ」、「imagination」は日本語で「想像」、ってなってるみたい。

    「イメージimage」については、
    コトバンクの精選版 日本国語大辞典から、
    @人が心に描き出す像や情景など。芸術、哲学、心理学の用語として、肖像、画像、映像、心象、形象などと訳される。イマージュ。
    A物事について、あることから、これこれであろうと心にいだく、全体的な感じ。心像。
    っていうことみたい。
    で、簡単に
    「イメージ」=「全体的な感じ」「心像」
    ってした。
    この「全体的な」っていうのがけっこう意味ある気がしてるんだけど、ひとまず「感じ」だから〈感性〉になるんだと思う。

    ネットで「イメージと想像の違い」で検索したら、
    https://chigai-hikaku.com/?p=65031
    っていうのあったけど、メルポンのとは、ちょっと違う感じがする。
    どちらかって言うと
    No36034で見たように、
    「二種類の想像」の方に近いかも?って。

    メルポンの、現象学のことだから、
    No36070みたいなのを考えて、
    「想像」を〈するもの〉ってして、それが〈すること〉、ってして見て、「イメージ」を想像によって〈されたもの〉(心像)っていうふうに見て、そして、
    No36053の(q)に、
    〔想像を…知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージと見なした〕ってあるから、
    「知覚」が〈すること〉によって〈されたもの〉、「想像」が〈すること〉によって〈されたもの〉、この両方の〈されたもの〉を、まとめて単に〈イメージ〉(心像)ってしとくことにした。
    現象学では知覚や想像は〈感性〉のうちにあるものってしてる、ってわたし見てるから。

    あ、前に、メルポンの『sensという意味』って言ってるのから、わたし「イメージ」っていうのを〈感性的意味〉ってしたのを想い出した。〈考性(一般に「知性」って言ってるもの)〉における〈概念的意味〉と区別して。

引用返信/返信 削除キー/
■36155 / inTopicNo.15)  Re[80]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/13(Sat) 20:41:14)
    よしなしごと、そこはかとなく、

    「あがなう」っていうを、英語で言うと、でネットで検索したら、
    「Anagau」って出てきた。

    ひらがなで「あがなう」、
    「罪のつぐないをする」とか「あるものを代償にして手にれる」
    ってあった。

    「購う」っていうのもあっって、
    「こうにゅう(購入)」「かう(買う)」「つぐなう(償う)」
    ってあった。
    でも、「あがなう」っていうの、こういう感じのじゃないと思う。
引用返信/返信 削除キー/
■36154 / inTopicNo.16)  Re[79]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/13(Sat) 18:15:32)
    わたしなりに簡単にしちゃう作業にとりかかるんだけど、
    現象学における「想像」と「知覚」。

    まず、
    No36053の(q) にあるように、
    @現象学では、〔想像を知覚と認識の中間に位置づけたりせず、知覚と並び知覚にどこまでも近いひとつの表象、つまり像あるいはイメージとみなした。〕ってある。
    現象学の「想像」の位置づけとしてはこういうのが基本となってる。(そうじゃない見方・考え方もあると思うけど、わたしのばあい現象学的なんで見てくことにする。)
    わたしので見ると、
    〔認識〕っていうのは〈考性(一般的には「知性」って呼んでるもの)〉のことってして、意識の二種類の〈知性〉として〈考性〉と〈感性〉ってしたとき、想像は〈感性〉のなかに入れてる、っていうことになるかな。
    ってすると、次に知覚と想像の違いが問題となるのね。
    で、
    No36141の(v)にあにあるように、
    A〔現象学は、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なることを明らかにした。〕
    そして、
    No36131の「現在化/準現在化/共現在化」にあるように、
    B〔直観的作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。〕

    こういうのから、わたしのばあい
    〈感性〉=感覚・知覚・統覚・想像
    っていうことになるんだけど、Bの〔統握〕っていうのがひっかてるのね。

    「統覚」については、
    No11393で見たように、
    わたしフッサールが見ている2種類の統覚っていうのを、「統覚Apperzeption」と「統握Auffassung」ってして見てる。
    〔直観的〕は〈感性〉のうちで、っていうふうに見てるから、〔統握〕じゃなくて「統覚」の方になるんじゃないかしら?そして〔・・・大きく現在化と準現在化とに分けられる〕ってあって、〔現在化〕は知覚によって、〔準現在化〕は想像によって、ってして見たとき、〈統覚形式に従って、大きく(現在化する)知覚と、(準現在化する)想像と分けられる〉、もっと簡単に、〈統覚は知覚と想像とに分けられる〉って見て、わたし想像って記憶と関連してるようにわたし思えるから、
    〈感性〉=感覚・知覚・統覚(知覚・記憶・想像)って見たりもしてる。
    「統覚」っていうのうは知覚と記憶と想像によって出来てる、みたいな感じ。

    あ、これ、いまんとこ、“かな?”っていう程度で、ではない、のかもだけど、ちょっと書き留めて置くことにした。

    ひとまずここでは@っていうことをおさえといて。

引用返信/返信 削除キー/
■36153 / inTopicNo.17)  Re[78]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/13(Sat) 15:29:58)
    ■36142、
    おくったがわさん、ありがと。

    >勝手に自トピにコピーさせてもらうと思います<
    OKで〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■36142 / inTopicNo.18)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ おくたがわ -(2024/01/12(Fri) 21:03:05)
    2024/01/12(Fri) 21:13:38 編集(投稿者)

    No36063に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    こんばんは

    > わたしの物語りおもしろくないかな〜?っていうか〜、メルポンの。
    > 『私が他者に対して抱くイメージに合わせるよう他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』
    > みたいなの、わたしいいと思うけど。

    自分もそこ、面白いと思ってた。時間なくて投稿しなかったけど。
    他にも良いと思ったところあったので、そのうち勝手に自トピにコピーさせてもらうと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■36141 / inTopicNo.19)  Re[81]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/12(Fri) 18:57:52)
    No36015の(3)、「想像力」imagination
    これがわたしには分かりやすかったので、その一部を、

    (v)〔…再生産的想像力と創造的想像力に分けられる‥‥‥現象学は、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なることを明らかにした。知覚は対象を現にここに存在するものとして定立するが、想像とは対象を無として定立し、現実を超え出る作用である。・・・・・・意識の非現実化する優れた作用である想像力は、現実世界との交通を遮断して、可能性の世界を開示する能力である。〕

    現象学における「想像」についての書き写しはこれでだいたい書けたかな。

    あ、もう一つ、コトバンクの「想像」、日本大百科全書のなかにあったのを、

    〔日常語では、現に存在する対象を欠いた表象を「想像」とよび、知覚から区別するが、哲学で用いられる「想像」も、一般に、「事物がそうあるようにではない仕方で事物を覚知する」働きとされる。ただし、西洋近代哲学では、ほぼ明確に「知解」intellectio(ラテン語)との対比において用いられ、たとえば、2点間を最短距離で結ぶ線や、四つの内角がすべて直角である平面図形という形の把握が「知解」であるのに対して、眼前にある知覚物としての机の端を直線として覚知したり、その机の上の本の表面を長方形として覚知する感性的経験を「想像」的という。またカントによれば、実体性や因果性は純粋悟性概念であるのに対して、それらを感性的現象の場面で具体化したもの、つまり「図式」は、想像力(構想力)の所産である。「想像」のこの種の用法も、「事物がそうあるようにではない……」という規定における「事物」を広義に解し、概念的なものまで含めるならば、一般の用法から逸脱するものではない。〕

    そろそろ、簡単に見る作業にとりかかろっかな。

引用返信/返信 削除キー/
■36131 / inTopicNo.20)  Re[80]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/11(Thu) 19:02:37)
    No36130に出てくる「ファンタスマ」、「準現在化」について、【「現象学事典」弘文堂2014】にあるので、書き写して見る。
    全部はまずいかもないので、一部だけ。アキュートアクセントは省略しときます。

    ファンタスマ [(独)Phantasuma] 
    〔知覚においてその体験された内容が感覚と呼ばれるのに対して、想像における内容はファンタスマと呼ばれる。感覚とファンタスマ、たとえば感覚音と音ファンタスマは、内容の面だけからみれば、同種類のものである。またわれわれは感覚とファンタスマを同時に体験することができる。たとえば楽譜を読み(視覚的感覚)ながら、メロディーを想像する(音ファンタスマ)という場合のように。・・・・・感覚を基盤とする知覚的対象とファンタスマを基盤とする想像対象とは統一することがない。・・・・感覚が実在性(Realitat)と現前(現在Ggenwart)を有するのに対して、ファンタスマは非現実性(Irrealitat)と空無性(Nichtigkeit)という性格をもつ。・・・・ファンタスマは内容的には現在的であるが、現在化しない対象を準現在化する(vergegenwartigen)ためにある。知覚において変様された再現体(たとえば記憶)において、「ファンタスマの現在的として妥当する働きは、それが非現在的として妥当する働きを前提にして」[Hu 23.165]はじめて可能である。〕

    現在化/準現在化/共現在化[(独)Gegenwartigung/Vergegenwartigung/Mitgegenwartigung]
    〔直観的表象作用はその統握形式に従って、大きく現在化と準現在化とに分けられる。現在化は対象が現に現れること、有体的(lebhaft)に現前していることを表し、知覚の志向的性格であるとされる。これに対して準現在化は記憶や想像や予期を規定し、現にない対象を思い浮かべる事態であり、この意味では、再生(Reproduction)や再現前化(Reprasentation)と同義である。・・・・・・・現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。たとえば家の知覚において、前面だけの現在化を、背後も内部も調度も住まう人も含む家そのものを構成する準現在化が支えているのである。この意味で共現在化は現在化と一体となった準現在化のことであり、知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。・・・。〕

    もう一つ、【フッサール著『デカルト的省察』1931浜渦辰二訳岩波書店2001】の訳注に、
    〔Vergegenwartigungその動詞形vergegenwartgenは、ふつうは「ありありと思い浮かべる」と訳される。しかし、ここではGegenwartgungに前つづりver-(ここでは「結果」の意)がついて形として使われているので、それとの関連も考えねばならない。そのため従来は、この対語Gegenwartgung-Vergegenwartgungに対して、「現表象―表象」(山本)、「根源的呈示―創造的呈示」(船橋)、「現在化―準現在化」(『現象学辞典』)という訳語が当てられてきた。本訳書では、gegenwartgenを「現前させる」とし、それに対してvergegenwartgenを「準現前させる」(つまり、「現前してはいないが、あたかも現前しているかのように、現在に準ずるようにさせる」の意)、その名詞形Vergegenwartigungを「準現前させること/働き」とした。この語でフッサールが考えているのは、過去に関わる「想起」、未来に関わる「予期」、非現実に関わる「想像」など、要するに、現在に関わる「知覚」の「変様」として、それに準じて変様された現在に関わる働きである。〕

    とりとめもなく、
    *現前するもの=現在=現実←知覚がかかわる。非現実性←想像がかかわる。
    *現前するもの(現在・現実)を現在化する知覚。現前(現在・現実)しないものを準現在化する想像。
    *端的な知覚によって見られている楽譜(現前するもの=現在)は物理的像として。そして現前(現在)してない(現にない対象を思い浮かべる)、想像されたメロディ。
    *感覚を基盤とする知覚的対象とファンタスマを基盤とする想像対象とは統一することがない。
    No36130の(t)あるような、〔想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない〕に似てる。
    *現在化にはつねに想起と想像としての準現在化が協働している。
    *知覚対象は単なる現前(Prasenz)ではなくつねに付帯現前(Apprasenz)なのである。
    「Apprasenz」って「apperception」(統覚)となんか似てる。

    なんかもっと簡単に見ることできないかな〜って、悩める悪魔ちゃん。

引用返信/返信 削除キー/
■36130 / inTopicNo.21)  Re[79]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/11(Thu) 18:55:11)
    No36093のように見られたのは、
    No36015の(2)の次のようなところから。

    (t)〔広義の想像には二種類ある。すなわちここで取り上げる端的な想像(狭義の想像)と知覚を基底にもつ「像意識」とである。狭義の想像は、知覚が感覚与件を内容とするのに対し、感覚の変様態であるファンタスマを内容にして、その上に想像・像(想像対象)を構成していて、二層的であるのに対し、後者では最下底に知覚の対象たる物理的像があり、それに基づけられて、物理的像の変様した像客体が現出し、それをアナロゴンとして像主体(想像・像に対応する)が呈示されてくる。両者は想像・像の構成に向かう二つのまったく異なるありかただといえよう。
     狭義の想像とは、対象を意識に自己現前するselbstgegenwärtigen)ものとして表象する知覚に対して、「像のうちに対象を準現在化する(vergegenwärtigen)」働きのことをいう。後者の性格は、記憶(erimmerung)や期待(Erwartung)もまた共有するところであるが、記憶が対象をつかってあったと定立し、期待が対象を将来あるだろうとして定立するのに対し、想像は対象を非定立のまま保持しつづける。また対象が現前しないがゆえに、想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない。〕

    ここんとこ、何度読み返しても、いまだにわたしよくわかんない。

    あと、
    (u)〔想像は存在定立の排去を自然的遂行された知覚のことであるといえる〕
    っていうのもあった。

    No36053で見たように
    (B)二種類の想像が考えられている。
    っていうことなんだと思うけど。
    ここでは、
    @端的な想像(狭義の想像)
    A知覚を基底にもつ「像意識」
    の二種類っていうことかな?
    〔物理的像〕っていうのは知覚に関係する像なのかな?
    〔想像・像〕?〔感覚の変様態であるファンタスマ〕?〔記憶・期待〕?〔準現在化〕?〔想像は対象を非定立のまま保持しつづける〕?〔想像は知覚の特色である内容充足を成就することができない〕?

    ああ〜、よくわかんない。
    でも、いちおう書いとく。

引用返信/返信 削除キー/
■36093 / inTopicNo.22)  Re[78]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/08(Mon) 16:17:13)
    物語りつづける。
    しばらく【「現象学事典」弘文堂2014】の「想像」に書いてあるのからね。

    No36015の(2)に、

    (s)〔想像について語れば、その想像・像は意識内容ではなく、志向的対象であり、意識に超越し、意識がそれを思念し、それを狙う対象である。意識作用は一様ないしは同じであるのではなく、表象には表象作用が、想像には想像作用が対応するはずである。この作用−対象、あるいはノエシス−ノエマの相関構造が想像においても貫かれている。〕

    ってある。
    ここのある〔想像・像〕、わたし最初、〈想像によってできた像〉ってみたんだけど、どうやら違うみたいなのね。
    〔想像・像は意識内容ではなく、志向的対象〕ってあるよね。
    でね、
    No36070で見たようなのから見て見ると、
    〔想像・像〕っていうのがあって、これを〔志向的対象〕(ノエマ)ってしてるんだから、それを対象とする〈するもの〉がいるはずよね。で、わたし思ったんだけど、〈するもの〉っていうのを〈想像さん〉ってしてみたのね。
    〈想像さん(するもの)〉が〈すること〉によって、〈されたもの〉が〔想像・像〕じゃなくて〔意識内容ではなく〕、〈想像さん〉は〔想像・像〕を対象としてそれに志向してる、っていうふうにわたし見たのね。
    〔想像・像〕は〔意識内容〕じゃない、すなわち、〈想像さん〉によって〈されたもの〉=内容じゃない、ってしてみたわけ。

    ってすると〜、この〔想像・像〕を作ってるはだれ?ってなるのね。
    〈○○さん〉によって〈されたもの〉が〔想像・像〕、そして、〔それ〕を対象として志向してるのが〈想像さん〉。
    この〈○○〉にはいるのはなに?っていうこと。
    ここんとこは、後で見てくことにする。

引用返信/返信 削除キー/
■36070 / inTopicNo.23)  Re[77]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/07(Sun) 13:58:15)
    ちょっと間奏

    現象学では「ノエシス/ノエマ」っていうのあるのね。
    【「現象学事典」弘文堂2014】の
    ノエシス/ノエマ [(独)Noesis/Noema(ギ)νόησιϛ/νόηα ]のなかから一部書き写して、

    (r)〔ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。両概念は、すべてのノエシスは必ずその相関者としてそれぞれのノエマを持つという志向的体験に見られる平行的構造を明らかにするために導入された。フッサール自らが確認するように、『論理学研究』では意識の志向性における「作用」と「対象」の平行性およびその相関関係が「一面的にノエシス的捉え方」によって考察された。それに対し「志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持つこと」、しかもそれら「両本質は相互に不可分である」という認識のもとに、『イデーンT』ではノエマ的側面に考察の重点がおかれ[265]、とりわけ志向的体験における「意識対象性の構成」の問題が「ノエシス・ノエマ的構成」という面から探究される[316]。また、ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され、「いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」[278]。このように体験のノエマ的側面に目を向けことで意味付与作用と志向的対象についての踏み込んだ分析が可能になった。〕

    わたし、簡単に、
    ノエシス=作用=〈すること〉
    ノエマ=対象=〈されるもの〉
    って見てて、そしてこれを区別して見ること、を倣ってる。

    でも、わたしほかに、〈するもの〉、〈されたもの〉っていうのあると思ってる。
    〈するもの〉がいるのね。〈するもの〉に〈されるもの〉(ノエマ=対象)があるのね。そして、その〈するもの〉がなにか〈する〉(ノエシス=作用)のね。そして、それによってなにか〈されたもの〉が出来るのね。
    メルポンのを見ようとするとき、こういう見方を頭の中に置いとくようにわたししてる。
    たとえばね、
    知覚さんがいるのね。これを〈するもの〉ってして見るのね。知覚さんに〈されるもの〉(ノエマ=対象)は「感覚」っていうことになるんだと思う。知覚さんは感覚に志向してるのね。そして、知覚さんが〈すること〉(ノエシス=作用)によって、知覚〈されたもの〉が出来る。
    こんな感じ。
    あと、この知覚〈されたもの〉っていうのは感覚が内容になってる、って見ることもできるのかも。〔ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され〕ってあるから、知覚さんによって知覚〈されたもの〉=感覚的内容を「意味」っていってもいいかな?メルポンがいう『sensという意味』?
    もうちょっと考えて、
    こんどは〈するもの〉を「感覚器官」ってするのね。「感覚器官」に〈されるもの〉(ノエマ=対象)は「私の外にある現前(現在)する現実的なもの」で、「感覚器官」が〈すること〉(ノエシス=作用)によって、〈されたもの〉が「感覚」っていうことになるかな。
    そして、知覚さんは、「感覚器官」によって〈されたもの〉=「感覚」を〈対象〉(ノエマ)としているわけだから、〈されたもの〉も「ノエマ」(対象)っていうことになるのかも?
    「ノエマ」っていうの、〈するもの〉に〈されるもの〉(対象)っていう側面と、別の〈するもの〉にとっては〈されたもの〉が対象となってるっていう側面、があるっていうことになるかな。
    ってすると〜、知覚さんによって〈されたもの〉を〈対象〉(ノエマ)にしている〈するもの〉がある、っていうことも考えられるかも。

    わたしの頭ン中ごちゃごちゃしてるみたいだけど、簡単に、
    ノエシス=作用=〈すること〉
    ノエマ=対象=〈するもの〉に〈されるもの〉、そして〈するもの〉によって〈されたもの〉も対象となってる。
    っていうことでいいかな。

    長くなっちゃたけど、まえからどうしとこっかな〜って、わたしに思われたものをわたしに分かりやすくするために、で、これわたし用に、ね。

引用返信/返信 削除キー/
■36063 / inTopicNo.24)  Re[76]: つれづれなるままに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2024/01/07(Sun) 10:31:50)
    No36016の(p)、
    ちょっとタイピング間違えに気づいたとこあるので訂正しま〜す。

    (p)『想像的なものと現実的なものとのあいだには弁証法があり、この二つの領域のあいだには両義性があります。可能な合理性は、生や知覚の非合理的な枠組みを受け入れる合理性だけです。われわれと他者との関係の合理性は、私が他者を考察しているときでも他者は自由だという事実にあります。私が他者に対して抱くイメージに合わせるよう他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』(p78)

    でした。 ごめん。

    わたしの物語りおもしろくないかな〜?っていうか〜、メルポンの。
    『私が他者に対して抱くイメージに合わせるよう他者に強制しないようなコミュニケーションを確立する必要があるのです。』
    みたいなの、わたしいいと思うけど。

引用返信/返信 削除キー/

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