| ちょっと間奏
現象学では「ノエシス/ノエマ」っていうのあるのね。 【「現象学事典」弘文堂2014】の ノエシス/ノエマ [(独)Noesis/Noema(ギ)νόησιϛ/νόηα ]のなかから一部書き写して、
(r)〔ノエシス的契機あるいはノエシスは意識の作用的側面を、そしてノエマ的契機あるいはノエマはその対象的側面を表す。両概念は、すべてのノエシスは必ずその相関者としてそれぞれのノエマを持つという志向的体験に見られる平行的構造を明らかにするために導入された。フッサール自らが確認するように、『論理学研究』では意識の志向性における「作用」と「対象」の平行性およびその相関関係が「一面的にノエシス的捉え方」によって考察された。それに対し「志向性はノエシスとノエマとの両側面を本質的に持つこと」、しかもそれら「両本質は相互に不可分である」という認識のもとに、『イデーンT』ではノエマ的側面に考察の重点がおかれ[265]、とりわけ志向的体験における「意識対象性の構成」の問題が「ノエシス・ノエマ的構成」という面から探究される[316]。また、ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され、「いかなる志向的体験もみなあるノエマを持ち、そのノエマにおいてある意味を持ち、この意味を介して、その体験は対象へと関係する」[278]。このように体験のノエマ的側面に目を向けことで意味付与作用と志向的対象についての踏み込んだ分析が可能になった。〕
わたし、簡単に、 ノエシス=作用=〈すること〉 ノエマ=対象=〈されるもの〉 って見てて、そしてこれを区別して見ること、を倣ってる。
でも、わたしほかに、〈するもの〉、〈されたもの〉っていうのあると思ってる。 〈するもの〉がいるのね。〈するもの〉に〈されるもの〉(ノエマ=対象)があるのね。そして、その〈するもの〉がなにか〈する〉(ノエシス=作用)のね。そして、それによってなにか〈されたもの〉が出来るのね。 メルポンのを見ようとするとき、こういう見方を頭の中に置いとくようにわたししてる。 たとえばね、 知覚さんがいるのね。これを〈するもの〉ってして見るのね。知覚さんに〈されるもの〉(ノエマ=対象)は「感覚」っていうことになるんだと思う。知覚さんは感覚に志向してるのね。そして、知覚さんが〈すること〉(ノエシス=作用)によって、知覚〈されたもの〉が出来る。 こんな感じ。 あと、この知覚〈されたもの〉っていうのは感覚が内容になってる、って見ることもできるのかも。〔ノエマは広義での「意味」(Sinn)と解され〕ってあるから、知覚さんによって知覚〈されたもの〉=感覚的内容を「意味」っていってもいいかな?メルポンがいう『sensという意味』? もうちょっと考えて、 こんどは〈するもの〉を「感覚器官」ってするのね。「感覚器官」に〈されるもの〉(ノエマ=対象)は「私の外にある現前(現在)する現実的なもの」で、「感覚器官」が〈すること〉(ノエシス=作用)によって、〈されたもの〉が「感覚」っていうことになるかな。 そして、知覚さんは、「感覚器官」によって〈されたもの〉=「感覚」を〈対象〉(ノエマ)としているわけだから、〈されたもの〉も「ノエマ」(対象)っていうことになるのかも? 「ノエマ」っていうの、〈するもの〉に〈されるもの〉(対象)っていう側面と、別の〈するもの〉にとっては〈されたもの〉が対象となってるっていう側面、があるっていうことになるかな。 ってすると〜、知覚さんによって〈されたもの〉を〈対象〉(ノエマ)にしている〈するもの〉がある、っていうことも考えられるかも。
わたしの頭ン中ごちゃごちゃしてるみたいだけど、簡単に、 ノエシス=作用=〈すること〉 ノエマ=対象=〈するもの〉に〈されるもの〉、そして〈するもの〉によって〈されたもの〉も対象となってる。 っていうことでいいかな。
長くなっちゃたけど、まえからどうしとこっかな〜って、わたしに思われたものをわたしに分かりやすくするために、で、これわたし用に、ね。
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