TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■32507 / inTopicNo.37)  超越論的分析論Y−5
  
□投稿者/ うましか -(2023/08/16(Wed) 23:04:51)
    2023/08/16(Wed) 23:05:38 編集(投稿者)

    pipitさん、こんばんはー

    *******

    T 超越論的原理論
    第二部門 超越論的論理学
    第一部 超越論的分析論
    第一篇 概念の分析論
    第一章 全ての純粋悟性概念を発見する手引きについて

    □全ての純粋悟性概念を発見する超越論的な手引き
    第三節 (第十項) 純粋悟性概念またはカテゴリーについて

    ◆ ところで、一般的に表象された純粋な綜合≠ヘ純粋悟性概念を与える。しかし、私が純粋な綜合として理解するのは、ア・プリオリで綜合的な統一という根拠に基づくような綜合である。例えば、私たちが行う計算は(とりわけこれは比較的大きな数において著しいが)、概念に従う綜合≠ナある。というのも、この綜合は、統一の或る共通する根拠(例えば十進法)に従って行われるからである。それ故、綜合という概念の下では、多様なものの綜合における統一が必然となる。

    ◆ 分析的には、様々な諸表象は一つの概念の下に≠烽スらされる(これは、一般論理学の仕事である)。しかし、諸表象ではなく、諸表象の純粋な綜合≠概念へと≠烽スらすことは、超越論的論理学が教える。あらゆる対象をア・プリオリに認識するために、私たちに与えられていなければならない第一のものは、純粋な直観の多様なもの≠ナある。構想力によるこの多様なものの綜合≠ェ第二のものであるが、しかし、これはまだいかなる認識も与えない。この純粋な綜合に統一≠与え、もっぱらこの必然的で綜合的な統一という表象を本質とする諸概念が、当面の対象を認識するための第三のものを成すのであって、それらの諸概念は悟性に基づいている。

    --- No.32398 からの続き ---

    ◇ 一つの判断における@l々な諸表象に統一を与えるこの同じ機能が、一つの直観における@l々な諸表象の単なる綜合にも統一を与えるが、この機能は、一般的に表現すれば、純粋悟性概念と呼ばれる。

    ◇ それ故、同一の悟性が、しかも、その悟性が概念において、分析的な統一を介し判断の論理的な形式を、それ〔悟性〕によって成就したのとまさに同じ働きを通じて、直観一般における多様なものの綜合的な統一を介し己の諸表象の内へと超越論的な内容をもたらすのであり、そのために、これらの諸表象は純粋悟性概念と呼ばれ、この純粋悟性概念はア・プリオリに客観に関わるのであるが、これは一般論理学の成し得ないことである。

     ※1 「悟性」の二つの機能(同じ操作において二つのこと@Aを同時に実現)
    @ 概念において、分析的に統一することで判断の論理的形式を成立させる
    A 直観一般において、多様なものを綜合的に統一することで、悟性に与えられた像や観念に超越論的な内容を与える 〔中山元訳2、p.71参照〕


    † 原佑訳上巻、p.223参照。
    † その他に、中山元訳2、p.71、石川文康訳上巻、p.134〜p.135を参照。
    †≠ナ囲まれた言葉は、カントが『純粋理性批判』文中で強調したものです。
    † 翻訳はしますが、◇〜は私が便宜上用いた区分けであり文章は原文・訳文の通りではありません。
    † 文中〔〕内は私による挿入、*1、*2〜や、※1、※2〜は私の覚書とします。これらは後に訂正、削除、修正等することがあります。
    † ◆〜は原典における段落とします。

    *******

    Y−4 No.32398、Y−5 No.32507
    Y−1 No.31693、Y−2 No.32053、Y−3 No.32302
    X−4 No.30943、X−5 No.31146、X−6 No.31639
    X−1 No.30542、X−2 No.30550、X−3 No.30874
    W−1 No.30139、W−2 No.30154、W−3 No.30529
    V−1 No.29992、V−2 No.30063
    U−1 No.29963
    T−1 No.29833、T−2 No.29850

    *******

    第一部 No.29833,29850
    第一篇 No.29963
    第一章 No.29992,30063
    第一節 No.30139,30154,30529
    第二節 No.30542,30550,30874,30943,31146,31639
    第三節 No.31693,32053,32302,32398,32507

引用返信/返信 削除キー/
■32505 / inTopicNo.38)  Re[11]: 純粋理性批判B157
□投稿者/ pipit -(2023/08/16(Wed) 14:12:42)
    2023/08/16(Wed) 17:01:15 編集(投稿者)
    2023/08/16(Wed) 14:14:51 編集(投稿者)

    みなさま、こんにちはー (^_^)

    No32502
    > カント的には「仮説」ではないだろうけど、読者に仮説に見える可能性は想定してるようで、「純粋理性批判」初版の序文内に関連する記述があります。
    > 今読んでる箇所の重要性や苦労したという感想も書いてあるので、その部分も含めて後ほど引用しようと思います。<

    ********

    中山元先生訳、光文社古典新訳文庫『純粋理性批判1』p211.212、A]T-(中山先生独自番号R12)より引用します。
    カントによる第一版の序文の抜粋引用です。[  ]は中山元先生による補足です。

    『本書では、知性[=悟性]と名づけた能力を根本的に解明し、この能力を使用するためのさまざまな規則とその境界を規定する作業を行っているが、そのためには本書の超越論的な分析論の[第一篇 概念の分析論の]第二章、「純粋な知性概念の根拠づけ」[=純粋悟性概念の演繹]というタイトルをつけたところほど、重要な研究は考えられないのである。
    この研究はわたしに多大な苦労をもたらしたのであり、その苦労が報われないままでないことを願うものである。
     
     この純粋な知性概念の根拠づけの研究は、深いところに根差したものであって、次の二つの側面をそなえている。

    第一の側面は純粋な知性の対象にかかわるものであって、純粋な知性のアプリオリな概念が、客観的な妥当性をそなえていることを確証し、明確にすることを目的としたものである。
    その意味ではこの側面は、本書の本質的な目的にかかわる。
     
    第二の側面は、純粋な知性が主観との間でどのような関係にあるかを考察するものであり、
    純粋な知性そのものを、その可能性と、純粋な知性が依拠しているさまざまな認識能力とに基づいて解明するものである。この解明は本書の主要な目的にとってきわめて重要なものではあるが、本書の主要な目的そのものではない。

    本書の主要な目的は、知性と理性が、あらゆる経験から離れて、何を認識できるのか、そしてどの程度まで認識できるのかという[客観的な妥当性の]問題であって、思考する能力がどのようにして可能になるかという[主観的な能力の]問題ではないからである。

     この第二の[思考する能力の]問題については、ある与えられた結果[思考]から、その原因[思考の能力]にさかのぼって考察することになるために、どうしても仮説のようにみえるものを含んでしまうのである(いずれ述べるように、実際には仮説ではないのだが)。
    その場合には、わたしには自分の私見を述べるのが許されるのと同じように、読者にも別の私見を述べるのが許されるべきだということになろう。

    そこでわたしはあらかじめ読者に注意を与えておかねばならない。
    もしも読者が[第二の主観的な問題にかかわる]主観的な根拠づけに、わたしが期待するほど十分に納得できなかったとしても、本書の主要な目的である[第一の客観的な問題にかかわる]客観的な根拠づけは、その強みをまったく失わないのである。そのためには本書の九二ページから九三ページに述べたことで十分であろう。(53)』

    『中山先生訳注(53)本書の「カテゴリーの超越論的な根拠づけへの移行」の部分である。第二版のページづけでは、B一二四-一二六ページ。』
    引用終了

    ********

    というわけで、カテゴリーの根拠づけを客観的根拠づけと、主観的根拠づけ、に分けたら、今回みていく記述は、主観的な根拠づけ
    だということですね。

    カント先輩曰く、主観的な根拠づけとは、、

    > 純粋な知性そのものを、その可能性と、純粋な知性が依拠しているさまざまな認識能力とに基づいて解明するものである。<

    > 思考する能力がどのようにして可能になるかという[主観的な能力の]問題<

    > この第二の[思考する能力の]問題については、ある与えられた結果[思考]から、その原因[思考の能力]にさかのぼって考察することになるために、どうしても仮説のようにみえるものを含んでしまうのである(いずれ述べるように、実際には仮説ではないのだが)。<

    で、カント先輩が1番言いたいのはおそらくぅ ↓

    > もしも読者が[第二の主観的な問題にかかわる]主観的な根拠づけに、わたしが期待するほど十分に納得できなかったとしても、本書の主要な目的である[第一の客観的な問題にかかわる]客観的な根拠づけは、その強みをまったく失わないのである。そのためには本書の九二ページから九三ページに述べたことで十分であろう。<

    しかしですねぇ、カント先輩、、、
    pipitその箇所読んで来たはずですが、あまりハッキリと、、、すみません、また、読み返してみます!!

    > 本書の主要な目的は、知性と理性が、あらゆる経験から離れて、何を認識できるのか、そしてどの程度まで認識できるのかという[客観的な妥当性の]問題であって、思考する能力がどのようにして可能になるかという[主観的な能力の]問題ではないからである。<

    _φ(・_・ えーと、本書の目的のための、(今pipitが読んでる) 「超越論的論理学」の目的は、『認識の起源と、範囲と、客観的な妥当性を規定する学であり、』(中山先生訳第二巻p28.29より引用、B81)、、、

    あ!
    No32428でうましかさんがご紹介されていた山口修二先生の文章を思い浮かべました。

    (山口修二先生の文章)
    >「就任論文」は、感性と知性とを原理的に区別することを主眼とする。これによって、感性的認識を含まない純粋知性のうちに、形而上学の領域を割り当てることが意図されている。<

引用返信/返信 削除キー/
■32502 / inTopicNo.39)  Re[10]: 純粋理性批判B157
□投稿者/ pipit -(2023/08/16(Wed) 08:22:27)
    2023/08/16(Wed) 11:15:32 編集(投稿者)

    みなさま、おはようございます(^_^)

    ------------------
    No32491(pipit感想文より)
    > B 問題点の提起
    > アプリオリな、知性由来の起源をもつカテゴリー(@)が、「直観一般の対象」についてもアプリオリな認識をもたらす可能性が成り立つ(A)のはなぜか?
    > しかもその「直観一般の対象」が、直観する形式ではなく、それらの結合または統合の(知性の)法則に従ってアプリオリに認識される、というのは如何にして可能となるのか?<

    > C 問題Bが説明できないなら、
    > 知性により導き出された法則に、現象が従う理由がわからなくなる。<
    ------------------

    (pipit8/16日記)

    「人間知性の上だけで生み出された概念が、人間の感受する対象の現れ方をあらかじめ規定する」ことが可能になる理路を提示できれば、

    【知性により生み出された法則に自然現象が従う※理論を実証することが可能となる場が人間に現象している】という一つの仮説を唱える根拠となる。

    カント的には「仮説」ではないだろうけど、読者に仮説に見える可能性は想定してるようで、「純粋理性批判」初版の序文内に関連する記述があります。
    今読んでる箇所の重要性や苦労したという感想も書いてあるので、その部分も含めて後ほど引用しようと思います。

    (中山元先生訳、光文社古典新訳文庫『純粋理性批判1』p211.212、A]T-(中山先生独自番号R12)
    のカントの文章の引用しようと思っています。)

    それではいったん失礼します (^○^)
引用返信/返信 削除キー/
■32492 / inTopicNo.40)  Re[10]: 純粋理性批判B157
□投稿者/ pipit -(2023/08/15(Tue) 12:48:41)
    No32491の該当箇所の英訳&英訳のDeepL日訳です。
    @
    In the metaphysical deduction, the a priori origin of categories was proved by their complete accordance with the general logical of thought;

    DeepL日訳(形而上学的演繹では、カテゴリーのアプリオリな起源は、そのカテゴリーが思考の一般的論理に完全に合致することによって証明された;)

    A
    in the transcendental deduction was exhibited the possibility of the categories as a priori cognitions of objects of an intuition in general (§ 16 and 17).

    DeepL日訳(超越論的演繹において、直観の対象一般についてのアプリオリな認識としてのカテゴリーの可能性が示された(§16と17)。)

    B
    At present we are about to explain the possibility of cognizing, a priori, by means of the categories, all objects which can possibly be presented to our senses, not, indeed, according to the form of their intuition, but according to the laws of their conjunction or synthesis, and thus, as it were, of prescribing laws to nature and even of rendering nature possible.

    DeepL日訳(現在、われわれは、カテゴリーによって、われわれの感覚に提示されうるすべての対象を、その直観の形式に従ってではなく、それらの結合または統合の法則に従って、先験的に認識する可能性を説明しようとしている。)

    C
    For if the categories were inadequate to this task, it would not be evident to us why everything that is presented to our senses must be subject to those laws which have an &#224; priori origin in the understanding itself.

    DeepL日訳(というのも、もしカテゴリーがこの仕事に不適切であったとしたら、なぜ私たちの感覚に提示されるすべてのものが、理解それ自体にアプリオリに起源を持つ法則に従わなければならないのか、私たちにはわからないからである。)


引用返信/返信 削除キー/
■32491 / inTopicNo.41)  Re[9]: 純粋理性批判B157
□投稿者/ pipit -(2023/08/15(Tue) 12:35:27)
    2023/08/15(Tue) 12:39:14 編集(投稿者)
    2023/08/15(Tue) 12:37:01 編集(投稿者)

    みなさまこんにちは!
    No32417の続きです(^ ^)

    Transcendental Deduction of the universally possible employment in experience of the Pure Conceptions of the Understanding § 22

    https://www.gutenberg.org/cache/epub/4280/pg4280-images.html#chap51

    タイトルも長いー

    『経験における 純粋な知性概念の 普遍的に可能な使用 についての 超越論的根拠づけ』かな。

    ↓本文の訳文を読んでpipitが内容をまとめてみました。後で当該箇所の英訳を投稿します。

    ------------------------
    @ まず形而上学的な根拠づけで、カテゴリーが知性による一般的論理と同一の起源を持つことをカント的には証明した。
    ------------------------
    A 次に超越論的な根拠づけで、カテゴリーが直観の対象一般についてのアプリオリな認識をもたらす可能性をカント的には示した。
    ------------------------
    B 問題点の提起
    アプリオリな、知性由来の起源をもつカテゴリー(@)が、「直観一般の対象」についてもアプリオリな認識をもたらす可能性が成り立つ(A)のはなぜか?
    しかもその「直観一般の対象」が、直観する形式ではなく、それらの結合または統合の(知性の)法則に従ってアプリオリに認識される、というのは如何にして可能となるのか?

    ------------------------
    ※このCはpipitの私見がすごく入ってますので、誤解釈の可能性が大いにあります。

    C 問題Bが説明できないなら、
    知性により導き出された法則に、現象が従う理由がわからなくなる。
    (pipit想像)例えば、人間が考えた計算法則によって組まれたプログラムに従って、現実世界でロケットが宇宙まで行って、また地球に帰ることが可能となる理由が、カント的にはわからなくなる??
    全然違ってたらカント先輩ごめんなさい!!


引用返信/返信 削除キー/
■32432 / inTopicNo.42)  pipitさんへ (;´・ω・)
□投稿者/ うましか -(2023/08/12(Sat) 09:44:32)
    おはようございます。

    山口修二『カント超越論的論理学の研究』、手に入れたんですね!

    当たり前ですが、研究書ですし、やはりとても難しいです(;´Д`A ```

    http://www.keisui.co.jp/cgi/kensaku.php

    今のところ、この辺り↓をウロウロしています(´-ω-`)

    *******

    一章 超越論的論理学の理念
     第一節 1762−64年における<内包的論理学>
      1 判断論
      2 学問の方法 −「分析」と「総合」
      3 真理の根拠
      4 思考の対象の可能性
      5 <内包的論理学>の限界

     第二節 1770年の「就任論文」における「外延的論理学」
      1 形而上学の革新
      2 知性の消極的規定―知性の感性からの区別
      3 純粋直観としての時空―感性の知性からの区別
      4 感性と知性の関係―外延的論理学の方法
      5 『純粋理性批判』へ − オルガノンからカノンへ −

     第三節 『純粋理性批判』における「論理学の限界」
      1 「一般論理学」と真理問題
      2 「一般論理学」の役割―論理的形式と内容
      3 「超越論的論理学」の構想

    *******

    以上、目次より。

    第一節でとりあげられる1762年〜64年のカントの著作は以下(山口,p.11)

    ・1762年 『三段論法の四つの格の誤った詳し過ぎさ』
    ・1763年 『神の現存在の論証のための唯一可能な証明根拠』
    ・1763年 『哲学に負量の概念を導入する試み』
    ・1764年 『自然神学と道徳の諸原則の判明性についての研究』

     山口によれば、『カント哲学の体系形式』で著者D.ヘンリッヒが言うように〔山口,p.225 註6〕、カントのこれらの著作は各々のテーマの違いはあるものの、同一の体系的基礎を有しており、この基礎は「内包的論理学」と密接に結びついているとのこと。
     註5〔山口,p.225〕におけるP.Schulthessのカントの論理学の発展についての記述も興味ぶかいです(;´・ω・)
引用返信/返信 削除キー/
■32431 / inTopicNo.43)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/08/12(Sat) 00:45:30)
    No32428
    うましかさんの記事、勉強になったなー

    山口修ニ先生の本は、私には難しくて置いたままで存在を忘れてかけてましたけど、やっぱりお助け参考書になる予感が (・・;)ムズカシイケド...

    内包と外延ってそういう意味だったのかー(雰囲気感じただけですけど...)

    純理のB92あたりの『知性一般の論理的な利用について』(中山元先生訳)の記述を思い出しました。
    この箇所は、もう外延的論理学の立場からの
    記述かな、と。

    ------------------

     >(2)感性的なものを一切含まない知性的概念が、いかにして一切の感性的なものを包括する普遍性を得ることができるのか。これは、主語としての感性的なものが、述語としての知性的概念の下に論理的に包摂されることによって可能である、というのが「就任論文」におけるカントの解答である。これは判断における述語と主語の「外延的」解釈に全面的に依存した考えである。<

    ちょうど?次から読むところが、
    『第二六項 純粋知性概念を可能的な経験に普遍的に利用できることの超越論的な根拠づけ』(中山元先生訳)
    なんですよね。まだ中身見てないけど、関連ありそうと想像しています。

    勉強なります!(ムズカシイケド)
引用返信/返信 削除キー/
■32420 / inTopicNo.44)  日記
□投稿者/ pipit -(2023/08/11(Fri) 16:59:42)
    投稿できなかったカント註釈の一部分のDeepL英訳

    But this spontaneity makes me call myself intelligence.

    同じ原文のDeepL日訳

    しかし、この自発性が私を知的だと言わしめるのだ。

    ------------------

    インテリジェンスを検索したら、wikiの記事がおもしろそうな雰囲気だった。

    『インテリジェンス(英: intelligence)は意思決定のために情報を分析して得られる知見、またそれを得る機構である[1][2][3][4][5]。すなわち情報のうち意思決定に利用可能な真実味の高い情報[6][7]、それを得るための活動や組織を指す。』

    脚注の一つ
    『「情報」に該当する英単語は information と intelligence であるが,両語は対立する言葉ではない.intelligence は information から何かを理解しようとして得るものであり,得た知識は information の1つのモードである." 小野. (2021). インフォメーションとインテリジェンス〜情報という言葉をめぐるその後の探索〜Information and Intelligence. 情報処理 62(8), e26-e34, 2021-07-15.』

引用返信/返信 削除キー/
■32417 / inTopicNo.45)  純粋理性批判B157
□投稿者/ pipit -(2023/08/11(Fri) 16:43:01)
    2023/08/11(Fri) 16:45:31 編集(投稿者)

    うぅ、このカントによる註釈を読むべきか否か...(ややこしそうなのでpipitの怠け心が出まして....)

    (註釈のJ. M. D. Meiklejohnさんによる英訳)

    [22] アクセス禁止になるので略します。

    (pipit感想)
    中山先生の訳などを読みまして、違うかもだけど、、、

    時間という形式の中で表される現象としての「自分」像とは別に、
    自発している自己という直観があるから、私は私のことを「 an intelligence.」と呼ぶ、と言ってるのかなぁ。

    客体としての自己・の認識を与える感性的直観と、
    主体としての自己・の認識が起きる直観、と二種の直観を言ってるのかなぁ(自信なし)

    とりあえず次へ進みますー 。゚(゚´ω`゚)゚。
引用返信/返信 削除キー/
■32413 / inTopicNo.46)  Re[32]: 純粋理性批判B159
□投稿者/ pipit -(2023/08/11(Fri) 16:08:54)
    2023/08/11(Fri) 16:11:27 編集(投稿者)

    No32411の続きのDeepL英訳と、その英訳のpipit日訳です。

    , not as it would recognize itself if its view were intellectual.

    「直観が知性的であるような自己認識のようにはならない」

    (pipit感想)

    感官に依存せずに認識できる知的生命(例えば天使や神様?)なら、感官に頼らない自己認識が可能だけど、人間は感官に頼る認識手法なので、自己認識する時も内的感官(心??脳??)に制約され自らに現れた「自己」を認識するしかないけど、それは自己自体というわけではない、って感じかなぁ


引用返信/返信 削除キー/
■32411 / inTopicNo.47)  Re[31]: 純粋理性批判B159
□投稿者/ pipit -(2023/08/11(Fri) 15:52:47)
    No32407の続きですが、英訳が投稿禁止になるので、pipitによる英訳の日訳のみ投稿します。

    「したがって、単に直観(その直観は知性的直観ではなく、知性それ自身により与えられる直観でもなく)として現れるようにそれ自身を認識できるのみであり、

引用返信/返信 削除キー/
■32407 / inTopicNo.48)  純粋理性批判B159
□投稿者/ pipit -(2023/08/11(Fri) 14:39:36)
    みなさまこんにちは♪暑いですねー

    No32406に返信(pipitさんの記事)
    > it can only visualize that connection according to time relations, which lie completely outside the actual concepts of understanding, and

    No32359の続きを読んでみます。
    上記はカントの原文をDeepLで英訳したものです。

    英訳のpipit日訳は、

    「それはただ時間関係による結合を思い描くことができるだけである。時間関係は知性の現実的な概念から全く外れるものなのであるが。」

    それっていうのは、No32359での[内的感覚と呼ばれる制約的結合:a limitative conjunction called the internal sense.]のことかな?

    ふむー

    例えば、pipitは目の前にあるシロクマアイスを時間関係の内で心に思い浮かべる(visualize)けど、
    この時間関係というのは、カント的には知性からの概念ではないのだけど、(感受の条件として?)、知性は時間関係を考慮せざるを得ない、ということなのかなぁ。

    体験が時間とともに現れる、ということかな。
    外的直観が空間の中にvisualizeされるように、内的直観も時間の中にvisualizeされる。

    カントの考え方はなんかどこか変に感じるんですよねー
    変わってる人だなーという思いがわきます。
    不思議(・・?)


引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 ツリー表示 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -