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■2717 / inTopicNo.1)  Re[57]: ラマナ・マハルシ
  
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/20(Mon) 16:57:48)
    2020/04/23(Thu) 14:51:27 編集(投稿者)

    こんにちは、レスありがとうございます。

    No2715に返信(knowing itselfさんの記事)

    > ただ坐っているだけですから、只管打坐ですかね。

    なるほど。パニチェは道元禅師の修証一等(修行は悟りのための手段ではなく、修行と悟りは不可分で一体のものだということ)という言葉が好きです。

    > 「私は誰?」というただ一つの問いは、数百以上あるという公案をすべて解くことに匹敵するだろうと考えているので、それが公案に当たるといえばいえます。

    もの凄く分かりますし、完全に同意します。
    「私は誰」も意識の超難問「何故、私は私なのか」も答えを出す問いではなく〈私〉を気付かせる、あるいは〈私〉へアプローチするための公案(手段)だということが今年に入って確信できるようになりました。

    > その本のタイトルでamazonを検索しましたが、面白そうでした。それは未読です。
    > トークスという対話集が日本語に全訳されているので、最終的にはそれを拠り所にするのがいいと思いますが、良書は他にも何冊かあります。レヴューなどを参考に興味を惹かれたものであれば何でもいいと思います。
    > 英語のものなら無料でダウンロードできるはずです。

    ありがとうございます。
    Amazonで「ラマナ・マハルシの教え 私は誰か?」は、ずっと在庫切れだったのですが、先ほど確認したら新品が3冊入荷してました。
    さっそく注文し、25日までに届きます。

    今回もそうですが、これまでもネットで知り合った友人にさまざまな良書を薦めていただき、読む機会に恵まれました。
    楽しみです。じっくり読みすすみたいと思いますし、思い付いたことはチョコチョコとカキコしたり、分からないことは質問させてもらいます。
    よろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■2715 / inTopicNo.2)  Re[56]: ラマナ・マハルシ
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/20(Mon) 11:46:32)
    No2711に返信(パニチェさんの記事)
    > おはようございます。
    >
    >
    > なるほど、やはり坐っておられるんですね。
    > 看話禅とか黙照禅、阿字観など、主にされているものはありますか。


    こんにちは。レスありがとうございます。

    ただ坐っているだけですから、只管打坐ですかね。「私は誰?」というただ一つの問いは、数百以上あるという公案をすべて解くことに匹敵するだろうと考えているので、それが公案に当たるといえばいえます。



    > ラマナ・マハルシはいつか読んでみようと思ってました。
    > やはり「ラマナ・マハルシの教え 私は誰か?」がお薦めですか?

    その本のタイトルでamazonを検索しましたが、面白そうでした。それは未読です。

    トークスという対話集が日本語に全訳されているので、最終的にはそれを拠り所にするのがいいと思いますが、良書は他にも何冊かあります。レヴューなどを参考に興味を惹かれたものであれば何でもいいと思います。

    英語のものなら無料でダウンロードできるはずです。
引用返信/返信 削除キー/
■2711 / inTopicNo.3)  ラマナ・マハルシ
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/19(Sun) 08:56:39)
    おはようございます。


    No2708に返信(knowing itselfさんの記事)

    > 寺や自宅で坐禅をすることはよくありますが、ゴウさんという方のような生涯をかけた仏道修行者ではまったくありません。特定の師匠や流派に拠って立つことはしていません。

    なるほど、やはり坐っておられるんですね。
    看話禅とか黙照禅、阿字観など、主にされているものはありますか。

    > <私>を重要な主題とするに至ったのは、20世紀のインドの聖賢、ラマナマハルシの影響が最も大きいと思っています。「私は誰?」という問いへの解答ができれば、それが究極のゴール、それですべては終わりといっています。現代アドバイタシーンにおける最重要人物といっても過言ではないでしょう。

    ラマナ・マハルシはいつか読んでみようと思ってました。
    やはり「ラマナ・マハルシの教え 私は誰か?」がお薦めですか?

引用返信/返信 削除キー/
■2708 / inTopicNo.4)  Re[54]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/18(Sat) 13:33:11)
    No2704に返信(パニチェさんの記事)

    こんにちは。レスありがとうございます。

    > パニチェはknowing itselfさんの言われる涅槃(<私>が本来のリアル性を100パーセント体験するのが涅槃)が異端ではないような気がします。
    > 何故かと言えば。。。少し話がそれますが、Yahoo!掲示板やtextreamでレス交換が始まり、ここニーチェクラブも含めれば数年にわたって〈私〉と無我に関して議論した方がいます。

    > ゴウさんは自らの見性体験も参考に〈私〉は真我=涅槃であると述べられており、knowing itselfさんの主張と近いものがあります。
    > 参考までに次の投稿でゴウさんのレスを旧BBSの保管庫から引用しておきます。
    > 気が向かれましたら目を通していただき、感想などいただければ有難いです。

    ご紹介ありがとうござい。読ませていただきました。枝葉の部分が同じかはわかりませんが、本体の幹が向かう方向はほぼ同じだと思いました。


    > knowing itselfさんは〈私〉を意識するようになったのはいつ頃からですか?もし何かのきっかけがあったら差し支えなければ教えて下さい。
    > またこれもスルーでも結構ですが、knowing itselfさんは禅定とか、あるいは何らかの仏修行をされておられますか?

    寺や自宅で坐禅をすることはよくありますが、ゴウさんという方のような生涯をかけた仏道修行者ではまったくありません。特定の師匠や流派に拠って立つことはしていません。

    <私>を重要な主題とするに至ったのは、20世紀のインドの聖賢、ラマナマハルシの影響が最も大きいと思っています。「私は誰?」という問いへの解答ができれば、それが究極のゴール、それですべては終わりといっています。現代アドバイタシーンにおける最重要人物といっても過言ではないでしょう。

引用返信/返信 削除キー/
■2705 / inTopicNo.5)  ゴウさんとの会話1
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/17(Fri) 17:59:54)
    以下の > はPanietzsche
    >> &引用符なしはゴウさん


    ******************************************************

    gouichi10201020さん 2008/ 7/18 14:54
     
    > 無記は常見にも断見にも偏らない中道を示すための教説でもあるわけですね。

    はい。。。バニさんの知識からすれば、もうここら辺は互いに了解済みと言うことで進めてもよさそうですね、失礼しました。ということで、基本的なところはどちらかが引っかかった時に確認し合うということで、先に行きます。

    > 我の苦は対象を認識し、そこに意味や価値を創出する主体であるところの「我在り」との相関によって生じるわけですから、「我が無ければ苦も無い」ということになり、そういう意味で「我」とは「我の苦」を生じせしめる共通の一因であると思います。

    まさにその通りで、釈尊はまずこれを打ち破ることをお考えになって「無我」を説いた、ということです。換言すれば、苦悩する一切の衆生を度せんが為に、当時、世俗に蔓延る教えに対して、「無我」を説かれた、と考えられます。
    煩悩(三毒)に覆われてた衆生は、仏性(比類なき先言の〈私〉)があることを知らない、そして、煩悩によって生み出された「我」を実在と考えそれに執着する。また、それが間違っていると知識でわかっても、智慧として「真の無我」を知らない。
    何故ならば、自らの三毒によって、自ら苦を生み出しているからである。そこで、煩悩を尽くせば仏性を証知することができる。すなわち、「無我」を知ってこそ、「有我」を知ることができ、まず、無我の行を修することを教える。。。
    この考え方はどうでしょうか?


    gouichi10201020さん 2008/ 7/30 10:17 

    先レスの「筏の譬え」で考えると次のようになります。
    1,釈尊が「絶対的な主体など何処にも存在しない」と説かれたもの・・・・・・・無我の「我」
    2,釈尊が修行に何の益もないと捨て置いた「輪廻する主体」であれば・・・・・・・無記の「我」
    3,釈尊が「自灯明法灯明」で説かれた「自」であれば・・・・・・仏性
    4,釈尊がブッダガヤにおいて到達した悟り・・・・・・有余涅槃
    5,釈尊がクシナガラにおいて到達した悟り・・・・・・無余涅槃


    ゴウさん 2010/11/22(Mon)
    では、「2,の無記の我」に進む前に、“無我の我”を少し整理しましょう。
    すでにパニさんは、仏教理論の「無我」に関して、知識として十分に理解されていることですし、細かいところは飛ばして先に進みます。何故ならば、この段階は体験が絶対的に必要ということではなく、頭の理解で十分だからです。
    逆にくだらない体験に引きずられると、この段階で停滞して足踏み状態に陥ります。そのような修行者が沢山います。ですからパニさんは、対話を通して、限界まで脳を使ってください。体験を求めないでください・・・
    掲示板の対話でここから先に進むのは、私(ゴウ)にとっても初めての試みですから、解りづらい点が多々あるでしょうが、そのときは立ち止まって確認しながらゆっくり進めましましょう。


    ゴウさん 2010/11/23(Tue)

    >はい、有無の対立を止揚した中道ですね。
    >色不異空 空不異色 色即是空 空即是色
    >中観即空観ということでよろしいでしょうか。

    はい、その理解で結構です。

    >空観・仮観・中観に分類するのは私には言葉遊びのように思えるのです。

    まあ、そういうことです。
    「1,無我」で大切なことは、『思考すなわち言語化によって立ち上がる「私」は、無い』と、ここに徹底するだけです。それを外側の世界にに適用する必要がないんです。
    すなわち、現象(色)には実体がない(空)。実体がない(空)から現象(色)である・・・、このように「世界を“観”よう」としてしまうと、いつまでたっても「私」が立ちっぱなしです。何故ならば、私が世界を外に観ているからです。
    ただ、「無我」に突っ込んでいけば、ある瞬間にそう成ります。
    そうなった時の“内容”を言語表現したものが経であり、論です。ですから、そのような教えや理論が存在しなくても、全く問題ないともいえます。
    しかし、修行途中の人間が、どの段階にいるかを確認する、道を外れていないかを確認するためには、重要ともいえます・・・それが、指針であり筏である、ということです。
    この観(私から観た世界)に拘ると、

    >>最も基本的な仏教理論ですが、以外と見落としがちなのが、この「想(想念)」のところで、「識」を変えるのではなく、この「想」をどうにかしようしてしまうことです。(12366・ゴウ)

    ここに陥る可能性が高くなります。。。

    ・・・・・・・・・・・・・・

    >ここ、もう少し詳しくお願いします。

    はい、私(ゴウ)の例を挙げれば、空手をはじめて37年になるのですが、基本の三戦立ち正拳中段突をひたすら突いて、それが身についたら上段突、というように、時間をかけて「肉体的私」にたたき込むわけです。
    この「肉体的私」の“時間”をかけた修行とその成果に対する信念によって、私(ゴウ)もだいぶ遠回りをしました。これは、間違いではないのですが・・・
    このことは、武道だけではなく、学問、スポーツにしても同じです。この体験を「精神的私」にも適用するわけです。
    すると、悟りに至るためには、長期に渡る血の滲むような修行が必要であるとなり、そこから「肉体的私」に戻して、悟るための肉体的修行なくして悟りなし・・・苦行・修行階梯
    また、“今生(現世)”に於いて悟ることは並大抵ではない。釈尊も無数の過去世による善行によって兜卒天に昇り、衆生救済のため降誕された、となるわけです・・・輪廻
    これは、輪廻の否定ではなく、輪廻に対する誤解です。

    >精神にまで「時間」を持ち込ことが、修行階梯であり輪廻になるとのことですが、これは四沙門果とか十地と呼ばれる階梯や六道のことでしょうか。

    このことに関しては、先で触れます。とくに、十地は避けて通れないでしょう。


    ゴウさん 2010/12/02(Thu)

    >なるほど。言葉的には無我で見るとか、無我で思うとか、無我で語るというと、見たり、思ったり、語ったりする主体であるところの我が無いのに、どうやって見たり、思ったり、語ったりするのかという疑問が生じますが、我(が)が出しゃばることなく、見たり、思ったり、語ることが、「正しい」ということになるのでしょうか。

    その通りです。無我の「無」は、有無の無ではないからです。
    これが、新たな主体性なのですが、平たく言えば私心(私利私欲)無く、ということです。ただしこの段階は「私」に変わる新たな主体性、『私』があり、その『私』は油断すると、また「私」に引き戻されます。
    *この『私』が輪廻の主体であり、今後はこの表記で進めます。

引用返信/返信 削除キー/
■2704 / inTopicNo.6)  Re[53]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/17(Fri) 17:55:18)
    こんばんは、レスありがとうございます。

    No2703に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>knowing itselfさんとパニチェはきっと涅槃の方の捉え方が違うのだと思います。

    > そうなのだと思います。パニチェさんの捉え方が多数派であって、おそらくknowing itselfのは少数というより、ほとんどみかけない異端かもしれない。もちろん反論したり自論の正当性にこだわるつもりは全くありません。
    > knowing itselfの思うところでは、涅槃ともいえる<私>とはリアルさそのものですが、その<私>が重ね着を通してリアルさを経験していることになります。重ね着を纏っているので、その分、リアルさも減じている。<私>が本来のリアル性を100パーセント体験するのが涅槃ですね。

    パニチェはknowing itselfさんの言われる涅槃(<私>が本来のリアル性を100パーセント体験するのが涅槃)が異端ではないような気がします。
    何故かと言えば。。。少し話がそれますが、Yahoo!掲示板やtextreamでレス交換が始まり、ここニーチェクラブも含めれば数年にわたって〈私〉と無我に関して議論した方がいます。
    その人はYahoo!のHNでは“gouichi10201020”さん、ニーチェクラブでは“ゴウ”さんと名乗られていました。
    密教の求道者(修行者)で、残念ながら修行中のトラブルで今は遷延性意識障害となっているそうです。

    ゴウさんは自らの見性体験も参考に〈私〉は真我=涅槃であると述べられており、knowing itselfさんの主張と近いものがあります。
    参考までに次の投稿でゴウさんのレスを旧BBSの保管庫から引用しておきます。
    気が向かれましたら目を通していただき、感想などいただければ有難いです。

    >>以下はパニチェが思うところの涅槃のイメージです。
    >>苦を滅するためには無我を体得する必要がある。
    >>自己の本質が無実体(無自性=空)であることを体得すれば、私が滅するとともに「私の苦」も滅し涅槃に至る。
    >>風呂に入って身体の汚れを流すように、禅定によって自己に纏わりついた日常の汚れを落とす修行を繰り返す。
    >>あと、底が抜けた後は悟りを忘れる(悟りにも執着しない)ために坐るらしいです。これが大変みたいで、やっぱ禅宗は十牛図みたいな修行が続くんでしょうね。
    >>そんな感じですが、そうなると無我と〈私〉がどうも折り合いが悪い。^^

    > 折り合いをつけることは個人における思想的な課題なので、どちらもありだと思います。
    > knowing itselfは、無我や無私は大乗仏教において、教義でも修行の境涯や人格的指標として核心をなすと思いますが、無我や無私でありながらも<私>があることに不自然さをあまり感じないですね。<私>の理解が違うと言われればそれまでですが。

    〈私〉に関してはさほど差異は感じません。
    knowing itselfさんは〈私〉を意識するようになったのはいつ頃からですか?もし何かのきっかけがあったら差し支えなければ教えて下さい。
    またこれもスルーでも結構ですが、knowing itselfさんは禅定とか、あるいは何らかの仏修行をされておられますか?


引用返信/返信 削除キー/
■2703 / inTopicNo.7)  Re[52]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/17(Fri) 15:26:57)
    No2699に返信(パニチェさんの記事)

    こんにちは。返信ありがとうございます。

    > >>純然たる意識と〈私〉はknowing itselfさんにとって同義ですか?
    >>同義ですね。
    >
    > knowing itselfさんとパニチェはきっと涅槃の方の捉え方が違うのだと思います。

    そうなのだと思います。パニチェさんの捉え方が多数派であって、おそらくknowing itselfのは少数というより、ほとんどみかけない異端かもしれない。もちろん反論したり自論の正当性にこだわるつもりは全くありません。
    knowing itselfの思うところでは、涅槃ともいえる<私>とはリアルさそのものですが、その<私>が重ね着を通してリアルさを経験していることになります。重ね着を纏っているので、その分、リアルさも減じている。<私>が本来のリアル性を100パーセント体験するのが涅槃ですね。

    > 以下はパニチェが思うところの涅槃のイメージです。
    >
    > 苦を滅するためには無我を体得する必要がある。
    > 自己の本質が無実体(無自性=空)であることを体得すれば、私が滅するとともに「私の苦」も滅し涅槃に至る。

    > 風呂に入って身体の汚れを流すように、禅定によって自己に纏わりついた日常の汚れを落とす修行を繰り返す。
    > あと、底が抜けた後は悟りを忘れる(悟りにも執着しない)ために坐るらしいです。これが大変みたいで、やっぱ禅宗は十牛図みたいな修行が続くんでしょうね。
    >
    > そんな感じですが、そうなると無我と〈私〉がどうも折り合いが悪い。^^

    折り合いをつけることは個人における思想的な課題なので、どちらもありだと思います。

    knowing itselfは、無我や無私は大乗仏教において、教義でも修行の境涯や人格的指標として核心をなすと思いますが、無我や無私でありながらも<私>があることに不自然さをあまり感じないですね。<私>の理解が違うと言われればそれまでですが。
引用返信/返信 削除キー/
■2699 / inTopicNo.8)  Re[51]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/16(Thu) 18:19:01)
    No2698に返信(knowing itselfさんの記事)

    >>純然たる意識と〈私〉はknowing itselfさんにとって同義ですか?
    > 同義ですね。

    なるほど。

    >>純然たる意識が〈私〉性を伴わないものなら、理屈として純然なる意識は涅槃と同じというのは理解できます。私性が無くなれば(無自性であれば)、「私の苦は滅する」わけですから、涅槃に至るという意味です。

    > knowing itselfの考えるところでは、苦をリアルに経験するのが<私>であるのと同様に、苦の滅するのをリアルに経験するのも<私>です。苦が根こそぎ100パーセント滅する涅槃も<私>でしょう。苦の消滅にリアル感がなければ、遠いところにある抽象的な理想に止まるのであって、政治家が唱えるスローガンのようなものになるかもしれない。
    > <私>のもつ唯一のリアル感の中味が苦の完全解放だけになった時が、涅槃だと理解しています。もともと<私>は無色透明で余計な付加物がないので、余計な付加物を捨てればいいというだけなのかもしれませんが、それは至難です。しかし<私>のリアル感はどんな苦の状況でも体験しています。それが希望だと思います。

    なるほど、よく分かりました。
    knowing itselfさんとパニチェはきっと涅槃の方の捉え方が違うのだと思います。

    knowing itselfさんは〈私〉の〈私〉性を残したままで涅槃は実現する、そうでなければ涅槃にリアル性がない、何故なら「苦が滅するのをリアルに経験するのも〈私〉」でなければスローガンのようなものになってしまうということですね。

    これに対して反論する気は全くありません。
    以下はパニチェが思うところの涅槃のイメージです。

    苦を滅するためには無我を体得する必要がある。
    自己の本質が無実体(無自性=空)であることを体得すれば、私が滅するとともに「私の苦」も滅し涅槃に至る。
    無我の体得は禅定による見性体験で確信するってなことではないかと、これまでの耳学問も含め想像しています。

    ただ、日常的には釈尊もそうであったように(目連や舎利弗が先立った時には嘆いた)喜びや悲しみの感情は生じる。
    ただ凡夫にように後を引かないために苦として悩まされることはない。
    風呂に入って身体の汚れを流すように、禅定によって自己に纏わりついた日常の汚れを落とす修行を繰り返す。
    あと、底が抜けた後は悟りを忘れる(悟りにも執着しない)ために坐るらしいです。これが大変みたいで、やっぱ禅宗は十牛図みたいな修行が続くんでしょうね。

    そんな感じですが、そうなると無我と〈私〉がどうも折り合いが悪い。^^

引用返信/返信 削除キー/
■2698 / inTopicNo.9)  Re[50]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/16(Thu) 11:08:47)
    No2697に返信(パニチェさんの記事)
    こんにちは。

    > レスありがとうございます。充実したレス交換ができており感謝です。

    こちらこそ感謝です。

    >>違和感を覚えられても当然だと思います。純然たる「意識」を涅槃と同じと捉えるのは、おそらくknowing itself 以外に採用している人間は超少数だと思われるからです。
    >>もっとadvaitaには似たところがありますが。
    >
    > 純然たる意識と〈私〉はknowing itselfさんにとって同義ですか?

    同義ですね。

    > 純然たる意識が〈私〉性を伴わないものなら、理屈として純然なる意識は涅槃と同じというのは理解できます。私性が無くなれば(無自性であれば)、「私の苦は滅する」わけですから、涅槃に至るという意味です。

    knowing itselfの考えるところでは、苦をリアルに経験するのが<私>であるのと同様に、苦の滅するのをリアルに経験するのも<私>です。苦が根こそぎ100パーセント滅する涅槃も<私>でしょう。苦の消滅にリアル感がなければ、遠いところにある抽象的な理想に止まるのであって、政治家が唱えるスローガンのようなものになるかもしれない。

    <私>のもつ唯一のリアル感の中味が苦の完全解放だけになった時が、涅槃だと理解しています。もともと<私>は無色透明で余計な付加物がないので、余計な付加物を捨てればいいというだけなのかもしれませんが、それは至難です。しかし<私>のリアル感はどんな苦の状況でも体験しています。それが希望だと思います。

    > ただ先にも述べた通り「〈私〉そのものにも言語化不能な〈私〉性があるから〈私〉なんだと考えている」ことから、

    ここは同意です。

    >パニチェにとっては〈私〉イコール純然たる意識や涅槃にはならないんです。
    >
    > ここのところをknowing itselfさんがどう折り合いをつけておられるのか、または折り合いがついていないのかをお聞きしたいと思っています。

    ここは、一つ前の段落で述べたような理由によって、折り合いをつけているつもりです。
引用返信/返信 削除キー/
■2697 / inTopicNo.10)  Re[49]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/15(Wed) 16:59:57)
    レスありがとうございます。充実したレス交換ができており感謝です。

    No2694に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>ただ「重ね着においてだけ、他でもないこの重ね着の中でだけ<私>を経験できている」ということは、〈私〉そのものには〈私〉を経験できる要素がないということでしょうか?

    > <私>を経験しているのは、重ね着ではなく、重ね着ごしの<私>そのものだと考えています。重ね着を通して<私>が経験している。
    > 他方で、重ね着そのものと<私>は非イコールでしょう。重ね着という喩えを言い換えると、個体としてのknowing itselfの身体的な個性・特徴、人間的な交際関係全体、社会的な経歴、所有する物や能力、担う遺伝子情報、記憶内容などなどですね。

    同意します。

    >>パニチェは〈私〉そのものにも〈私〉性があるから〈私〉なんだと考えています。
    >>但し、その〈私〉性は言語化できない。

    > <私>の捉え方においてパニチェさんとの間で微妙な差異があるかもしれませんが、基本的には同意します。

    言葉では確認しようがないのですがknowing itselfさんが述べてる〈私〉とパニチェが述べている〈私〉は同じか(厳密には原理的に同じになりえないのですが)、同じような対象について話しているような気はします。
    違いがあるとすれば、〈私〉に〈私〉性を認めるか、認めないかではないでしょうか。


    No2695に返信(knowing itselfさんの記事)
    >>ここちょっと分かりません。
    >>涅槃(苦や煩悩が滅した境地)がきれいごとでリアルから一番遠いもので、通常で言われる意識(自意識も含めた)が最もリアルに感じられるものということなら分かりますが、knowing itselfさんはその逆だと言われてのでしょうか?

    > 意識もリアルだけど、涅槃もリアルということですね。ただそのリアルを完全に引き出すのは至難だと。

    いえ、少し違います。パニチェの返信は。。。
    涅槃はきれいごとで、リアルからは一番遠くに感じられる。
    意識は(自我意識を意識すれば)リアルに感じられる。
    ところが、〈私〉のリアルさを完全に引き出すのは至難だという返信です。

    > 違和感を覚えられても当然だと思います。純然たる「意識」を涅槃と同じと捉えるのは、おそらくknowing itself 以外に採用している人間は超少数だと思われるからです。
    > もっとadvaitaには似たところがありますが。

    純然たる意識と〈私〉はknowing itselfさんにとって同義ですか?

    純然たる意識が〈私〉性を伴わないものなら、理屈として純然なる意識は涅槃と同じというのは理解できます。私性が無くなれば(無自性であれば)、「私の苦は滅する」わけですから、涅槃に至るという意味です。

    ただ先にも述べた通り「〈私〉そのものにも言語化不能な〈私〉性があるから〈私〉なんだと考えている」ことから、パニチェにとっては〈私〉イコール純然たる意識や涅槃にはならないんです。

    ここのところをknowing itselfさんがどう折り合いをつけておられるのか、または折り合いがついていないのかをお聞きしたいと思っています。

引用返信/返信 削除キー/
■2695 / inTopicNo.11)  Re[48]: 涅槃のリアリティ
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/15(Wed) 15:46:26)
    No2691に返信(パニチェさんの記事)

    >>「意識」と涅槃についても、これはまさに前者の抽象的なきれいごとで、リアル感から一番遠いものとされているでしょう。
    >
    > ここちょっと分かりません。
    > 涅槃(苦や煩悩が滅した境地)がきれいごとでリアルから一番遠いもので、通常で言われる意識(自意識も含めた)が最もリアルに感じられるものということなら分かりますが、knowing itselfさんはその逆だと言われてのでしょうか?

    意識もリアルだけど、涅槃もリアルということですね。ただそのリアルを完全に引き出すのは至難だと。

    違和感を覚えられても当然だと思います。純然たる「意識」を涅槃と同じと捉えるのは、おそらくknowing itself 以外に採用している人間は超少数だと思われるからです。もっとadvaita
    には似たところがありますが。


    >>knowing itself はその逆だと理解しています。「意識」こそが最もリアルなもの、多くの人はそのリアル性を経験し切れていない、リアル性を部分的に引き出しているだけ、リアル性から逃避している、といったところでしょうか。そのリアルを体験するのが極めて困難なのだと思います。
    >
    > 上記は「意識」ではなく〈私〉に関して言えば同意します。
    >
    > 〈私〉こそが最もリアルなもの、多くの人はそのリアル性を経験し切れていない、リアル性を部分的に引き出しているだけ、リアル性から逃避している、といったところでしょうか。そのリアルを体験するのが極めて困難なのだと思います、ということであればパニチェと同じです。

    「意識」と<私>は同じ一枚のコインの裏表だと考えています。現実世界の外からは「意識」、現実世界の中で重ね着を纏って経験しているときは<私>、knowing itself の独自の用法かもしれませんが、そうなりますね。
引用返信/返信 削除キー/
■2694 / inTopicNo.12)  Re[47]: 〈私〉と無我
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/15(Wed) 15:26:57)
    No2690に返信(パニチェさんの記事)

    こんにちは。レスありがとうございます。

    > なるほど。〈私〉の居場所が世界内ではなく、その外部であるということ、〈私〉と重ね着は同一でないことは同意できます。
    >
    > ただ「重ね着においてだけ、他でもないこの重ね着の中でだけ<私>を経験できている」ということは、〈私〉そのものには〈私〉を経験できる要素がないということでしょうか?

    <私>を経験しているのは、重ね着ではなく、重ね着ごしの<私>そのものだと考えています。重ね着を通して<私>が経験している。他方で、重ね着そのものと<私>は非イコールでしょう。重ね着という喩えを言い換えると、個体としてのknowing itselfの身体的な個性・特徴、人間的な交際関係全体、社会的な経歴、所有する物や能力、担う遺伝子情報、記憶内容などなどですね。


    > パニチェは〈私〉そのものにも〈私〉性があるから〈私〉なんだと考えています。
    > 但し、その〈私〉性は言語化できない。

    <私>の捉え方においてパニチェさんとの間で微妙な差異があるかもしれませんが、基本的には同意します。


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