| 『ここであらかじめ、一つの誤解を正しておきたい。それは、方法懐疑の結果デカルトが発見した「私」の存在を「近代的自我」なるものの発見に重ね合わせてしまう見解である。これはまったく間違っている。そのようなことを語る「哲学者」がいたとするなら、彼の「哲学」はいっさい信用できない、と言えるほどである。そして、もしかりにこの文脈で「近代」ということについて語ることに意味があるのであるとすれば、デカルト的な「私」は、明らかに近代を「超える」ものであるといわなければないない。なぜならば、近代的であるとは、いっさいの唯一性を否定し、すべて同等なるものの複数性において語ろうとする志向をもつことであるのに対して、ここでデカルト的であるとは、本質的に隣人(同等なるもの)をもちえない唯一なるものとしてのこの私の存在にどこまでも固執することを意味するからである。近代とは、ひとことで言えば、等質空間の捏造の時代であり、デカルト的であるということは、まさにその等質性こそを疑うことなのである。(永井均著「〈私〉の存在の比類なさ 1.他者 はじめに」より)』
ここで言う「近代性」とは科学の定義にも隣接する「自然の斉一性」や「普遍性」のことであり、これは数式や化学式という言語で統一的に記述しようとする試みや、その対象となる現象や事物等々も含まれる。また科学の定義である再現性や計測可能性も「近代性」に含まれるであろうし、他者とのコミュニケーション手段をその主たる機能とした言語表現自体が「すべて同等なるものの複数性において語ろうとする」ことになる。
「私」という語の対象とするもの(〈私〉)は決して他者と共有できない唯一なるものであるにもかかわらず、一人称として万人が自分のことについて指し示す言葉となっているところに、この問題の見えにくさがある。
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