| >>本来の「意識」が何重にも重ね着をして、個体としてのknowing itselfを通して制約・条件づけの中で意識を働かせている。他の誰でもないこいつとしてですね。これが<私>だと理解しています。何重もの重ね着は、縁に触れて生滅するもので実体としての我ではなく、我を設定することにはならないと考えます。 > > ここまでは同意です。言語表現可能な「私は〇〇だ」で表現できる「〇〇」は重ね着であり、生滅するものですね。 > >>無我ないし無と解することができるので、整合性はあるのではないでしょうか。 > > 〈私〉が全くの無色透明だとして、では何故「〈私〉は〈私〉として、他の誰でもなくあるのか」を考えた時、パニチェの中では〈私〉と無我の整合性というか折り合いがつきません。 > 他の誰でもない何かがあるから〈私〉であって、だから無我ではありえないのでないかと考えているのですが、knowing itselfさんはこの点についてどうお考えですか。
こんにちは。
knowing itselfgがまとう重ね着そのものには特別の個性的な意味があるのではないと考えています。それでも、なぜかこの重ね着においてだけ、他でもないこの重ね着の中でだけ<私>を経験できている。この点は微妙で悩ましいのですが、<私>の本来の居場所は、この現実世界の外部にあり、<私>と重ね着は同一化できないと捉えています。現実世界の中で<私>が我性や主体性を帯びているではないと。
>>真我については、涅槃としての「意識」それ自体を真我と呼んだとしても別に問題があるとは思いません。 > > なるほど。その場合の真我のイメージは全体性と溶け合いますか?
溶け合わないということはないと思います。
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