| pipitさん、パニチェさん、みなさん、おはようございます。
>>それゆえ、マールキヤプッタよ、君たちは、私によって解答されないことは、 >>解答されないと覚えておきなさい。 >>私によって解答されることは、解答されることと覚えておきなさい。 >>私によって解答されるのは、 >>これが苦である、ということ。 >>これが苦の原因である、ということ。 >>これが苦の滅である、ということ。 >>これが苦の滅へと至る道である、ということ。だよ。 >>なぜ、解答されると思う? >>マールキヤプッタよ、なぜならこれらは、意義を伴い、初梵行(梵行の基礎)となり、 >>厭離、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためになるからだよ。 > > > ↑ここの最後のところ、<私>の内部にある体験ではないかと考えています。
苦や苦の滅に関わることは、釈迦によって解答されるといわれています。
苦も苦の滅も<私>の端的な体験ですね。どこか他の誰かさんの体験ではありません。
語りうる語りえないという以前に、端的に体験してしまっていてごまかしようがないですね。
これに対して、抽象的な観念の正誤の問題は、いかようにでも語ることはできますが、その語ること語らないことは、<私>の体験の端的さと基本的に関係がないといえると思います。
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