| 以下の > はPanietzsche >> &引用符なしはゴウさん
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gouichi10201020さん 2008/ 7/18 14:54 > 無記は常見にも断見にも偏らない中道を示すための教説でもあるわけですね。
はい。。。バニさんの知識からすれば、もうここら辺は互いに了解済みと言うことで進めてもよさそうですね、失礼しました。ということで、基本的なところはどちらかが引っかかった時に確認し合うということで、先に行きます。
> 我の苦は対象を認識し、そこに意味や価値を創出する主体であるところの「我在り」との相関によって生じるわけですから、「我が無ければ苦も無い」ということになり、そういう意味で「我」とは「我の苦」を生じせしめる共通の一因であると思います。
まさにその通りで、釈尊はまずこれを打ち破ることをお考えになって「無我」を説いた、ということです。換言すれば、苦悩する一切の衆生を度せんが為に、当時、世俗に蔓延る教えに対して、「無我」を説かれた、と考えられます。 煩悩(三毒)に覆われてた衆生は、仏性(比類なき先言の〈私〉)があることを知らない、そして、煩悩によって生み出された「我」を実在と考えそれに執着する。また、それが間違っていると知識でわかっても、智慧として「真の無我」を知らない。 何故ならば、自らの三毒によって、自ら苦を生み出しているからである。そこで、煩悩を尽くせば仏性を証知することができる。すなわち、「無我」を知ってこそ、「有我」を知ることができ、まず、無我の行を修することを教える。。。 この考え方はどうでしょうか?
gouichi10201020さん 2008/ 7/30 10:17
先レスの「筏の譬え」で考えると次のようになります。 1,釈尊が「絶対的な主体など何処にも存在しない」と説かれたもの・・・・・・・無我の「我」 2,釈尊が修行に何の益もないと捨て置いた「輪廻する主体」であれば・・・・・・・無記の「我」 3,釈尊が「自灯明法灯明」で説かれた「自」であれば・・・・・・仏性 4,釈尊がブッダガヤにおいて到達した悟り・・・・・・有余涅槃 5,釈尊がクシナガラにおいて到達した悟り・・・・・・無余涅槃
ゴウさん 2010/11/22(Mon) では、「2,の無記の我」に進む前に、“無我の我”を少し整理しましょう。 すでにパニさんは、仏教理論の「無我」に関して、知識として十分に理解されていることですし、細かいところは飛ばして先に進みます。何故ならば、この段階は体験が絶対的に必要ということではなく、頭の理解で十分だからです。 逆にくだらない体験に引きずられると、この段階で停滞して足踏み状態に陥ります。そのような修行者が沢山います。ですからパニさんは、対話を通して、限界まで脳を使ってください。体験を求めないでください・・・ 掲示板の対話でここから先に進むのは、私(ゴウ)にとっても初めての試みですから、解りづらい点が多々あるでしょうが、そのときは立ち止まって確認しながらゆっくり進めましましょう。
ゴウさん 2010/11/23(Tue)
>はい、有無の対立を止揚した中道ですね。 >色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 >中観即空観ということでよろしいでしょうか。
はい、その理解で結構です。
>空観・仮観・中観に分類するのは私には言葉遊びのように思えるのです。
まあ、そういうことです。 「1,無我」で大切なことは、『思考すなわち言語化によって立ち上がる「私」は、無い』と、ここに徹底するだけです。それを外側の世界にに適用する必要がないんです。 すなわち、現象(色)には実体がない(空)。実体がない(空)から現象(色)である・・・、このように「世界を“観”よう」としてしまうと、いつまでたっても「私」が立ちっぱなしです。何故ならば、私が世界を外に観ているからです。 ただ、「無我」に突っ込んでいけば、ある瞬間にそう成ります。 そうなった時の“内容”を言語表現したものが経であり、論です。ですから、そのような教えや理論が存在しなくても、全く問題ないともいえます。 しかし、修行途中の人間が、どの段階にいるかを確認する、道を外れていないかを確認するためには、重要ともいえます・・・それが、指針であり筏である、ということです。 この観(私から観た世界)に拘ると、
>>最も基本的な仏教理論ですが、以外と見落としがちなのが、この「想(想念)」のところで、「識」を変えるのではなく、この「想」をどうにかしようしてしまうことです。(12366・ゴウ)
ここに陥る可能性が高くなります。。。
・・・・・・・・・・・・・・
>ここ、もう少し詳しくお願いします。
はい、私(ゴウ)の例を挙げれば、空手をはじめて37年になるのですが、基本の三戦立ち正拳中段突をひたすら突いて、それが身についたら上段突、というように、時間をかけて「肉体的私」にたたき込むわけです。 この「肉体的私」の“時間”をかけた修行とその成果に対する信念によって、私(ゴウ)もだいぶ遠回りをしました。これは、間違いではないのですが・・・ このことは、武道だけではなく、学問、スポーツにしても同じです。この体験を「精神的私」にも適用するわけです。 すると、悟りに至るためには、長期に渡る血の滲むような修行が必要であるとなり、そこから「肉体的私」に戻して、悟るための肉体的修行なくして悟りなし・・・苦行・修行階梯 また、“今生(現世)”に於いて悟ることは並大抵ではない。釈尊も無数の過去世による善行によって兜卒天に昇り、衆生救済のため降誕された、となるわけです・・・輪廻 これは、輪廻の否定ではなく、輪廻に対する誤解です。
>精神にまで「時間」を持ち込ことが、修行階梯であり輪廻になるとのことですが、これは四沙門果とか十地と呼ばれる階梯や六道のことでしょうか。
このことに関しては、先で触れます。とくに、十地は避けて通れないでしょう。
ゴウさん 2010/12/02(Thu)
>なるほど。言葉的には無我で見るとか、無我で思うとか、無我で語るというと、見たり、思ったり、語ったりする主体であるところの我が無いのに、どうやって見たり、思ったり、語ったりするのかという疑問が生じますが、我(が)が出しゃばることなく、見たり、思ったり、語ることが、「正しい」ということになるのでしょうか。
その通りです。無我の「無」は、有無の無ではないからです。 これが、新たな主体性なのですが、平たく言えば私心(私利私欲)無く、ということです。ただしこの段階は「私」に変わる新たな主体性、『私』があり、その『私』は油断すると、また「私」に引き戻されます。 *この『私』が輪廻の主体であり、今後はこの表記で進めます。
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