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■2634 / inTopicNo.37)  Re[32]: 無記
  
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/09(Thu) 14:05:01)
    No2626に返信(pipitさんの記事)
    > 釈尊
    > 「マールキヤプッタよ、◯◯という見解があるとき、修行が完成するというような
    > ことはありません。
    > ◯◯ではないという見解があるとき、修行が完成するというようなこともありません。
    > ◯◯あるいは◯◯でないという見解があるとき、〈生〉〈老〉〈死〉〈愁悲苦憂悩〉があるのだよ。
    > 私は、現法における、それらの破壊を説いてるのだよ。
    > それゆえ、マールキヤプッタよ、君たちは、私によって解答されないことは、
    > 解答されないと覚えておきなさい。
    > 私によって解答されることは、解答されることと覚えておきなさい。
    > 私によって解答されるのは、
    > これが苦である、ということ。
    > これが苦の原因である、ということ。
    > これが苦の滅である、ということ。
    > これが苦の滅へと至る道である、ということ。だよ。
    > なぜ、解答されると思う?
    > マールキヤプッタよ、なぜならこれらは、意義を伴い、初梵行(梵行の基礎)となり、
    > 厭離、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためになるからだよ。


    ↑ここの最後のところ、<私>の内部にある体験ではないかと考えています。


    > だからマールキヤプッタよ、
    > 私によって解答されないことは、解答されないことと覚えておきなさい。
    > 私によって解答されることは、解答されることと
引用返信/返信 削除キー/
■2633 / inTopicNo.38)  Re[32]: 無記と〈私〉 補足
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/09(Thu) 13:54:49)
    pipitさん、パニチェさん、返信ありがとうございます。

    ちょっと時間がないので、後ほど書き込みさせていただきます。
引用返信/返信 削除キー/
■2632 / inTopicNo.39)  Re[31]: 無記と〈私〉 補足
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/09(Thu) 10:55:23)
    knowing itselfさんのご指摘が〈私〉を確信していながら、無記を支持することは矛盾するとか、違和感があるという意味で「<私>と「無記」は両立しない」ということであれば、また改めて返信させていただきます。

    私ことパニチェ(以降は私と〈私〉が紛らわしいので、通常用いる一人称としての私のことはパニチェと表記します)は無記と〈私〉の存在に矛盾はありません。
引用返信/返信 削除キー/
■2630 / inTopicNo.40)  Re[30]: 無記と〈私〉
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/09(Thu) 10:27:34)
    はじめまして、knowing itselfさん。
    よろしくお願いします。

    No2623に返信(knowing itselfさんの記事)
    > <私>というのは、これだけは端的で確実だ、他のことは何ひとつ確かなものはないとしてもこれだけは確か、世界に無数の人間がいてもなぜかこの私だけがその端的さを生きている。要するにそういうことですね?

    言葉では厳密に確認することはできないのですが、多分そうです。

    > 「無記」は、死後の存在のような確かでないことは語らない、という意味ですね?

    そうです、死後も含め形而上学的な問いは、生に伴う苦の滅却という目的に叶うものではないので説かないし答えないってことです。

    > そうであれば、<私>と「無記」は両立しないことになるはずです。これ以上確かなものはないのが<私>であるならば、「無記」として放り出すことにはならない。

    会話の流れをつかんでいただければ理解いただけると思うのですが、私とピピットさんのレス交換は「<私>と「無記」が両立する」という前提での話ではありません。

    私ことパニチェに関しては〈私〉と無我の折り合いもついてないが、ある覚者との議論で、その対話者が「〈私〉は無色透明であり、イコール真我である」と述べられていたこともあり、その可能性は否定できなし、パニチェが無上正等覚を体得していないだけかもしれないと考えていること、また〈私〉は決して物理的なもの(機能や作用など、創発的なもの)に還元されないため、二元論とならざるを得ないこと、などなどから死後も〈私〉が存在するかどうかの議論となり、死後については十四無記を支持しているので語らないというような話の流れで、〈私〉と無記について話していたというところです。

    No2624に返信(knowing itselfさんの記事)
    > 輪廻転生についていえば、もし釈迦の教えを真理として受け入れるなら、認めるのが一択だと考えています。
    > 釈迦の境地に今生で到達することは、ほとんどの人間にとって不可能に近く、その現実認識の下で、さらに人生
    は一回切りで死んだら完全消滅という立場なら、釈迦の教えに依拠してもまったく無意味ではないでしょうか。
    > 釈迦の到達した段階が儚い妄想・空想ではないと受け入れ、他方で自分の煩悩だらけの現状も認めるなら、その先行段階や到達までの途中経過の輪廻転生があると考えるのが自然ですね。

    釈迦の境地がどんなものであったかは私には想像もできませんが、禅定によって至る悟り(「底が抜ける」とか「目が開く」と言うそうですが)によって生に伴う苦の滅却というのは(理屈的にも)可能だと思います。

    輪廻転生は暗黒面もあり、私は認めてないというか無記を支持しています。
    例えば前世の業によって生れが決まるという業感縁起(因果)的な発想はオウムのポア(悪業を重ね続けて生きている人の生は断ち切る方が善行であるという危険なドグマ)にも結び付きますし、先天的なハンディを前世の結果であるかのような発想にもなり、挙句の果てに今生は来世のためであるかのような背後世界を重んじるような思想にもなりないことから好みではありません。
    そういう意味で私は無記を支持しています。

引用返信/返信 削除キー/
■2629 / inTopicNo.41)  引用 
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/09(Thu) 09:51:24)
    以下のサイトより引用
    根本五十経篇 2. 中分五十経篇 2. 比丘品 63.摩羅迦小経

    ttp://husigi.com/Hrensou/wikioutput2.php?keyword=%E4%B8%AD%E9%83%A8_%28%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AA%29#


    無記(むき、, アヴィヤーカタ、, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度が採られた。

    その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。

    また、仏教では、倫理的価値を (1) 善、(2) 悪、(3) 無記の3つに分けるが、このうち「無記」は、「善とも悪とも記別することができないもの」をいう<ref>横山紘一 『唯識思想入門』 第三文明社、レグルス文庫、114頁。</ref>。

    十無記
    パーリ語経典中部63経『小マールンキャ経』では、有名な「毒矢のたとえ」と共に、「十無記」について記述されている<ref name=""></ref>

    釈迦が舎衛城の祇園精舎に滞在している際に、マールキヤプッタ尊者の中に、
    1.世界は永遠であるのか
    2.世界は永遠でないのか
    3.世界は有限であるのか
    4.世界は無限であるのか
    5.生命と身体は同一か
    6.生命と身体は別個か
    7.修行完成者(如来)は死後存在するのか
    8.修行完成者(如来)は死後存在しないのか
    9.修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
    10.修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
    といった10の疑問が生じた(上記の通り、対になる選択肢を統一すれば、実際は4つの疑問である)。

    マールキヤプッタ尊者は、これらの疑問に釈迦が答えてくれるなら修行を続けるが、答えてくれなければ修行を放棄しようと考えつつ、釈迦にこれらについて問う。

    それに対して釈迦は、「私の下で修行すればそれらについて説くと私は話したか、またマールキヤプッタはそのような期待でこの修行を始めたのか」と問い返す。マールキヤプッタ尊者はどちらも違うと否定する。

    釈迦は「もし私にそうした疑問について説いてもらえない限り、私の下で修行しないと言う人がいたとすれば、その人は私にそれについて説いてもらう前に、死期(寿命)を迎えてしまうことになるだろう」「例えば、毒矢に射抜かれた人がいて、その友人同僚・血縁者たちが内科医・外科医にその手当てをさせようとしているところで、その当人が
    『私を射た者が王族(クシャトリヤ)であるか、バラモンであるか、農商工業者(バイシャ)であるか、奴婢(シュードラ)であるかが、知られない内は、矢を抜くことはしない』
    ・『私を射た者の名や姓が知られない内は・・・』
    ・『私を射た者が長身か短身か中くらいかが知られない内は・・・』
    ・『私を射た者の肌は黒いか褐色か金色か知られない内は・・・』
    ・『私を射た者がどの村・町・市に住んでいるかが知られない内は・・・』
    ・『私を射た弓が普通の弓か、弩(いしゆみ)であるかが知られない内は・・・』
    ・『弓の弦はアッカ草で作ったものか、サンタ草で作ったものか、動物の筋繊維で作ったものか、マルヴァー麻で作ったものか、キーラバンニン樹で作ったものかが知られない内は・・・』
    ・『矢の羽がワシの羽か、アオサギの羽か、タカの羽か、クジャクの羽か、シティラハヌ鳥の羽か、知られない内は・・・』
    ・『矢幹に巻いてある筋繊維が牛のものであるか、水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるか知られない内は・・・』
    ・『矢尻は普通の矢か、クラッパ矢か、ヴェーカンダ矢か、ナーラーチャ矢か、ヴァッチャダンタ矢か、カラヴィーラパッタ矢であるかが知られない内は・・・』
    といったことを考えていたとしたら、その人はその答えを得る前に死んでしまうのと同じように」「それらの答えが与えられてはじめて、人は修行生活に留まるということはない」「それらがどうであろうと、生・老・死、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはあるし、現実にそれらを制圧する(すなわち、「毒矢の手当てをする」)ことを私は教えるのである」「故に、私は説かないことは説かないし、説くことは説く」「先の疑問の内容は、目的にかなわず、修行のための基礎にもならず、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立たないので、説かない」「逆に四聖諦は、目的にかない、修行のための基礎にもなり、厭離・離欲・滅尽・寂静・智通・正覚・涅槃に役立つので、説く」「この説かないものと、説くものとの違いを、了解せよ」と諭される。

    マールキヤプッタ尊者は歓喜し、釈迦の教説を信受した。
引用返信/返信 削除キー/
■2627 / inTopicNo.42)  Re最初にご確認してもよろしいでしょうか?
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/08(Wed) 20:54:58)
    2020/04/09(Thu) 11:28:52 編集(投稿者)

    こんばんは。

    No2625に返信(pipitさんの記事)

    > パニチェさんと、knowing itselfさんに、ご確認なのですが、
    > 無記についての根拠となっている『小マールキヤ経』を、
    > 現在、全文を読める環境にございますでしょうか?
    > 日本語の翻訳文持ってるよー、とか、こういう形でなら見れるよー、ということを
    > 教えていただいていいでしょうか?

    ごめんなさい、私は書籍も持っておらず、ネットではwikipediaの「経蔵 (パーリ)」しか知りません。

    あと、以下のサイととか。。
    ttp://husigi.com/Hrensou/wikioutput2.php?keyword=%E6%AF%92%E7%9F%A2%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%88#

    あれ?リンクされない。次の投稿で引用します。
    Googleで「経蔵 小マールキヤ経」で検索すれば(現時点では)上から10番目に「経蔵」というタイトルで出てきます。

    取り急ぎの返信でした。^^
引用返信/返信 削除キー/
■2626 / inTopicNo.43)  無記
□投稿者/ pipit -(2020/04/08(Wed) 18:03:14)
    小マールキヤ経の全文を読むと、

    マールキヤプッタ比丘
    (釈尊は諸問題について解答もされず拒絶もされていない、
    答えが知りたいよ〜、釈尊、答えてほしいし、もし、知らないなら知らないって
    正直にいうべきやと僕は思いますっ。もし答えてくれたら釈尊のもとで修行続けるし、
    答えてくれなかったら還俗しちゃいます!)
    という質問に対して、

    釈尊
    「私が君に、私の元で修行しなさい、◯◯の問題に答えよう、と言ったかね?
    あるいは、君が、釈尊の元で修行しますから、◯◯の問題に答えてください、
    と言ったかね?」

    マールキヤプッタ比丘
    (いいえ、お釈迦さま)

    で、ここで、有名な毒矢の喩えとかを説かれて、

    釈尊
    「マールキヤプッタよ、◯◯という見解があるとき、修行が完成するというような
    ことはありません。
    ◯◯ではないという見解があるとき、修行が完成するというようなこともありません。
    ◯◯あるいは◯◯でないという見解があるとき、〈生〉〈老〉〈死〉〈愁悲苦憂悩〉があるのだよ。
    私は、現法における、それらの破壊を説いてるのだよ。
    それゆえ、マールキヤプッタよ、君たちは、私によって解答されないことは、
    解答されないと覚えておきなさい。
    私によって解答されることは、解答されることと覚えておきなさい。
    私によって解答されるのは、
    これが苦である、ということ。
    これが苦の原因である、ということ。
    これが苦の滅である、ということ。
    これが苦の滅へと至る道である、ということ。だよ。
    なぜ、解答されると思う?
    マールキヤプッタよ、なぜならこれらは、意義を伴い、初梵行(梵行の基礎)となり、
    厭離、離貪、滅尽、寂静、神通、正覚、涅槃のためになるからだよ。
    だからマールキヤプッタよ、
    私によって解答されないことは、解答されないことと覚えておきなさい。
    私によって解答されることは、解答されることと覚えておきなさい。」

    心に適ったマールキヤプッタ比丘は喜びました (o^^o)

    みたいな感じの経文かな、と、私は思いました。
    読み違いしてたらすみません。


引用返信/返信 削除キー/
■2625 / inTopicNo.44)  最初にご確認してもよろしいでしょうか?
□投稿者/ pipit -(2020/04/08(Wed) 17:29:36)
    みなさま、こんにちは

    knowing itself さん、よろしくお願いします

    パニチェさんと、knowing itselfさんに、ご確認なのですが、
    無記についての根拠となっている『小マールキヤ経』を、
    現在、全文を読める環境にございますでしょうか?
    日本語の翻訳文持ってるよー、とか、こういう形でなら見れるよー、ということを
    教えていただいていいでしょうか?

    pipitは、全文の載った本は持っておらず、全文はネットでしか見れなくて、
    日本語訳は、光明寺経蔵というサイト(光明寺の住職さまに大感謝です!)
    でしか見れません。
    原文、英訳は、wikiの『小マールキヤ経』にあるリンクから見れます。

    光明寺経蔵のページのアドレスです。
    https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnmjp/mn07/mn07c05.files/sheet001.htm

    『小マールキヤ経』は、
    中部経典の中分五十経篇の比丘の章の4つ目におさめられている経文みたいです。
引用返信/返信 削除キー/
■2624 / inTopicNo.45)  Re[29]: 無記
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/08(Wed) 16:29:13)
    輪廻転生についていえば、もし釈迦の教えを真理として受け入れるなら、認めるのが一択だと考えています。

    釈迦の境地に今生で到達することは、ほとんどの人間にとって不可能に近く、その現実認識の下で、さらに人生は一回切りで死んだら完全消滅という立場なら、釈迦の教えに依拠してもまったく無意味ではないでしょうか。

    釈迦の到達した段階が儚い妄想・空想ではないと受け入れ、他方で自分の煩悩だらけの現状も認めるなら、その先行段階や到達までの途中経過の輪廻転生があると考えるのが自然ですね。
引用返信/返信 削除キー/
■2623 / inTopicNo.46)  Re[28]: 無記
□投稿者/ knowing itself -(2020/04/08(Wed) 15:34:54)
    みなさん、はじめまして。

    <私>と「無記」について、思うところがあるので書き込みをさせてください。

    <私>というのは、これだけは端的で確実だ、他のことは何ひとつ確かなものはないとしてもこれだけは確か、世界に無数の人間がいてもなぜかこの私だけがその端的さを生きている。要するにそういうことですね?

    「無記」は、死後の存在のような確かでないことは語らない、という意味ですね?

    そうであれば、<私>と「無記」は両立しないことになるはずです。これ以上確かなものはないのが<私>であるならば、「無記」として放り出すことにはならない。


引用返信/返信 削除キー/
■2611 / inTopicNo.47)  Re[27]: 無記
□投稿者/ パニチェ -(2020/04/07(Tue) 08:56:52)
    おはようございます、ピピットさん

    No2610に返信(pipitさんの記事)
    > ・・・『修行完成者(如来)は死後存在するのか』
    > というような記述になっています。

    >・・・ ↓ 森章司先生の十無記などについての論文
    > ttp://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

    ありがとうございます。とても参考になります。
    私も改めて私も調べてみました。

    論文P.3にも引用されている中村元選集第15巻「原始仏教の思想T」では以下のように記されていました。

    『「(1)我および世界は常住であるか、あるいは常住ならざるものであるか、(2)我および世界は有限であるか、あるいは無限であるか、(3)身体と霊魂はひとつであるか、あるいは別物であるか、(4)人格完成者は死後に生存するか、あるいは生存しないか」…中略…問題の数についてはその他の箇所でも以上の四つであるが、一つ一つの問題について四句分別を立てていうか否かによって、問いの数は、十、十四、十六などとなる。普通、後代の教義学では「十四無記」をいう』

    法蔵館「新版 仏教学辞典」では『(9)如来(ここでは衆生を意味する)は死後に有であるか、(10)無であるか、(11)有にして無であるか、(12)有でも無でもないか』と記されていました。

    我からはじまる文脈、また一切衆生悉有仏性の教説から仏性イコール如来と考えれば如来は衆生も含むし、ピピットさんが指摘されるようにテーラワーダ仏教の教学からすれば如来は覚者と捉えられますね。

    > とまあ、細かいことを書きましたけど、
    > 大事なのは、あるんかないんか自分でわからんことをずっと悩むより、滅苦の実現ですよね。
    > パニチェさんも、きっとそういうことをおっしゃってるのかなと私は思っています。

    そうです、そうです、その通り。ニーチェ好きってこともあり、あくまでも人間や生を中心とする実存哲学が好みです。

    > パニチェさんは、私の印象では、禅みたいなかんじです。
    > 禅のお坊さまでもあられる、片山一良先生のお経の紹介文を引用します。

    > 『第六三『小マールキヤ経』は『毒矢経』としても知られ、仏が、「世界は常住である」などの十種の「解答されないもの」(無記)に捉われたマールキヤプッタ比丘に、それが無益なことを毒矢の喩えによって説き、「四諦」こそ正覚、涅槃のためになる「解答されるもの」であることを示されたものである。
    > 仏教の学びが自己の苦に関して今ここで行われるべきことを教えている。』
    > 『ブッダのことばパーリ仏典入門』片山一良先生、p188より引用

    > いろいろな新しい考え方を、私に教えてくださって有難うございます。
    > これからもよろしくお願いします(^_^)

    こちらこそ、心地よい知的刺激になりますし、調べる機会も与えてもらい、ありがとうございました。
    これからもよろしくお願いします。

引用返信/返信 削除キー/
■2610 / inTopicNo.48)  無記
□投稿者/ pipit -(2020/04/06(Mon) 22:59:22)
    パニチェさん、こんばんは

    毒矢のたとえとして有名な、中部経典にある『小マールキヤ経』ですね。

    細かい情報なんですけど、
    原文では、
    【タターガタ、は、死語存在するか否か?】
    などと記されているみたいで、
    タターガタは、一般的には《如来》という意味で使われてる単語です。
    なので、wikiの十無記の説明には、

    『修行完成者(如来)は死後存在するのか』
    というような記述になっています。

    中部経典を伝えてきたテーラワーダさん的世界観の文脈では、
    《悟った人》の死語はどうなるの?とマールキヤ比丘が疑問に思った、と捉える方が一般的かな?と思いました。

    でも、如来(という単語が意味するところ)を全ての有情と捉えるような、大乗仏教につながるような流れで捉える方も出てきたのかもしれませんね。

    経典を解説した注釈書の中で、そのような見解を、有名な比丘の方が述べてるかも?
    論文をちらっと読んだだけなのですが、
    十無記(と私は覚えてるので。いろんな数え方があるようですね)についての論文のページをご紹介しておきますね。
    (私もきちんと読んでないんですけど・汗)

    もし、もっと、詳細に検討したいな、ということなら、私も一緒に検討したり、経典の原文が見れるページなどを知っていますので、おっしゃってくださいね。


    ↓ 森章司先生の十無記などについての論文

    ttp://www.sakya-muni.jp/pdf/bunsho12.pdf

    とまあ、細かいことを書きましたけど、
    大事なのは、あるんかないんか自分でわからんことをずっと悩むより、滅苦の実現ですよね。
    パニチェさんも、きっとそういうことをおっしゃってるのかなと私は思っています。

    パニチェさんは、私の印象では、禅みたいなかんじです。
    禅のお坊さまでもあられる、片山一良先生のお経の紹介文を引用します。

    『第六三『小マールキヤ経』は『毒矢経』としても知られ、仏が、「世界は常住である」などの十種の「解答されないもの」(無記)に捉われたマールキヤプッタ比丘に、それが無益なことを毒矢の喩えによって説き、「四諦」こそ正覚、涅槃のためになる「解答されるもの」であることを示されたものである。
    仏教の学びが自己の苦に関して今ここで行われるべきことを教えている。』
    『ブッダのことばパーリ仏典入門』片山一良先生、p188より引用

    いろいろな新しい考え方を、私に教えてくださって有難うございます。
    これからもよろしくお願いします(^_^)

    おつかれさまです !
    おやすみなさいです〜 ☆彡

引用返信/返信 削除キー/

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