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■21743 / inTopicNo.49)  みのりさん
  
□投稿者/ 田秋 -(2022/03/24(Thu) 09:46:15)
    おはようございます。

    最近ここへは来ていらっしゃらないのかなあ・・・
引用返信/返信 削除キー/
■20431 / inTopicNo.50)  ニーチェのキリスト評
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/16(Sun) 08:01:33)
    2022/01/16(Sun) 08:14:03 編集(投稿者)

    おはようございます、みのりさん。レスありがとうございます。

    No20422に返信(みのりさんの記事)

    > これはあくまで私の私見というか主観なのですが、『ツァラトゥストラ』においては、ツァラトゥストラに語らせる一種、物語的な著作ということもあり、ニーチェのイエスに対する批判的な部分は「まだ未熟な青年のままで死んでいった」程度にされていたけれど、ニーチェ自身の言葉として書かれた他の著作においては、辛辣な観方、表現もそのままされていて、後者の観方がニーチェのイエス観としての本来というか本音なのかな、と感じました。
    > 他の著作から引用していただいてとても勉強になりました。
    > どうもありがとうございました。

    どういたしまして。
    ニーチェのキリスト教批判というのはキリスト個人に対するものというよりも後に作られたキリスト教のドグマや教会に対するものです。
    以下のアフォリズムそのものです。

    『彼(パウロ)は、異教の世界の大きな欲求を理解しており、キリストの生と死の事実からまったく勝手気ままな選りごのみをして、すべてのものをあらためて強調しなおし、いたるところで重点をおきかえた・・・彼は原始キリスト教を無効にしてしまったのである・・・僧侶や神学者を暗殺するたくらみが、こうしたパウロのおかげで、一つの新しい僧侶階級や神学をうむことで終わった──ひとつの支配階級を、一つの教会をも。(力への意志 第167番)』

    『──教会こそ、イエスがそれに反対して説教し──またそれに対して戦うことをその使徒たちに教えたもの、まさにそのものである──(力への意志 第168番)』

    ちなみにニーチェのキリスト個人に対する評価は、みのりさんが指摘するように多少変化はしますが概ね肯定的です。
    参考までに以下はニーチェのキリストに関するアフォリズムです。
    Panietzsche Roomから引用はしておきますが気が向いたらどうぞ。^^

    Panietzsche Room > ニーチェT > 第二章アンチクリスト > 2.キリスト評(2)

    『イエスがその首謀者であると思われて来た暴動、あるいはそう誤解されて来たあの暴動が、ユダヤ教会に対する反乱でなかっとしたら、いったい何を目指して行われてきた反逆であったのか、私にはわけが分からない。(アンチクリスト 第27番)』

    『いささか大まかな言い方をすれば、イエスを一個の「自由精神」と呼ぶことができるかもしれない。──イエスは固定したものはすべて尊重しない。言葉は殺す。すべて固定したものは殺す。イエス一人が知っている「生」という概念、生という経験は、あらゆるたぐいの言葉、方式、律法、信仰、教義に反するものである。イエスは最も内面的なものについてしか語らない。「生命」、あるいは「真理」、あるいは「光」は、この内面的なものを表す彼の言葉である。──これ以外のもの、全現実、全自然、言葉そのものは、イエスにとっては単に記号としての価値、比喩としての価値しかない。──キリスト教的な偏見、つまり教会的な偏見にうかうかと乗せられそうな誘惑がいかに大でも、以上の点を掴み損なうことだけは絶対あってはならない。(アンチクリスト 第32番)』

    『この「福音の使者」は、彼が生きて来た通り、教えてきた通りに死んだ。──「人間を救済する」ためではなく、いかに生きるべきかを示すために死んだ。彼が人類に残していったものは、実行である。すなわち裁判官や捕吏や告発者、あらゆる種類の誹謗や嘲りを前にしたときの彼のとった態度──十字架上の彼の態度である。彼は手向かいしない。自分の権利を擁護しない。最悪の事態にならぬよう身を護る処置をぜんぜん講じない。そればかりではない、彼は最悪の事態を挑発している。…彼は自分に害を加える人びとと一緒になって、その人たちの中に立ち混じって、嘆願し、悩み、愛している。彼とともに十字架に掛けられた盗賊たちに、彼が述べた言葉は福音の全体を含んでいる。「誠に神の人なり、神の子なり」と盗賊たちが言えば、「汝を悟りたければ、汝は楽園にあるべし、神の子になるべし」と救世主(イエス)は答える。わが身を護ることもなく、怒りも見せず、責を問うこともしない。…悪人に手向かいせず──これを愛する…(アンチクリスト 第35番)』

    『──イエスは「罪過」という概念そのものを廃棄していたはずである。──イエスは神と人間の間のいかなる隔絶をも認めなかったはずである。彼は神と人間との一体感を。己の「福音」として生きた人であった。……しかも特権としてではなく!──この一刻を境にして少しずつ救世主の型のなかに混じり込んできたものがある。つまり、審判、および再臨の教え、犠牲死としての死という教え、復活の教え、これである。この復活の教えによって、「浄福」という全概念、すなわち福音の一にして全なる現実性をなすものが、どこかへ消えてなくなってしまった。──死後のある状態のためである!──パウロは、あらゆる点で彼の特徴となっているあのラビ的厚かましさをもって、この問題に関する見解を、この見解の無節操を、次のように論理化したのである。「キリストもし死者の中より甦らざりしならば我らの信仰も徒然(むなし)からん」──ここにおいて福音はたちどころに変貌し、あらゆる実現不可能な約束の中でも最も下劣な約束、個人の不死という恥しらずの教義となってしまった。……パウロ自信は、その上になお、不死を報酬として説いたのであった!……(アンチクリスト 第41番)』

    『彼──ヘブライ人イエスは、まだヘブライ人の涙と憂愁、ならびに善にして義なる者たちの憎しみしか知らなかった。そこで死への憧憬が彼を襲ったのだ。彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかっていたなら!おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを学んだであろう──さらには、笑うことも!わたしの言うことを信ぜよ、わたしたちの兄弟たちよ!彼はあまりに早く死んだのだ。もし彼がわたしの年齢まで生き延びていたなら、彼は自らの教えを撤回したことであろうに!彼はそういう撤回をなしうるほど高貴であったのだ!だが彼はまた成熟するところまではいかなかった。(ツァラトゥストラ 自由な死について)』

    『あらゆる民族の中でもっとも苦悩にみちた歴史を辿ってきた民族、世界で最も高貴な人間(キリスト)・もっとも純粋な賢者(スピノザ)・もっとも力強い本・もっとも影響の多い道徳律などを与えてくれた民族に対して、人はどれほど大目にみてやらなくてはならないものなのか、を私は知りたいものだ。(人間的、あまりに人間的 第475番)』

    > また、ぼちぼちと次に進みますね。

    はい。この返信へはお気遣いなく♪^^

引用返信/返信 削除キー/
■20422 / inTopicNo.51)  Re[48]: 19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ みのり -(2022/01/15(Sat) 06:47:48)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No20408に返信(パニチェさんの記事)

    > >>『キリストにおける感情の高貴さの深い欠如を、彼におけるユダヤ的なものを、つまり儲け仕事とそれを逸する愚鈍さに対する立腹とを、なんとしても絶対に見誤ることなかれ!ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!(生成の無垢 下巻 971番)』
    >
    >>引用ありがとうございます。 とても興味深いです。
    >
    > どういたしまして。
    >
    >>「ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!」
    >>という部分について。
    >
    >>これは、本当は感情の高貴さが欠如しているユダヤ的なイエスを、後のヨーロッパの人々が高貴な人物として置きいれた、つまり、そのようにイエスを仕立て上げたというような意味合いでいいのですか?
    >
    > はい、そういうことだと私も思います。

    そうなんですね。 ありがとうございます。

    > 引用しながら読解しにくいアフォリズムだなぁ〜とは思ってました。

    自由な死について28には、イエスを「高貴であったのだ」と表しているのに、その同じ28に対する訳注にある記述との矛盾はどういうことなのだろう?、という疑問もありました。

    これはあくまで私の私見というか主観なのですが、『ツァラトゥストラ』においては、ツァラトゥストラに語らせる一種、物語的な著作ということもあり、ニーチェのイエスに対する批判的な部分は「まだ未熟な青年のままで死んでいった」程度にされていたけれど、ニーチェ自身の言葉として書かれた他の著作においては、辛辣な観方、表現もそのままされていて、後者の観方がニーチェのイエス観としての本来というか本音なのかな、と感じました。

    他の著作から引用していただいてとても勉強になりました。
    どうもありがとうございました。

    また、ぼちぼちと次に進みますね。





引用返信/返信 削除キー/
■20408 / inTopicNo.52)  Re[47]: 19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/13(Thu) 19:59:23)
    こんばんは、みのりさん、レスありがとうございます。

    No20381に返信(みのりさんの記事)

    >>『キリストにおける感情の高貴さの深い欠如を、彼におけるユダヤ的なものを、つまり儲け仕事とそれを逸する愚鈍さに対する立腹とを、なんとしても絶対に見誤ることなかれ!ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!(生成の無垢 下巻 971番)』

    > 引用ありがとうございます。 とても興味深いです。

    どういたしまして。

    > 「ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!」
    > という部分について。

    > これは、本当は感情の高貴さが欠如しているユダヤ的なイエスを、後のヨーロッパの人々が高貴な人物として置きいれた、つまり、そのようにイエスを仕立て上げたというような意味合いでいいのですか?

    はい、そういうことだと私も思います。
    引用しながら読解しにくいアフォリズムだなぁ〜とは思ってました。
引用返信/返信 削除キー/
■20381 / inTopicNo.53)  Re[46]: 19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ みのり -(2022/01/13(Thu) 13:53:25)
    パニチェさん、レスありがとうございます。

    No20378に返信(パニチェさんの記事)

    > >>『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』
    >
    >>訳注p396の438にも、『生成の無垢』第二巻の971に、「キリストにおける感情の高貴さの深い欠如、彼のユダヤ人根性が指摘されている」とあります。
    >>このあたり、重なるものになるのかな、と思いました。
    >
    > 以下ですね。
    >
    > 『キリストにおける感情の高貴さの深い欠如を、彼におけるユダヤ的なものを、つまり儲け仕事とそれを逸する愚鈍さに対する立腹とを、なんとしても絶対に見誤ることなかれ!ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!(生成の無垢 下巻 971番)』


    引用ありがとうございます。 とても興味深いです。

    「ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!」
    という部分について。

    これは、本当は感情の高貴さが欠如しているユダヤ的なイエスを、後のヨーロッパの人々が高貴な人物として置きいれた、つまり、そのようにイエスを仕立て上げたというような意味合いでいいのですか?




引用返信/返信 削除キー/
■20378 / inTopicNo.54)  Re[45]: 19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/12(Wed) 22:39:31)
    こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。
    こちらこそ、今年もよろしくお願いします。

    No20371に返信(みのりさんの記事)

    > そうした意味合いが込められていたのですね。
    > 教えていただいてありがとうございます。

    どういたしまして。言うまでもないですが、あくまでもパニチェ的解釈です。

    > キリスト教の教義の根幹とも言える贖罪を否定するような表現がなされているのは(しかも牧師の息子であるニーチェによって)、当時としてはとても過激なことだったのだろうと思います。

    そうなんですよ。しかもキリスト教圏ですからね。

    > 実際のところ、イエス自身は、自らの死に際して贖罪のためという意識はあったのかな。
    > 教義上ではそのようなことになっているのだと思いますが、実際にはどうだったのだろう、というのは本人にしか知りようがないですよね。

    同感です。釈尊もそうですが、イエスも後付けで神格化されているところもあると思います。

    > 背後世界はもはやあくまで私にとってはですが、その存在はあってもなくてもどちらでもいいもの、むしろどちらかと言えばなくてもいいものになっているなぁ、と自分のところのこととして感じたりします。
    > せかせかと生きていつか死んでいく、そしてそれで終わり・・・、それで自分的には何の問題もないな、という感じです。
    > いやいや、そんなんじゃないでしょ、という方々ももちろんいらっしゃると思うけど、このあたりはあくまで考え方の相違ですよね。

    同意です。

    > ああ、そういえばあったな〜、と思い出しました。^^
    > もはや肯定すべき時となるような死を魂の蜜から得られんことを願う、かぁ。
    > そうですね、これはほんとに理想だと思います。
    > ただ、これも、世の中的な価値観で測られるようなものでもなく、自分なりの価値観で納得して満足できる死であれば、それはその人にとっての理想なのだと思います。

    確かに。


    No20372に返信(みのりさんの記事)

    > この部分、私は、単に世俗的な意味合いでの「裁く」「無罪の判決」という話だと思っていました。
    > 日常の上で、人が人を裁くようなことを否定する内容だと考えていたのです。
    > そういうことではなかったのですね。

    みのりさんが指摘されている世俗的な意味合いも含んでいるとは思います。

    > 信じない者は最後の審判によっての選択からも漏れてしまう、そうしたことが教義からは導き出されるのだけれど、それでも神の愛は正義と言えるのか?、という疑問が呈されているのですね。

    ツァラトゥストラもアンチクリストが土台になってましからね。

    >>『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』

    > 訳注p396の438にも、『生成の無垢』第二巻の971に、「キリストにおける感情の高貴さの深い欠如、彼のユダヤ人根性が指摘されている」とあります。
    > このあたり、重なるものになるのかな、と思いました。

    以下ですね。

    『キリストにおける感情の高貴さの深い欠如を、彼におけるユダヤ的なものを、つまり儲け仕事とそれを逸する愚鈍さに対する立腹とを、なんとしても絶対に見誤ることなかれ!ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!(生成の無垢 下巻 971番)』

    PS.返信はお気遣いなく。

引用返信/返信 削除キー/
■20373 / inTopicNo.55)  猿が魚を捕食
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:58:08)
    昨日、ニュース番組で観て驚いた。
    長野県上高地のニホンザルが、川で魚を取り食べているそう。
    画像としてとらえたのは世界初だそうです。

    動物性のものは、昆虫ぐらいの小さなものぐらいしか食べないと思っていたのだけど・・・。
    好奇心旺盛な個体が、冬場の食べ物の少なさに耐えかねて食べてみたら、わりとおいしかった!(^^)!、だったのかな。


    https://news.yahoo.co.jp/articles/0ca428725315dc282ef305b0430f6d648ac17845


    今日は今日で、飼われている家のお母さんの口癖を覚えてよくしゃべっているオウム(?)の仲間のことを観ておもしろかったなぁ。
    このオウム(正確にはオウムじゃない、インコでもないのだけど、名前を忘れた)、飼われている家のお父さんの声色まで真似て「ラーメン」と言ってて、その声が人間の男性の声(しかもなかなかのイケメン声)とよく似てるそう。
    声帯が人間と似てるんだろうかね。 そんなふうに聞いたことがあるような気もする。。← 新年早々、適当ですみません。(笑)
引用返信/返信 削除キー/
■20372 / inTopicNo.56)  Re[44]: 19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:38:03)
    No20360に返信(パニチェさんの記事)
    > この章で好きなところを引用してみます。
    >
    > 『きみたちに聞きたいが、こういう正義がどこに見いだされるだろうか、盲目的ならざる愛であるような正義が?
    > されば、ぜひともこういう愛を考察せよ、一切の刑罰を下すに耐えるのみならず、さらに一切の罪責を負うに耐えるような愛を!
    > されば、ぜひともこういう正義を考案せよ、裁く者を除いて万人に無罪の判決を下すような正義を!(ツァラトゥストラ 毒ヘビのかみ傷について11〜13)』
    >
    > ニーチェはここで最後の審判をドクマとする限りユダヤ・イスラム・キリスト教の信仰対象である神の愛は正義と言えるのか?という疑問を呈している。
    > 以下のアフォリズムも上記に同じ。

    この部分、私は、単に世俗的な意味合いでの「裁く」「無罪の判決」という話だと思っていました。
    日常の上で、人が人を裁くようなことを否定する内容だと考えていたのです。
    そういうことではなかったのですね。

    信じない者は最後の審判によっての選択からも漏れてしまう、そうしたことが教義からは導き出されるのだけれど、それでも神の愛は正義と言えるのか?、という疑問が呈されているのですね。


    > 『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』

    訳注p396の438にも、『生成の無垢』第二巻の971に、「キリストにおける感情の高貴さの深い欠如、彼のユダヤ人根性が指摘されている」とあります。
    このあたり、重なるものになるのかな、と思いました。

引用返信/返信 削除キー/
■20371 / inTopicNo.57)  Re[43]: Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:20:28)
    パニチェさん、レスありがとうございました。
    今年もどうぞよろしくお願いします。

    No20359に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、みのりさん。
    >
    > ■No20358に返信(みのりさんの記事)
    >>[21] 自由な死について
    >
    >>・・・・・
    >>30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
    >>  憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    >>・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用
    >
    >>ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    >>(訳注p396を参照しました。)
    >
    >>31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。
    >
    >>また、
    >>・・・・・
    >>27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
    >>  いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
    >>  学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    >>・・・・・同書p132より引用
    >
    >>という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。
    >
    > そうですね、あと27の前段25に『まことに、ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。そして、彼があまりに早く死んだことは、それ以来、多数の者たちにとって悲運となったのだ』とあります。
    > この「ゆるやかな死」も含めて、この章で語られている死生観は以下のアフォリズムが参考になると思います。
    >
    > 『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番)』
    >
    > ニーチェからすれば「ゆるやかな死」も不自然死であることに変わりないということでしょう。
    >
    >
    >>・・・・・
    >>32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
    >>  友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    >>・・・・・同書p133より引用
    >
    >>この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。
    >
    >>これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    >>つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?
    >
    >>パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    >>(急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)
    >
    > ユダヤ・イスラム・キリスト教のドグマでは生は原罪を背負った罪深いものとされています。
    > これに対してニーチェは生には普遍的な目的も意味も価値もないが故に、自らが価値や意味や目的を付与しうる白いキャンパスの如く無垢であると考えます。
    > またニーチェにとって生や大地は実存そのものであり、死後に訪れる最後の審判や天国、つまり背後世界(プラトニズム)などという妄想の対極にあるものです。
    > キリストが人類の原罪を背負って自ら死を選んだのであれば、その死は無垢なる人間や生や大地を罪深いものとして中傷する意味をも有するということになるので、きみたちの死が未熟なまま死んだキリストの死のようにならないことを望むということでしょうね。

    そうした意味合いが込められていたのですね。
    教えていただいてありがとうございます。
    キリスト教の教義の根幹とも言える贖罪を否定するような表現がなされているのは(しかも牧師の息子であるニーチェによって)、当時としてはとても過激なことだったのだろうと思います。

    実際のところ、イエス自身は、自らの死に際して贖罪のためという意識はあったのかな。
    教義上ではそのようなことになっているのだと思いますが、実際にはどうだったのだろう、というのは本人にしか知りようがないですよね。

    背後世界はもはやあくまで私にとってはですが、その存在はあってもなくてもどちらでもいいもの、むしろどちらかと言えばなくてもいいものになっているなぁ、と自分のところのこととして感じたりします。
    せかせかと生きていつか死んでいく、そしてそれで終わり・・・、それで自分的には何の問題もないな、という感じです。

    いやいや、そんなんじゃないでしょ、という方々ももちろんいらっしゃると思うけど、このあたりはあくまで考え方の相違ですよね。

    >>「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。
    >
    > ここは以下に対応します。
    >
    > 『見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』
    >
    > 『31死に対して自由であり、死に際して自由である。もはや肯定すべき時』となるような死を「魂の蜜(生きた結果として溢れ出る蜜)」から得られんことを願うってことだと思います。
    >

    ああ、そういえばあったな〜、と思い出しました。^^

    もはや肯定すべき時となるような死を魂の蜜から得られんことを願う、かぁ。
    そうですね、これはほんとに理想だと思います。
    ただ、これも、世の中的な価値観で測られるようなものでもなく、自分なりの価値観で納得して満足できる死であれば、それはその人にとっての理想なのだと思います。






引用返信/返信 削除キー/
■20360 / inTopicNo.58)  19.毒ヘビのかみ傷について
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/11(Tue) 20:55:04)
    この章で好きなところを引用してみます。

    『きみたちに聞きたいが、こういう正義がどこに見いだされるだろうか、盲目的ならざる愛であるような正義が?
    されば、ぜひともこういう愛を考察せよ、一切の刑罰を下すに耐えるのみならず、さらに一切の罪責を負うに耐えるような愛を!
    されば、ぜひともこういう正義を考案せよ、裁く者を除いて万人に無罪の判決を下すような正義を!(ツァラトゥストラ 毒ヘビのかみ傷について11〜13)』

    ニーチェはここで最後の審判をドクマとする限りユダヤ・イスラム・キリスト教の信仰対象である神の愛は正義と言えるのか?という疑問を呈している。
    以下のアフォリズムも上記に同じ。

    『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』


引用返信/返信 削除キー/
■20359 / inTopicNo.59)  Re[42]: Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ パニチェ -(2022/01/11(Tue) 20:31:45)
    こんばんは、みのりさん。

    No20358に返信(みのりさんの記事)
    > [21] 自由な死について

    > ・・・・・
    > 30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
    >   憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    > ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用

    > ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    > (訳注p396を参照しました。)

    > 31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。

    > また、
    > ・・・・・
    > 27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
    >   いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
    >   学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    > ・・・・・同書p132より引用

    > という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。

    そうですね、あと27の前段25に『まことに、ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。そして、彼があまりに早く死んだことは、それ以来、多数の者たちにとって悲運となったのだ』とあります。
    この「ゆるやかな死」も含めて、この章で語られている死生観は以下のアフォリズムが参考になると思います。

    『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番)』

    ニーチェからすれば「ゆるやかな死」も不自然死であることに変わりないということでしょう。


    > ・・・・・
    > 32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
    >   友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    > ・・・・・同書p133より引用

    > この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。

    > これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    > つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?

    > パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    > (急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)

    ユダヤ・イスラム・キリスト教のドグマでは生は原罪を背負った罪深いものとされています。
    これに対してニーチェは生には普遍的な目的も意味も価値もないが故に、自らが価値や意味や目的を付与しうる白いキャンパスの如く無垢であると考えます。
    またニーチェにとって生や大地は実存そのものであり、死後に訪れる最後の審判や天国、つまり背後世界(プラトニズム)などという妄想の対極にあるものです。
    キリストが人類の原罪を背負って自ら死を選んだのであれば、その死は無垢なる人間や生や大地を罪深いものとして中傷する意味をも有するということになるので、きみたちの死が未熟なまま死んだキリストの死のようにならないことを望むということでしょうね。

    > 「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。

    ここは以下に対応します。

    『見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』

    『31死に対して自由であり、死に際して自由である。もはや肯定すべき時』となるような死を「魂の蜜(生きた結果として溢れ出る蜜)」から得られんことを願うってことだと思います。

引用返信/返信 削除キー/
■20358 / inTopicNo.60)   Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2022/01/11(Tue) 12:20:19)
    [21] 自由な死について


    この章で、昨年、途中で終わってしまい残っている分を見ます。

    ・・・・・
    30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
      憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用


    ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    (訳注p396を参照しました。)

    31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。

    また、
    ・・・・・
    27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
      いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
      学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    ・・・・・同書p132より引用

    という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。

    ・・・・・
    32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
      友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    ・・・・・同書p133より引用

    この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。

    これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?


    パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    (急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)


    「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。



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