| この章で好きなところを引用してみます。
『きみたちに聞きたいが、こういう正義がどこに見いだされるだろうか、盲目的ならざる愛であるような正義が? されば、ぜひともこういう愛を考察せよ、一切の刑罰を下すに耐えるのみならず、さらに一切の罪責を負うに耐えるような愛を! されば、ぜひともこういう正義を考案せよ、裁く者を除いて万人に無罪の判決を下すような正義を!(ツァラトゥストラ 毒ヘビのかみ傷について11〜13)』
ニーチェはここで最後の審判をドクマとする限りユダヤ・イスラム・キリスト教の信仰対象である神の愛は正義と言えるのか?という疑問を呈している。 以下のアフォリズムも上記に同じ。
『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』
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