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Re[45]: 19.毒ヘビのかみ傷について
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□投稿者/ パニチェ -(2022/01/12(Wed) 22:39:31)
| こんばんは、みのりさん。レスありがとうございます。 こちらこそ、今年もよろしくお願いします。
■No20371に返信(みのりさんの記事)
> そうした意味合いが込められていたのですね。 > 教えていただいてありがとうございます。
どういたしまして。言うまでもないですが、あくまでもパニチェ的解釈です。
> キリスト教の教義の根幹とも言える贖罪を否定するような表現がなされているのは(しかも牧師の息子であるニーチェによって)、当時としてはとても過激なことだったのだろうと思います。
そうなんですよ。しかもキリスト教圏ですからね。
> 実際のところ、イエス自身は、自らの死に際して贖罪のためという意識はあったのかな。 > 教義上ではそのようなことになっているのだと思いますが、実際にはどうだったのだろう、というのは本人にしか知りようがないですよね。
同感です。釈尊もそうですが、イエスも後付けで神格化されているところもあると思います。
> 背後世界はもはやあくまで私にとってはですが、その存在はあってもなくてもどちらでもいいもの、むしろどちらかと言えばなくてもいいものになっているなぁ、と自分のところのこととして感じたりします。 > せかせかと生きていつか死んでいく、そしてそれで終わり・・・、それで自分的には何の問題もないな、という感じです。 > いやいや、そんなんじゃないでしょ、という方々ももちろんいらっしゃると思うけど、このあたりはあくまで考え方の相違ですよね。
同意です。
> ああ、そういえばあったな〜、と思い出しました。^^ > もはや肯定すべき時となるような死を魂の蜜から得られんことを願う、かぁ。 > そうですね、これはほんとに理想だと思います。 > ただ、これも、世の中的な価値観で測られるようなものでもなく、自分なりの価値観で納得して満足できる死であれば、それはその人にとっての理想なのだと思います。
確かに。
■No20372に返信(みのりさんの記事)
> この部分、私は、単に世俗的な意味合いでの「裁く」「無罪の判決」という話だと思っていました。 > 日常の上で、人が人を裁くようなことを否定する内容だと考えていたのです。 > そういうことではなかったのですね。
みのりさんが指摘されている世俗的な意味合いも含んでいるとは思います。
> 信じない者は最後の審判によっての選択からも漏れてしまう、そうしたことが教義からは導き出されるのだけれど、それでも神の愛は正義と言えるのか?、という疑問が呈されているのですね。
ツァラトゥストラもアンチクリストが土台になってましからね。
>>『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』
> 訳注p396の438にも、『生成の無垢』第二巻の971に、「キリストにおける感情の高貴さの深い欠如、彼のユダヤ人根性が指摘されている」とあります。 > このあたり、重なるものになるのかな、と思いました。
以下ですね。
『キリストにおける感情の高貴さの深い欠如を、彼におけるユダヤ的なものを、つまり儲け仕事とそれを逸する愚鈍さに対する立腹とを、なんとしても絶対に見誤ることなかれ!ヨーロッパ人たちがあれほどはるかに高貴な諸感情を置きいれたのだ!(生成の無垢 下巻 971番)』
PS.返信はお気遣いなく。
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