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Re[44]: 19.毒ヘビのかみ傷について
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□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:38:03)
| ■No20360に返信(パニチェさんの記事) > この章で好きなところを引用してみます。 > > 『きみたちに聞きたいが、こういう正義がどこに見いだされるだろうか、盲目的ならざる愛であるような正義が? > されば、ぜひともこういう愛を考察せよ、一切の刑罰を下すに耐えるのみならず、さらに一切の罪責を負うに耐えるような愛を! > されば、ぜひともこういう正義を考案せよ、裁く者を除いて万人に無罪の判決を下すような正義を!(ツァラトゥストラ 毒ヘビのかみ傷について11〜13)』 > > ニーチェはここで最後の審判をドクマとする限りユダヤ・イスラム・キリスト教の信仰対象である神の愛は正義と言えるのか?という疑問を呈している。 > 以下のアフォリズムも上記に同じ。
この部分、私は、単に世俗的な意味合いでの「裁く」「無罪の判決」という話だと思っていました。 日常の上で、人が人を裁くようなことを否定する内容だと考えていたのです。 そういうことではなかったのですね。
信じない者は最後の審判によっての選択からも漏れてしまう、そうしたことが教義からは導き出されるのだけれど、それでも神の愛は正義と言えるのか?、という疑問が呈されているのですね。
> 『あまりにもユダヤ的。──神は愛の対象になろうと欲するなら、何よりもまず審判と正義を断念せねばならぬことだろう。──審判者というものは、それが恵み深い審判者であったにしても、決して愛の対象とはならない。キリスト教の開祖は、この点にかけての繊細な感受性を十分に持ちあわせていなかった──ユダヤ人であったゆえに。(悦ばしき知識 第140番)』
訳注p396の438にも、『生成の無垢』第二巻の971に、「キリストにおける感情の高貴さの深い欠如、彼のユダヤ人根性が指摘されている」とあります。 このあたり、重なるものになるのかな、と思いました。
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