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No20371 の記事


■20371 / )  Re[43]: Z 第一部 説話[21]
□投稿者/ みのり -(2022/01/12(Wed) 16:20:28)
    パニチェさん、レスありがとうございました。
    今年もどうぞよろしくお願いします。

    No20359に返信(パニチェさんの記事)
    > こんばんは、みのりさん。
    >
    > ■No20358に返信(みのりさんの記事)
    >>[21] 自由な死について
    >
    >>・・・・・
    >>30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく
    >>  憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。
    >>・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用
    >
    >>ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。
    >>(訳注p396を参照しました。)
    >
    >>31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。
    >
    >>また、
    >>・・・・・
    >>27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって
    >>  いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを
    >>  学んだであろう ─ さらには、笑うことをも!
    >>・・・・・同書p132より引用
    >
    >>という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。
    >
    > そうですね、あと27の前段25に『まことに、ゆるやかな死を説教する者たちがあがめるあのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。そして、彼があまりに早く死んだことは、それ以来、多数の者たちにとって悲運となったのだ』とあります。
    > この「ゆるやかな死」も含めて、この章で語られている死生観は以下のアフォリズムが参考になると思います。
    >
    > 『誇りある仕方で生きることがもはや可能でないときには、誇りある仕方で死ぬことが大切です。…自発的に選ばれた死。明るく悦ばしい心をもって、子供や立会人の唯中で実行される、頃合いを誤たない死。このような死にあっては、別れを告げる当人がまだ現にそこに居合わす本当の別離がなお可能なのであり、同じように、自分が達成したことや意欲したことの本当の評価、生涯の総決算も、やはり可能になるのであります。・・・自然死とはやはり「不自然」死、一種の自殺に他なりません。人は己自身による以外に、他の誰かによって滅びることは決してありません。ただし、最も軽蔑すべき死、つまり不自由死、頃合いを誤った死、臆病者の死というのもあります。人は生きんとする愛があるからこそ、死とは別様に、自由なものに、意識的なものに、偶然でもなければ、不意打ちでもないように欲すべきでありましょう。(偶像の黄昏 ある反時代的人間の逍遥第36番)』
    >
    > ニーチェからすれば「ゆるやかな死」も不自然死であることに変わりないということでしょう。
    >
    >
    >>・・・・・
    >>32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの
    >>  友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。
    >>・・・・・同書p133より引用
    >
    >>この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。
    >
    >>これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか?
    >>つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?
    >
    >>パニチェさん、ここについてよかった教えてください。
    >>(急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)
    >
    > ユダヤ・イスラム・キリスト教のドグマでは生は原罪を背負った罪深いものとされています。
    > これに対してニーチェは生には普遍的な目的も意味も価値もないが故に、自らが価値や意味や目的を付与しうる白いキャンパスの如く無垢であると考えます。
    > またニーチェにとって生や大地は実存そのものであり、死後に訪れる最後の審判や天国、つまり背後世界(プラトニズム)などという妄想の対極にあるものです。
    > キリストが人類の原罪を背負って自ら死を選んだのであれば、その死は無垢なる人間や生や大地を罪深いものとして中傷する意味をも有するということになるので、きみたちの死が未熟なまま死んだキリストの死のようにならないことを望むということでしょうね。

    そうした意味合いが込められていたのですね。
    教えていただいてありがとうございます。
    キリスト教の教義の根幹とも言える贖罪を否定するような表現がなされているのは(しかも牧師の息子であるニーチェによって)、当時としてはとても過激なことだったのだろうと思います。

    実際のところ、イエス自身は、自らの死に際して贖罪のためという意識はあったのかな。
    教義上ではそのようなことになっているのだと思いますが、実際にはどうだったのだろう、というのは本人にしか知りようがないですよね。

    背後世界はもはやあくまで私にとってはですが、その存在はあってもなくてもどちらでもいいもの、むしろどちらかと言えばなくてもいいものになっているなぁ、と自分のところのこととして感じたりします。
    せかせかと生きていつか死んでいく、そしてそれで終わり・・・、それで自分的には何の問題もないな、という感じです。

    いやいや、そんなんじゃないでしょ、という方々ももちろんいらっしゃると思うけど、このあたりはあくまで考え方の相違ですよね。

    >>「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。
    >
    > ここは以下に対応します。
    >
    > 『見よ!蜜をあまりに多く集めすぎたミツバチのように、わたしは自分の知恵に飽き果てている。わたしは差し出される手を必要とする。私は贈与し分与したい、人間たちのなかの賢者たちが、いま一度その愚かさを、そして貧しい者たちが、いま一度その豊かさを、喜ぶようになるまで。そのために、わたしは深みに降りて行かなくてはならない、おまえが夕方、海の背後に沈み行き、なお下界に光をもたらすとき、するように。おまえ、溢れるほど豊かな天体よ!わたしは人間たちのところへ下って行こうとするのだが、この人間たちの呼び方によれば、わたしは、おまえと同じように、没落しなくてはならない。」(ツァラトゥストラ 序説1-1)』
    >
    > 『31死に対して自由であり、死に際して自由である。もはや肯定すべき時』となるような死を「魂の蜜(生きた結果として溢れ出る蜜)」から得られんことを願うってことだと思います。
    >

    ああ、そういえばあったな〜、と思い出しました。^^

    もはや肯定すべき時となるような死を魂の蜜から得られんことを願う、かぁ。
    そうですね、これはほんとに理想だと思います。
    ただ、これも、世の中的な価値観で測られるようなものでもなく、自分なりの価値観で納得して満足できる死であれば、それはその人にとっての理想なのだと思います。






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