□投稿者/ みのり -(2022/01/11(Tue) 12:20:19)
| [21] 自由な死について
この章で、昨年、途中で終わってしまい残っている分を見ます。
・・・・・ 30 だが大人のうちには、青年のうちによりも、より多くの子供がおり、より少なく 憂愁がある。大人は死と生とに、よりよく精通しているものだ。 ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p133より引用
ここでの「大人」は、創造者として子供のように世界と遊戯する者(精神の三段階における幼子)のこと。 (訳注p396を参照しました。)
31では、その「大人」は、死に対して自由であり、死に際して自由である、ともあり、前回に見たイエス・キリストをまだ成熟するところまでいかなかった青年であったという記述、死への憧憬が彼を襲ったとも26にあることと対比させているのだと思います。
また、 ・・・・・ 27 彼がなんとかして荒野にとどまり、善にして義なる者たちから遠ざかって いたなら! おそらく彼は、生きることを学び、大地を愛することを 学んだであろう ─ さらには、笑うことをも! ・・・・・同書p132より引用
という記述、29にある記述から、ツァラトゥストラの語るイエス・キリスト像というのは、大地(現実)を憂い、死を憧憬する若者というニュアンスもあるように私には読み取れました。
・・・・・ 32 きみたちの死が人間と大地とを中傷する意味のものでなからんことを、わたしの 友たちよ。そのことをわたしはきみたちの魂の蜜から得たいと思うのだ。 ・・・・・同書p133より引用
この部分、訳注p396の440に、キリストのことを指しているとしている、とあります。
これは、「死が人間と大地を中傷する意味のもの」という部分を、キリストを指している、と言っているのでしょうか? つまり、イエス・キリストの死が人間と大地を中傷する意味のものであった、という意味になるということになるのかな?
パニチェさん、ここについてよかった教えてください。 (急ぎません。お時間のある時にお願いできたら幸いです。)
「魂の蜜」というのは、成熟する魂の内的成果、集められた知恵のことと訳注441にあります。
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