| 2021/12/11(Sat) 09:59:15 編集(投稿者)
[20] 子供と結婚について
一通り読んで、主旨と思われるものを、この章ではまとめてみます。
まず。標題(タイトル)において、子供が結婚に先立って表されているのは、ニーチェ ─ ツァラトゥストラにとって、子供が結婚の本質であるがゆえ、と研究者が解していると、訳注p392にあります。
たやすく結婚して子をもうける人間が多いけれど、ニーチェが本来の結婚と呼ぶべきものは、精神的に自立・自律した者どうしが結婚し、超人への憧憬を抱くような子を産み育てることである。 このような結婚観がニーチェにとっての理想のようです。
結婚をしない人も増えてきて、また、結婚と子供を結びつける考え方が一般的とも言えなくなっている現代の感覚からすると、一種の時代錯誤的な感覚とも言えるとは思います。 こういうのを知るとニーチェ、考えが古いなぁ。。と、思う人ももしかしたら多いのかな。 まぁ、実際、昔の人だし、現代の感覚とは違って当然なのだけど。
しかし。結婚して、産まれた子供を安易に虐待してしまう場合というのが、昔も今もあるのはたしかで、そうした意味で、結婚して子をもうけるに際しての責任を自覚せよ、というニーチェの言葉から、厳しさだけを取るのではなく、そこに愛を感じたいと思います。
少し引用します。
・・・・・ 7 きみは自分を生み殖やすにとどまらないで、生み高めるべきだ! そのためにこそ、結婚の園はきみの助けとならんことを!
8 きみは一つのより高い身体を、一つの第一運動を、一つの自力でころがる 車輪を創造すべきだ、─ きみは一人の創造者を創造すべきなのだ。
9 結婚、とわたしが呼ぶのは、創造した者たち以上の者なる一者を創造しよう とする、二人の意志だ。 このような意志を意欲する者に対する畏敬としての、相互の畏敬を、わたし は結婚と名づける。 ・・・・・『ツァラトゥストラ』上 ちくま学芸文庫 p125〜p126より引用
ニーチェの理想に反するものに対しての否定が、引用外のこの章の文章でも際立っていて、ある意味においては独善的とも言えるし、嫌悪を覚える人もいるのだと思います。 私も、嫌悪ではないけれど、独善的だなぁ。。と感じる部分は、ニーチェの言葉に感じることはあります。 逆に言えば、ニーチェの妥協なしの心からの言葉が語られているということでもあり、それと対峙して、こちらも安易に妥協せずの感想を感じた際には、それをそのまま感じてみる。 それでいいのではないか、と思います。
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