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■17869 / inTopicNo.73)  Re[28]: :ふと
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/22(Fri) 21:17:30)
    横レス御免!

    No17866に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > No17659の、
    > 【この存在者の存在において、この存在者はそれ自身おのれの存在へと態度をとっている。この存在の存在者として、この存在者は、存在しなければならないというおのれの固有なあり方に委ねられている。】
    > なんだけど、
    > 【この存在者】っていうのは「現存在」。で、わたし「現存在」を「私」って見て見ることにしたとき、「存在」を「生存」ってして見たらどうかしら?ってふと思ったのね。

    > ってしたとき、

    > 「私の生存において、私はそれ自身おのれの生存へと態度をとっている。この生存の私として、私は、生存しなければならないというおのれの固有なあり方に委ねられている。」
    > ってなった。

    > な〜んか、わたしの生に切実さを感じてくる。


    鋭いね。いいセンスしてるわ。
    ちくま学芸文庫版で言えば「現存在と存在、生と死」は下巻にいっぱい出てくるよ。

    『もっとも広い意味での死とは、生命現象のひつである。生命は、世界=内=存在をそなえている存在様式のひとつとして理解されなくてはならない。これは、現存在をもとにする欠如化をつうじてのみ、存在論的に確定されうるものである。現存在も、単純な生命として考察されることができる。(『存在と時間 第二編 現存在と時間性 第一章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在 第四九節 死の実存分析と、この現象についておこないうる諸他の解釈との対照的区別』より)
引用返信/返信 削除キー/
■17866 / inTopicNo.74)  Re[27]: :ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/22(Fri) 20:19:17)
    No17659の、
    【この存在者の存在において、この存在者はそれ自身おのれの存在へと態度をとっている。この存在の存在者として、この存在者は、存在しなければならないというおのれの固有なあり方に委ねられている。】
    なんだけど、

    【この存在者】っていうのは「現存在」。で、わたし「現存在」を「私」って見て見ることにしたとき、「存在」を「生存」ってして見たらどうかしら?ってふと思ったのね。

    ってしたとき、

    「私の生存において、私はそれ自身おのれの生存へと態度をとっている。この生存の私として、私は、生存しなければならないというおのれの固有なあり方に委ねられている。」
    ってなった。

    な〜んか、わたしの生に切実さを感じてくる。

引用返信/返信 削除キー/
■17805 / inTopicNo.75)  Re[26]: :なにしてるの? to do?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/20(Wed) 21:33:42)
    わたし、
    「私はここにいる」
    っていうことを示したのかな?


引用返信/返信 削除キー/
■17685 / inTopicNo.76)  Re[25]: :現存在(8)
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 19:55:29)
    ■17682、パニさん、
    ありがとございま〜す。

    マイケル・ゲルヴェンさんの、
    >『ハイデッガーが「本来的」と言うにはその人自身の自己に気付くことであり、「非本来的」とは他人が見るように自己を見ること、あるいは自分の自己を、その実存に先立つ意味や本質をもつものとして、従ってその実存とは「別な」もののごとく見ることである。このようにしてハイデッガーは、実存論的分析の劈頭に、現存在がそのつど私のものであるということをかかげることによって、その後の「本来的存在者」への展開の基礎を敷いているのである。(P.109〜P.110)』とあります。<
    マイケルさんの「非本来的」っていうのわたし不満なんだけど、まこれはいいわ。でね、<「本来的存在者」への展開の基礎を敷いている>っていうところ、

    No17664の、
    【現存在は、分析の出発点においては、或る特定の仕方で実存する差別のすがたにおいて学的に解釈されるべきではけっしてなく、現存在が差しあたってたいてい無差別にとっているすがたにおいて暴露されるべきである。現存在の日常性というこうした無差別のすがたは、何ものでもないものではなく、この存在者の一つの積極的な現象的性格なのである。こうした存在様式から出て、こうした存在様式のうちへと帰るのが、すべての実存することのありのままのすがたなのである。われわれは現存在のこうした日常的な無差別のすがたを平均的となづける。】
    に関連してる気がしてる。
    わたし17664のこれ、メルポンの、
    No11467の、
    【哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。】
    と重ね合わせて見てる。

    っていうことから、

    >おそらくハイデッガーの現存在、ウィトゲンシュタインの哲学的自我(形而上学的存在)、永井均氏の〈私〉、さらにデカルトのコギトは同じものの異名であると思われます。<
    の、ハイデガーの現存在、<デカルトのコギト>のとは違うと思う。

    わたし、メルポン派だから、ハイデガーのもメルポンのから見ちゃうのかもしれない。「分析の出発点」も、「現存在」の端緒につい目がいっちゃうのね。


引用返信/返信 削除キー/
■17682 / inTopicNo.77)  Re[24]: :現存在(8)
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/17(Sun) 17:02:39)
    2021/10/17(Sun) 17:26:15 編集(投稿者)

    横レス御免!

    No17673に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 第9節の最後の方に、
    > 【…序論においてすでに暗示されたとおり、現存在の実存論的分析論においては、その緊急さが存在問題自身の緊急さとほとんど劣ることない一つの課題が、ともに促進されているのだが、その課題とは、「人間とは何であるのか」という問いが哲学的に論究されうべきであるなら、看取されうるものにならざるをえないところの、まさにそのア・プリオリなものから邪魔物を取り払うということ、このことなのである。現存在の実存論的分析論は、あらゆる心理学、人間学に、ましてや生物学に先立っている。現存在に関するこれらの可能的な諸研究に対して境界が画されるとき、現存在の実存論的分析論の主題は、さらに、その境界範囲をいっそう鋭く定めうる。かくして同時にそのうえさらに、この分析論の必然性がいっそう徹底的に証明されるのである。】

    > けっきょく、「人間とは何であるのか」という課題において?
    > そしてハイデガーは、この問いへのアプローチの出発点を「現存在」においた?

    同意です。


    No17677に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > (2)から、
    > 「現存在」を、〈存在の意味を問おうとする「私」〉って見てみました。

    これまた同意です。

    ちくま学芸文庫版には『存在と時間』上巻・下巻の他にマイケル・ゲルヴェン著「ハイデッガー『存在と時間』註釈」という別巻のような書籍があります。
    P.108は『現存在の「私性」(第九節)』となっており、そこには。。。

    『ハイデッガーが「本来的」と言うにはその人自身の自己に気付くことであり、「非本来的」とは他人が見るように自己を見ること、あるいは自分の自己を、その実存に先立つ意味や本質をもつものとして、従ってその実存とは「別な」もののごとく見ることである。このようにしてハイデッガーは、実存論的分析の劈頭に、現存在がそのつど私のものであるということをかかげることによって、その後の「本来的存在者」への展開の基礎を敷いているのである。(P.109〜P.110)』とあります。

    おそらくハイデッガーの現存在、ウィトゲンシュタインの哲学的自我(形而上学的存在)、永井均氏の〈私〉、さらにデカルトのコギトは同じものの異名であると思われます。

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引用返信/返信 削除キー/
■17677 / inTopicNo.78)  Re[23]: :現存在(8)
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 16:04:08)
    『存在と時間T』の本に「名著の言葉」として紙が挟まっていって解説?が書かれてあったのを書き写して見ます。【 】内は本文箇所です。わたしに分かりやすいように番号をつけておきました。短いので全部。

    (1)【存在の意味への問いをあらためて設定することが、肝要なのである】(p5)
    存在という、この普遍的で、定義できない、自明な概念の意味と真理を、現代におけるその存在忘却に逆らって、あらためて問い直そうとするところに、ハイデガーの全生涯の思索が展開された。

    (2)【存在の意味への問いを表立って見通しのきくように設定するためには、或る存在者(現存在)をその存在に関して先行的に適切に究明しておくこと必要があるのである】(p20)
    存在の意味を問おうとするわれわれ自身がそれである存在者を、ハイデガーは現存在と呼ぶ。この現存在の存在了解的な存在へのかかわりをまず分析することころに、現行の『存在と時間』の課題が設定された。

    (3)【現存在が存在的に際立っているのは、むしろ、この存在者にはおのれの存在においてこの存在自身へとかかわりゆくということが問題であることによってなのである】(p33)
    現存在は、他の存在者と同列に並ぶのではなく、むしろ、おのれの存在において、当のおのれの存在へとかかわりゆくとこが問題であるという点に、その本質をもつ。ここに現存在の根本規定がある。このように自分の存在をいかに形成すべきかについて思い悩むところに、人間の存在の一番大切な点があるとハイデガーは見た。

    (4)【現存在がそれへとこれこれしかじかの態度をとることができ、またつねになんらかの仕方で態度をとっている存在者自身を、われわれは実存と名づける】(p34)
    このように現存在自身の存在は、実存と規定された。「現存在の『本質』はその実存のうちにひそんでいる」(p106)とも言われる。みずからの実存をあれこれ気遣うことが、人間の本質をなすという点に、『存在と時間』の根本思想がある。

    (5)【だから、その他すべての存在論がそこからはじめて発現することのできる基礎的存在論は、現存在の実存論的分析において求められなければならない】(p36)
    『存在と時間』は、現存在の存在の実存論的な学的解釈をとおして、存在の意味ないし真理の根底を切り開こうとした基礎的存在論の試み、もしくは実存にもとづく存在の思索なのであった。

    (6)【現象学は、おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身の方から示すとおりに、おのれ自身のほうから見えるようにさせるということにほかならない】(p89)
    ハイデガーは、この現象学概念にもとづいて、とりわけ現存在の存在とその意味を、誤った存在了解を破壊しながら、その真相において露呈させる現象学的解釈学の方法をとった。

    (7)【存在者をその存在においてとらえるという課題にとっては、たいてい言葉が欠けているばかりでななく、なかんずく「文法」が欠けているのである】(p95)
    現存在の存在の真相を現象学的解釈的に鋭く射当てようとしたハイデガーは、こうして、既存の概念装置を打ち壊し、まったく新たな哲学の文法と語彙を創出した。そこにハイデガーの斬新さと困難さがある。

    (8)【世人は、日常性の「最も実在的な主体」として露呈する】(p332)
    ハイデガーは、世界内存在する現存在の存在を、とりわけ本来性と非本来性という二つの存在様態に即して分析した。その際、日常的現存在は、道具の指示関連である適所性を有意義性としての世界にもとづいて了解するが、その時同時に、その日常的現存在の自己は、世の中のひとに支配された非本来的な世人自己であるとハイデガーは見た。

    (9)【本来的自己存在は、世人から分離されたところの、主体の一つの例外状態ではなく、本質上の実存範疇としての世人の一つの実存的変様なのである】(p335)
    現存在の本来性は、非本来的日常性として別物ではなく、むしろ、それを本来的に変様させたところにはじめて成り立つ。道具や他者たちとのかかわる世界内存在を、現存在は決して失うことができないからである。

    (2)から、
    「現存在」を、〈存在の意味を問おうとする「私」〉って見てみました。

    たしかフッサールは「意味を通じて世界とかかわる」って言ってたと思う。

引用返信/返信 削除キー/
■17673 / inTopicNo.79)  Re[22]: :現存在(7)
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 15:24:02)
    第9節の最後の方に、
    【…序論においてすでに暗示されたとおり、現存在の実存論的分析論においては、その緊急さが存在問題自身の緊急さとほとんど劣ることない一つの課題が、ともに促進されているのだが、その課題とは、「人間とは何であるのか」という問いが哲学的に論究されうべきであるなら、看取されうるものにならざるをえないところの、まさにそのア・プリオリなものから邪魔物を取り払うということ、このことなのである。現存在の実存論的分析論は、あらゆる心理学、人間学に、ましてや生物学に先立っている。現存在に関するこれらの可能的な諸研究に対して境界が画されるとき、現存在の実存論的分析論の主題は、さらに、その境界範囲をいっそう鋭く定めうる。かくして同時にそのうえさらに、この分析論の必然性がいっそう徹底的に証明されるのである。】

    けっきょく、「人間とは何であるのか」という課題において?

    そしてハイデガーは、この問いへのアプローチの出発点を「現存在」においた?

引用返信/返信 削除キー/
■17664 / inTopicNo.80)  Re[21]: :現存在(6)
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 10:56:32)
    第9節からの抜粋のつづき

    【現存在は、分析の出発点においては、或る特定の仕方で実存する差別のすがたにおいて学的に解釈されるべきではけっしてなく、現存在が差しあたってたいてい無差別にとっているすがたにおいて暴露されるべきである。現存在の日常性というこうした無差別のすがたは、何ものでもないものではなく、この存在者の一つの積極的な現象的性格なのである。こうした存在様式から出て、こうした存在様式のうちへと帰るのが、すべての実存することのありのままのすがたなのである。われわれは現存在のこうした日常的な無差別のすがたを平均的となづける。】

    ここに「現存在の日常性」っていうの出てきてる。これを〈実存私の日常の生活性〉、とか〈実存私の日常の存在様態〉みたいな感じで見て、分析の出発点をここにおいてる、っていうことなんかな?ん〜ん、フッサールの言う「生活世界」?
    こうわたしに見られたとき、想い出したのが、
    No11411 (1-p64)の、
    【世界がつねに反省に先だって、廃棄されえない現存として、「すでにそこに」あることを認める哲学でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそれに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。】
    【またそれと同時に、「生きられた」空間、世界についての報告でもある。】
    【現象学の最も主要なテーマとして提起した「自然的世界概念」あるは「生活世界」の、一つの解明にすぎないのだ。】
    っていうところ。

    もうちょっとつづくよ

引用返信/返信 削除キー/
■17663 / inTopicNo.81)  Re[20]: :現存在()
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 10:23:00)
    ■17661、ぱにさん、
    >それでいいと思うよ。<
    ありがとございま〜す。

    Titleで、現存在()ってなっってるけど、
    ()内は5です。
引用返信/返信 削除キー/
■17661 / inTopicNo.82)  Re[19]: :現存在()
□投稿者/ パニチェ -(2021/10/17(Sun) 09:56:30)
    おはよう!悪魔ちゃん。

    No17659に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 【第9節 現存在の分析論の主題】 のところから、一部抜粋して見ます。
    > 「分析論」っていうのは「実存論的分析論」のことだと思う。

    > 【その分析が課題となっている存在者は、そのつどわれわれ自身なのである〔1〕。この存在者の存在はそのつど私のものである。この存在者の存在において、この存在者はそれ自身おのれの存在〔2〕へと態度をとっている。この存在の存在者として、この存在者は、存在しなければならないというおのれの固有なあり方〔3〕に委ねられている。存在とは〔4〕、この存在者にはそれ自身そのつどそれへとかかわりゆくことが問題である当のもののことなのである。現存在をこのように性格づけることから二重のことが生ずる。】
    > この現存在の二つの性格については次のように書かれ始めてる、
    > 【1この存在者の「本質」は、この存在者が存在しなければならないというあり方をすることのうちに〔5〕ひそんでいる。‥‥】
    > 【2現存在というこの存在者にはおのれの存在において存在へとかかわりゆくことが問題であるのだが、そうした存在は、そのつど私のものである。‥‥】
    > 訳注
    > 〔1〕著者の自家用本の欄外注記によれば、「そのつどわれわれ」という語句が、「そのつど〈私〉」という語句に改められている。
    > 〔2〕著者の自家用本の欄外注記によれば、本文にある「おのれの存在」について、「しかし、この存在は、歴史的な世界内存在なのである」と、注意が促されている。
    > 〔3〕第一版の「存在しなければならないというおのれの固有なあり方に[seinem eigenen Zu-sein]」は、第七版と第十一版とでは「おのれの固有な存在に[seinem eigenen Sein]」である。全集版および単行新版(第十四―十七版)でも同様である。
    > 〔4〕著者の自家用本の欄外注記によれば、この「存在」を指して、「どの存在のことか。それはすなわち、現〔という存在の開けた場所〕で在ること〔つまり、現存在すること〕、そして、そこにおいて〈奥深い存在[Seyn]〉全般を耐え抜くということ〔である〕」と注記されている。
    > 〔5〕著者の自家用本の欄外注記によれば、「この存在者が存在しなければならないというあり方をするとのうちに[in seinem Zu-sein]」という語句のなかのドイツ語のZu-seinについて、後年のハイデガーは、こう注記している。すなわち、それは、「この存在者が存在し〈なければならない〉と、なのである[da&#223; es zu seyn <hat>]。つまり、それがこの存在の規定〔ないし使命〕なのだ![Bestimmung!]と。したがって、本文箇所もその意を汲んで、右のように訳し改めた。なお、現存在という存在者が「存在しており、そして存在しなければならない」という「現実実性」という「重荷」を背負ったものであるという規定は、本書U13ページ以下の「情状性」の分析箇所で詳述される。

    > なんか、ほら、「私」が出てきてる。
    > 現存在=人間=実存私、ってしちゃおっかな〜?

    それでいいと思うよ。
    現存在は悪魔ちゃん的には「私」で、パニチェ的には〈私〉。


引用返信/返信 削除キー/
■17659 / inTopicNo.83)  Re[18]: :現存在()
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 09:17:44)
    【第9節 現存在の分析論の主題】 のところから、一部抜粋して見ます。
    「分析論」っていうのは「実存論的分析論」のことだと思う。

    【その分析が課題となっている存在者は、そのつどわれわれ自身なのである〔1〕。この存在者の存在はそのつど私のものである。この存在者の存在において、この存在者はそれ自身おのれの存在〔2〕へと態度をとっている。この存在の存在者として、この存在者は、存在しなければならないというおのれの固有なあり方〔3〕に委ねられている。存在とは〔4〕、この存在者にはそれ自身そのつどそれへとかかわりゆくことが問題である当のもののことなのである。現存在をこのように性格づけることから二重のことが生ずる。】
    この現存在の二つの性格については次のように書かれ始めてる、
    【1この存在者の「本質」は、この存在者が存在しなければならないというあり方をすることのうちに〔5〕ひそんでいる。‥‥】
    【2現存在というこの存在者にはおのれの存在において存在へとかかわりゆくことが問題であるのだが、そうした存在は、そのつど私のものである。‥‥】
    訳注
    〔1〕著者の自家用本の欄外注記によれば、「そのつどわれわれ」という語句が、「そのつど〈私〉」という語句に改められている。
    〔2〕著者の自家用本の欄外注記によれば、本文にある「おのれの存在」について、「しかし、この存在は、歴史的な世界内存在なのである」と、注意が促されている。
    〔3〕第一版の「存在しなければならないというおのれの固有なあり方に[seinem eigenen Zu-sein]」は、第七版と第十一版とでは「おのれの固有な存在に[seinem eigenen Sein]」である。全集版および単行新版(第十四―十七版)でも同様である。
    〔4〕著者の自家用本の欄外注記によれば、この「存在」を指して、「どの存在のことか。それはすなわち、現〔という存在の開けた場所〕で在ること〔つまり、現存在すること〕、そして、そこにおいて〈奥深い存在[Seyn]〉全般を耐え抜くということ〔である〕」と注記されている。
    〔5〕著者の自家用本の欄外注記によれば、「この存在者が存在しなければならないというあり方をするとのうちに[in seinem Zu-sein]」という語句のなかのドイツ語のZu-seinについて、後年のハイデガーは、こう注記している。すなわち、それは、「この存在者が存在し〈なければならない〉と、なのである[da&#223; es zu seyn <hat>]。つまり、それがこの存在の規定〔ないし使命〕なのだ![Bestimmung!]と。したがって、本文箇所もその意を汲んで、右のように訳し改めた。なお、現存在という存在者が「存在しており、そして存在しなければならない」という「現実実性」という「重荷」を背負ったものであるという規定は、本書U13ページ以下の「情状性」の分析箇所で詳述される。

    なんか、ほら、「私」が出てきてる。
    現存在=人間=実存私、ってしちゃおっかな〜?

    つづく


引用返信/返信 削除キー/
■17632 / inTopicNo.84)  Re[17]: :現存在(4)
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/16(Sat) 18:55:46)
    No17617の(1)の、
    [Da]なんだけど、これについて書いてあるところがあるので抜粋して見ます。

    【本質上世界内存在によって構成されている存在者は、それ自身そのつどおのれの「現」〔2〕である。親しみなれた語義にしたがえば〔3〕、「現」は「ここ」や「あそこ」を指示する。「ここにいる私」の「ここ」は、つねに、道具的に存在している「あそこ」にもとづいておのれを了解しているのだが、それも、そうした「あそこ」へと、遠ざかりを奪取してつつ、方向を切り開きつつ、配慮的に気遣いつつかかわる存在という意味においてなのである。現存在のこのような実存論的空間性はそれ自身世界内存在に根拠ずけられている。あそこは、世界内部的に出会われるものの規定性なのである。「ここ」と「あそこ」は、なんらかの「現」においてのみ可能である、言いかえれば、「現」の存在として空間性を開示してしまっているなんらかの存在者が存在しているときにのみ可能である。こうした存在者は、おのれの最も固有な存在のうちに、閉鎖されていないという性格をもっている。「現」という表現は、こうした本質上の開示性を指している。この開示性によってこの存在者(現存在)は、世界が現にそこに開示されて存在していること〔4〕といっしょになって、おのれ自身にとっても「現にそこに」存在しているのである。】(第28節)
    訳注
    〔2〕「現[Da]」という術語は、以下の本文からもわかるとおり、「そこ」という場所的な意味と、「現れている」という開示の意味とを基本的に含んでおり、そのかぎり「開示の場」とでも訳出してもよい。ただ、「現」は「現存在」の「現」でもあることを考慮して、このような連関から「開示の場」という訳語は採用しなかった。
    〔3〕「親しみなれた語義にしたがえば」と断っているのは、「現」の原語Daは、普通は場所の副詞として「そこ」を意味するからである。
    〔4〕「現にそこに開示されて存在していること」と訳出した原語は、Da-seinである。このように訳出したのは、Da-seinとハイフンつきの場合には、Daに含まれている基本的な意味、すなわち、場所的な意味と開示の意味とが強調されていると考えたからである。ただ、この箇所ではこの述語は「世界」と連関して用いられているが、この述語がそのような強調ののもとで「現存在[Dasein]」を指すと考えられる場合には「現にそこに開示されている現存在」と訳出した。なお、本文中のこの箇所にすぐつづいてみられるように、daが小文字のときには「現にそこに」と訳出したが、この場合にも「開示されている」という意味が含まれているこというまでもない。

    ここの読んでて、フッサールの、
    No15738の「絶対的なここ」
    っていうの思い出した。
    ハイデガーの言う「現存在」の「現」[Da]――「開示の場」――ということで言おうとしていることとは違うかもしれないけど。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/

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