(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■18141 / inTopicNo.61)  Re[40]: カオス
  
□投稿者/ マジカルモンキー -(2021/11/01(Mon) 12:12:13)
    悪魔ちゃんの脳はカオスが売り。ま、それで俺は助かったんだが。
引用返信/返信 削除キー/
■18116 / inTopicNo.62)  Re[39]: カオス
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/31(Sun) 20:02:15)
    あ、ついでに、

    もしカオスがお好みなら、
    デカルトの第一省察、
    【私は、すでに幾年か前のことになるが、こう気づいたのである。幼少の頃にどれほど多くの偽なるものを真なるものとして私が受け入れてしまっていることか、そしてそのようなものの上にその後私の積み重ねてきているものがどれほど疑わしいものであることか】
    って思って見るのもいいかも?
    ほら、こうすると、私のがカオスになっていかない?
引用返信/返信 削除キー/
■18115 / inTopicNo.63)  Re[38]: カオス
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/31(Sun) 19:43:36)
    ニーチェクラブはカオスがお好み?

    ドゥルーズ&ガタリの『千のプラトー』のなかに、
    【私たちが若干の秩序を要求するのは、カオスから自分の身を守るためでしかない。私たちは、自分が手にしている諸観念を絶えず失う。だからこそ私たちは、いくつかの揺るぎないオピニオンというものに、こんなにもしがみついているのだ。】
    っていうのがあったかな?

    あ、わたしにとってD&Gのは”ただ言ってるだけ”だから、どうでもいいんだけど、
    ふと、浮かんできたから、つい、ね。
引用返信/返信 削除キー/
■18110 / inTopicNo.64)  Re[37]: 「私」と「わたし」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/31(Sun) 09:22:45)
    ちょっと思ったんで書いとくことにしま〜す。

    No11447
    【フッサールが自分自身を理解するのに長い時間を要した問題はない、――また、この問題ほど彼が繰り返し繰り返し問い直した問題もない。】ってメルポンは言ってたのを想い出してる。

    日常的に使われてる「人」、これをわたし「私」ってしてる。
    そして「私」と「わたし」を区別して見てるんだけど、ちょっとここんところ、わたしに見えるようにしとく。

    ここ、文字だけでの表現だから、意味的に異なるものを表言するのに語を違えないとごちゃごちゃになっちゃうから、ちょっとここで、口語のばあい、「ワタシ」って言うのを使って区別して置く。
    わたし、いろんな人に「私」っていうのあると思ってて、いろんな人が「ワタシは…と思う」とか「ワタシは…が好き」みたいに「ワタシ」を使ってるよね。このようなときの「ワタシ」は「わたし」に近いかな。

    No18045の、
    〔個別的・具体的な「この私」〕を、わたし「わたし」って表言することにしてるんだけど、わたしの表言する「私」っていうの、それとは違う感じのものとして区別してる。

    No17618の、訳注〔7〕に、
    〔ハイデガーのめざすものは、個別の具体的な実存の振る舞い方の記述ではなく、実存一般を「構成している」「存在論的な諸構造の連関」、すなわち「実存性」の解明にあり、しかも、それは存在了解を含み、存在の意味(真理)と深くかかわっている。自分の思索は、実存哲学というよりは、むしろ当初から一貫して、存在の思索であったのだと〕
    ってあって、ハイデガーの場合、〔個別の具体的な実存の振る舞い方の記述〕じゃなくて、〔実存一般(実存性)〕の解明みたいだけど、どちらかというと、わたしの言う「私」っていうのは、こんな感じのみたい。
    もっともわたしのは「解明」とか「存在論」っていうそういうんじゃないけどね。

    わたし前に「実存哲学」と「実存哲学の形式」の区別、ってしたけど、言い方を変えて、前者を「個別的実存」、後者を「一般的実存」ってすることにする。
    でね、「実存」として「私」を見るとき、「一般的実存」として「私」を見ようしているとき「実存私」、「個別的実存」として「私」を見ようとしているとき「実存わたし」って表言して区別することにした。

    「わたし」と「私」って区別して見たんだけど、そうすると次のようなことが問題となってくるのかな。(メルポンは分けたものの関係性を見ることってしてる見たいだから)

    (1)「私」と「他者」との関係性
    (2)「私」と「わたし」との関係性

    (1)は他我問題?ん、あまり難しく考えないで、〈「私」のうちに、fremdがどのように「他者」として現れてくるのか〉っていう問題かな。 フッサールのは、
    No15221にあるようなもの。『デカルト的省察』の第50節の題は「他者経験は、「共現前」(類比による統覚)として、間接的な志向性をもつ」。

    (2)についてなんだけど、現象学のを読んでるなかで、わたしに思いついたのが「志向性」。
    No15250に、〈自〉(わたしが勝手にそうしっちゃものね)について書いて見たけど、
    「私」の〔身体と、〈自〉(身体と直接キアスムしている、原初的で固有の、志向的生の主体)〕によって「わたし」(個別的・具体的な「この私」)ならしめてる、ってして見たよ。
    簡単に言っちゃうと、
    「私」の志向性が「わたし」。

    ひとまずこんな感じにしとく。


引用返信/返信 削除キー/
■18045 / inTopicNo.65)  Re[36]: 実存
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/28(Thu) 18:50:03)
    「実存」っていう言葉が出てきたから、
    わたしの参考書を見返して見たら、

    〔実存existence
    今、ここにいる人間の現実存在を意味する。実存は、客観的な抽象的思考では把握し得ない、個別者としての人間の現実的・具体的なあり方をさし、抽象的な「ひと」に解消し得ない、個別的・具体的な「この私」である。実存は、物事の客観的な知識とは異なり、「私」の主体的自覚に基づき、客観的な事物へ散っている精神を自分自身の内に集中させることによってめざめる。語源的には、実存(existence)は「外に」(ex)「立ち出る」ことを意味し、実存主義では、現在をこえて未来の可能性の中へと立ち出でること、また、自己を脱出して世界の存在の中に開かれていることなどと解釈される。歴史的には、中世のスコラ哲学で、物が「何であるか」をあらわす本質(essentia〔ラ〕)に対して、物が「存在する事実」をあらわす現存(esxistentia〔ラ〕)をさす言葉で、実存主義はこれを人間存在の事実をあらわす言葉として用いた。〕

    ってあった。

    ここに書いてある「ひと」っていの、ハイデガーのいう[Das Man]のことなのかわかんない。
    雰囲気的にわたしの言う「実存」のとはなんか違う感じ。

    ちょっと書き留めて置くことにした。




引用返信/返信 削除キー/
■18032 / inTopicNo.66)  Re[35]: ついでに、
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/27(Wed) 20:10:11)
    ついでに、

    メルポンは「身振りの了解」のように「了解」っていうの使って(訳されて)る。「理解」とかそういうんじゃなくて。ここんとこちょっと気になってた。
    『存在と時間』のなかでも「了解」っていう語が使われていたり、道具的存在者に対する現存在の気遣いを「配慮的な気遣い」とか、他者に対する現存在の気遣いを「顧慮的な気遣い」とか、言ってる。第32節には「了解と解釈」について書かれてる。

    で、わたしがなんとなく思っていた語の意味をネットで調べたのを書き留めて置くことにする。

    「了解」:事情を思いやって納得すること。
    「解釈」:言葉や文章の意味・内容を解きほぐして明らかにすること。またその説明。物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること。
    「気遣い」:あれこれと気をつかうこと、こころづかい。よくないことが起こるおそれ、懸念。
    「配慮」:心をくばること。心づかい。
    「顧慮」:ある事をしっかり考えに入れて、心をくばること。「相手の立場を顧慮する」
    「心遣い」:あれこれと気を配ること、心配り。祝儀、心づけ。(今現在)相手が自分に対し、まごころや思いやりの気持ちを示してくれた時に使われる。
    「気配り」:あれこれと気を使うこと。手抜かりがないように注意すること。
    「看取」:見て取ること。見てそれと知ること。察する。

    あと、「学問」の「学」なんだけど、わたしのばあい、わたしにわかりやすい意味として〈見えるようにさせること〉(あ、これ、ハイデガーのからね)ってしてる。
    〈見えるようにさせること〉って、「身振り」がそうだと思う。「身振り」っていうのは〈言語、行為、表情、しぐさ、生理的変化〉などの総称ね。
    言葉にして表現すること、喋ったり、書いたりして、表言するっていうことは〈見えるようにさせること〉の手段の一つってわたし見てる。だから逆に〈見えるようにさせること〉は言語だけじゃないっていうこと。

    “わたしのため”にでごめんね。もっともここでのお喋りはほとんどが“これ”だし〜。

    ひと段落かな。

引用返信/返信 削除キー/
■18031 / inTopicNo.67)  Re[34]: わたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/27(Wed) 20:02:17)
    『存在と時間』の「世界内存在」「現存在」を見てきたんだけど、そろそろわたしのまとめとく。っていうか、ハイデガーのわたしのを、ん〜ん、ハイデガーのを手引きとしながらもそこから離れて、現象学のわたしの、みたいなのかな?

    (1)「現存在」は「人間」のことのようだけど、わたしこれを「私」ってしちゃう。
    No17677(5)に〔存在の意味の根底を切り開こうとした基礎的存在論の試み〕ってあるから、
    「現存在の存在」を、〈現存在の存在の意味〉ってして見ると、
    〈「私」の存在の意味〉について、とも見れる。

    (2)「phenomenon現象」を、「おのれを示す当のもの」(これ、ハイデガーが言ってる)という意味として、「存在」を「現象」ってしちゃう。
    「現存在の存在」は、〈現存在の現象〉ってなって、〈現存在の、おのれを示す当のもの〉ということになる。(1)から、〈「私」の、おのれを示す当のもの〉とか、〈「私」の、おのれを示す当のもの、の意味〉ってなる。

    (3)「実存」を強調して、「私」を「実存私」ってすと、
    〈「実存私」の、おのれを示す当のもの〉ってなる。
    「実存私」には、〈世界内存在――世界における(への)存在〉、〈生活世界内実存〉、〈そのつど私のもの〉、〈存在しなければならない(この場合の「存在」というのは〈生存〉)〉、みたいな意味が入ってることにする。
    で、わたし「私」を「世界内実存私」ってしちゃおっかな〜?

    (4)ハイデガーは、【現存在の存在の実存論的な意味は気遣いなのである】って言ってる。
    これ、わたしにおいては、
    〈「世界内実存私」の、おのれを示す当のものの意味は、気遣いである〉
    ってなった。でも、「気遣い」なのかな〜?とも思う。

    このようなことが、ハイデガーのを読んでるうちに、わたしに思われたことかな。

    ハイデガーのから、「現象」って言うの、[phainomenon]の意味で見ることにした。
    そして「現象学」っていうのは、「おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身のほうから見えるようにさせるということ」っていう意味としたんね。
    そうすると、メルポンの「知覚の現象学」は、「知覚の、おのれを示す当のものを、そのものがおのれをおのれ自身のほうから示すとおりに、おのれ自身のほうから見えるようにさせるということ」っていうことになる。そう見ると、たしかにこんな感じを受ける。

    でね、ちょっと思ったんだけど、
    「私」の現象学
    っていうのもいいかも、って。

引用返信/返信 削除キー/
■17952 / inTopicNo.68)  Re[33]: 日常的現存在
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/24(Sun) 13:09:27)
    わたしが読んでる『存在と時間U』の中から。

    B 現の日常的存在と現存在の頽落
    【世界内存在の開示性の実存論的な諸構造へとさかのぼりつつ学的解釈は、或る種の仕方においては、現存在の日常性を見失ってしまった。分析は、現存在の日常性というこの主題的に発端に置かれた現象学的地平を、ふたたび獲得し返さなければならない。いまや次のような問いが生ずるのである、すなわち、世界内存在が日常的な世界内存在として世人という存在様式のうちにおのれを保持しているかぎり、この世界内存在の開示性の実存論的な性格はいかなるものなのであろうか、というのがその問いである。世人には、或る種別的な情状性や、或る特殊な了解すること、語ること、および解釈することが固有なのであろうか。これらの問いに対する解答は、現存在が差しあたってたいていは世人のうちに没入しており、世人によって支配されているということ、このことをわれわれが想起するなら、それだけますます緊急となる。現存在は、被投された世界内存在としては、まさしく差しあたって世人の公共性のうちへと被投されているのではないだろうか。またこの公共性は、世人の種別的な開示性を意味する以外に何を意味するのであろうか。

    了解することが、第一次的には、現存在の存在の存在しうることだと把握されなければならないなら、世人に帰属する了解することと解釈するこの分析から取り出さざるをえないのは、現存在はおのれの存在のいかなる諸可能性を世人として開示してしまっており、我がものとしてしまっているのかということ、このことなのである。だが、そうだとすれば、これらの諸可能性自身が、日常性のなんらかの本質上の存在傾向をあらわにしてくれる。さらに最後に、この日常性は、それが存在論的に十分究明されるなら、現存在のなんらかの根源的な存在様式を露呈させるにちがいないのだが、しかも、その根源的な存在様式にもとづいて、被投性という暗示されていた現象がその実存論的な具体化をうけて提示されうるにいたるというふうに、露呈されるにちがいない。

    差しあたって要求されているのは、世人の開示性を、言いかえれば、語り、視、および解釈の日常的な存在様式を、特定の諸現象で看取されうるようにすることなのである。それらの諸現象に連関して、次のような注意をしておくのも無駄ではあるまい。すなわち、ここでの学的解釈は純粋に存在論的な一つの意図をもっているのであって、日常的現存在についての道徳的批判や「文化哲学的」な野望とは、無縁であるという注意が、それである。】

    「頽落」をネットで調べたら、「くずれ落ちること」ってあった。

    ハイデガーは、「現存在の存在」について考える(「現存在の実存論的分析論」?)とき、「日常的現存在」(現存在の日常的な存在様式、世人、ひと、Das Man)を端緒(物事の始まり、いとぐち、手がかり)としてるようにわたしには見える。
    やっぱこれって、メルポンの、「非反省的な生こそ、反省の出発状況」である、っていうのと似てる気がする。
    そして、「非本来性」であろうが「本来性」であろうが、「そのつど私のものである」、って言ってるんじゃないかな〜?

    このようなことが、
    No17664でハイデガーの抜粋したところ、
    No17677の(8)(9)に書かれていること、
    の意味なんかも?

    ハイデガーは、「存在者」じゃなくて、「存在」そのものを問うているよう。で、そう問うているのは誰かっていうと、「現存在」(人間)なのよね。
    「現存在」を「私」ってして見たとき、「存在とは何か」と問うてるのは「私」で、けっきょく彼はその「私」について考えてたんじゃないかしら?

    だいたいこんな感じでわたしに見えてきたかな?

引用返信/返信 削除キー/
■17950 / inTopicNo.69)  Re[32]: 「ひと」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/24(Sun) 10:29:50)
    No17677の(8)によると、
    ハイデガーは、「世界内存在する現存在の存在」には二つの様態、「本来性」と「非本来性」があるとしてるみたい。

    ウィキに次のようなことが書かれてあった。
    〔ダス・マン(ドイツ語:Das Man)とは、マルティン・ハイデガーによる哲学の概念であり、「世人」とも訳される。人間というのは個としての死が必然であるということを自覚せざるを得ない能力を持っており、主体的に生きることが運命付けられている存在であるにもかかわらず、このことを考えずに紛らわして過ごしている人間のことを言う。社会において生きる人間というのは、他者とは道具的に出会うということが多く、これは仕事中の他者と仕事相手として出会うということである。ここでは他者は自らの便宜のためであり、自らも他者の便宜のために道具的に存在しているということである。人々はこのような公共的な世界での生活に埋没し、気晴らしを楽しみ、時間を潰しながら生きているわけであるが、ハイデッガーはこのような生き方は本来の人間らしくない生き方であり、これを頽落と表現し、このような生き方をしている人々のことをダス・マンと表現した。このダス・マンという言葉は、人間を非人間的に表現する言葉が名詞化されているということであり、人間ならば誰であってもかまわないという生き方が暗示されている。〕

    この[Das Man]の、[Man]は「人」で、[Das]は「中性」っていう意味があって、またこれ、「ひと」とも訳されてるみたい。(NHK高校講座倫理より)

    簡単に見て、
    「Das Man」(ダス・マン)→「ひと」=「世人」=「非本来的な自己」=「日常的現存在」
    っていうことになるのかな。

    じゃ、現存在の「本来性」は?
    (9)では、〔現存在の本来性は、非本来的日常性として別物ではなく〕って書いてある。
    『存在と時間』を見てたら、これに関係すると思われるところがあったので、次に書き写してみま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■17943 / inTopicNo.70)  Re[31]: ハイデガーのとメルポンの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/24(Sun) 08:59:04)
    おっはようございま〜す。
    きょうは最近わたしが見、考えたことをいっきに表言してみよっかな〜って。

    No17664で、抜粋したところ、
    【現存在は、分析の出発点においては、或る特定の仕方で実存する差別のすがたにおいて学的に解釈されるべきではけっしてなく、現存在が差しあたってたいてい無差別にとっているすがたにおいて暴露されるべきである。現存在の日常性というこうした無差別のすがたは、何ものでもないものではなく、この存在者の一つの積極的な現象的性格なのである。こうした存在様式から出て、こうした存在様式のうちへと帰るのが、すべての実存することのありのままのすがたなのである。われわれは現存在のこうした日常的な無差別のすがたを平均的となづける。】

    ここんとこ、もうちょっとわたしに見えるようにしとく。

    No17685で、パニさんのおかげで、
    メルポンが言ってた
    【哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。】
    を想い出したんだけど、
    わたしハイデガーの「日常的な無差別のすがた」を、メルポンの「非反省的な生」として見たのかもしれない。
    で、
    ハイデガーの「こうした存在様式から出て、こうした存在様式のうちへと帰るのが、すべての実存することのありのままのすがたなのである」と、メルポンの「非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある」が、重なってたのかもしれない。

    「現存在の日常的な無差別のすがた」――(日常的現存在)「において暴露されるべき」であり、(日常的現存在)は「何ものでもないものではなく」、「一つの積極的な現象的性格なのである」、ってしてるんよね。

    これって、
    No17659の、
    「現存在の存在はそのつど私のものである」にも関係してる気がする。

    このことに関して、
    No17677の(8)、(9)、
    (8)【世人は、日常性の「最も実在的な主体」として露呈する】(p332)
    ハイデガーは、世界内存在する現存在の存在を、とりわけ本来性と非本来性という二つの存在様態に即して分析した。その際、日常的現存在は、道具の指示関連である適所性を有意義性としての世界にもとづいて了解するが、その時同時に、その日常的現存在の自己は、世の中のひとに支配された非本来的な世人自己であるとハイデガーは見た。

    (9)【本来的自己存在は、世人から分離されたところの、主体の一つの例外状態ではなく、本質上の実存範疇としての世人の一つの実存的変様なのである】(p335)
    現存在の本来性は、非本来的日常性として別物ではなく、むしろ、それを本来的に変様させたところにはじめて成り立つ。道具や他者たちとのかかわる世界内存在を、現存在は決して失うことができないからである。

    と絡まっている気がする。

    これについてのわたしの物語りは、つづきま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■17919 / inTopicNo.71)  Re[30]: :あれ?
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/23(Sat) 17:44:57)
    あれ? なんだっけ?
    なんでわたしの物語り、ハイデガーの「現存在」になっちゃてるの?
    ・・・う〜ん、思い出した!
    メルポンの[etre au monde]「世界における(への)存在」から、ハイデガーの「世界内存在」へ。
    No17078だった。
    そこに、「世界内存在は現存在の一つの根本機構」ってあったから、「現存在」へ、だった。

    ハイデガーのは「存在論」とか「現存在の実存論的分析論」っていう「論」見たいだから、わたしちょっと引いちゃうんだけど、メルポンのいう素朴的な私から見て見よ〜、って思ったんだった。

    もう少しハイデガーの見ていくことにする。

引用返信/返信 削除キー/
■17917 / inTopicNo.72)  Re[29]: :ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/23(Sat) 16:34:19)
    ■17869、パニさん、ありがとございま〜す。

    第49節からのちょっと見ました。わたしまだここまで読み進んでないです。
    わたしのここでの物語りはハイデガーのが主じゃないんだけど、後でしっかり読んでみよっと。

    ひとまず、パラパラって読んだなかで、今目にとまったところ、書いとく。
    【死に関する生物学や心理学や弁神論や神学といったもののさまざまな問いよりも、実存論的分析のほうが、方法的に前に位している。】(第49節)
    【実存論的問題は、ただただ、現存在の終わりへとかかわる存在の存在論的構造を明らかにすることだけをめざすのである。】(第49節)
    【死へとかかわる存在が根源的にまた本質上現存在の存在に帰属しているとすれば、死へとかかわる存在はまた――たとえ差しあたっては非本来的にではあるとしても――日常性のうちでも、提示されうるのでなければならい。】(第50節)


    世界内存在ハイデガーが生きた生活世界は戦争だった。
    彼の場合、私の生というより、私の死が切実(心に強く感じるさま、身近に深くかかわっているさま)だったのかもしれない。
    あ、こう言うのって、実存的じゃなかった。わたしハイデガーが生きた世界と全然違うから、彼のから見たらわたしなんかのお気軽なもんかも。

    私の生は確実に死に向かって歩みを進めている。

    こう思うとなんか不安になるけど、
    こういうことから「現存在の存在」が問題となってくるのかな?

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -