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Re[15]: :現存在(2)
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/16(Sat) 16:11:11)
| No17589で書いたような意味での、現象とか現象学に関心がない人にはどうでもいいおはなし。 もっともハイデガーのが現象学であるのかどうかわたし知らない。 ハイデガーの「現存在」つづけま〜す。
【…現存在がそれへと〔5〕これこれしかじかの態度をとることができ、またつねになんらかの仕方で態度をとっている存在自身〔6〕を、われわれは実存と名づける。…】(第4節) 訳注 〔5〕著者の自家用の欄外注記によれば、「それへと」のあとに、「みずからに固有のものとしての〔それへと〕」という語句が、挿入されている。つまり、後年のハイデガーは、「存在」そのものと、現存在に固有に属する「存在〔実存〕」とをより明確に区別しようとしているわけである。 〔6〕著者の自家用の欄外注記によれば、本文箇所の「存在自身[Das Sein selbst]」の定冠詞Dasを、中性の指示代名詞Dasjenigeに替えるよう、後年のハイデガーは指示している。つまり、「存在」一般と区別して、本文箇所で規定されている「実存」としての「あの」存在をいっそう明確に特定化して、論点を浮き彫りにしようと提案しているわけである。
【…現存在は、おのれ自身を、つねにおのれの実存から、つまり、おのれ自身であるか、あるいはおのれ自身でないかという、おのれ自身の可能性から、了解している。この二の可能性のうちにへとおちいるか、それともそのつどすでにそのうちで成長してきたかのいずれかである。実存は、それをつかみとるという仕方において、ないしはそれを逸するという仕方において、そのつどときどきの現存在自身によってのみ決定される。実存の問題は、つねに、実存すること自身をつうじてのみ決着をつけられるべきなのである。そのさい指導的な現存在自身の了解内容をわれわれは実存的了解内容と名づける。実存の問題は現存在の一つの存在的な「関心事」なのである。この存在的な「関心事のためには、実存の存在論的構造が理論的に見通されている必要はない。この存在論的構造に対する問いは、実存を構成している〔7〕当のものを解釈し分けることをめざすのである。これらの諸構造の連関をわれわれは実存性と名づける。この実存性の分析論は、実存的了解という性格をもっているのではなく、実存論的了解という性格をもっている。現存在の実存論的分析論という課題は、この課題の可能性と必然性に関して、現存在の存在的機構のなかでその下図が描かれているのである。」(第4節) 訳注 〔7〕著者の自家用の欄外注記によれば、本書における自分のねらいは、本文箇所にあるように、実存を「構成している」ような存在論的構造を際立たせることにあるのだから、その試みは、「したがって、何らの実存哲学ではない」と記されている。ハイデガーのめざすものは、個別の具体的な実存の振る舞い方の記述ではなく、実存一般を「構成している」「存在論的な諸構造の連関」、すなわち「実存性」の解明にあり、しかも、それは存在了解を含み、存在の意味(真理)と深くかかわっている。自分の思索は、実存哲学というよりは、むしろ当初から一貫して、存在の思索であったのだと、後年のハイデガーは主張しているわけである。
「現存在」にかかわる、彼の言う「実存」「実存了解内容」「実存性」の意味が書かれてあるところを抜粋して見た。
そして、ハイデガーは【実存が現存在を規定する】って言ってる。
訳注〔7〕についてなんだけど、メルポンの、 No11467の 【一般に考えられたように、現象学的還元は、観念論的哲学の定式であるどころか、実存哲学の定式なのである。】 を想い出した。
どうやら、「実存」といっても、「個別の具体的な実存の振る舞い方」のと「実存一般」のは区別されるみたい。 ハイデガーの場合、後者の〔実存一般を「構成している」「存在論的な諸構造の連関」、すなわち「実存性」の解明〕みたい。これはメルポンの言う「実存哲学の“形式”」に相当する?
で、わたし「実存哲学」と「実存哲学の形式」とは区別しておくことにする。前者は「個別的」で後者は「一般的」なものとして。 たとえば、「イチロウの哲学」っていったら「実存哲学」なんかもしれないけど、やっぱこれって「実存哲学の形式」(一般的なもの)じゃない気がする。こんな感じに。
まだまだつづくよ
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