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No15221 の記事


■15221 / )  Re[16]: 原初的世界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/25(Sun) 16:55:28)
    『デカルト的省察』第50節、書き写しね
    【…ここで次のように仮定してみよう。私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体(ケルパー)が現れ、それは原初的な物体としてもちろん、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体(ライプ)が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体(ケルパー)である。だから、そこにある物体〔他の人間〕はなるほど身体として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。しかもそれは、それ特有の身体性という術語を現に直接的に、それゆえ原初的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理(32)〕なのではない。ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。…】(FD-7)

    【統覚(33)】の訳注は、
    No11393。わたしがここで話題にしようとしてるのはそこじゃなくて、自と他と身体の連関について。

    【類比推理(32)】の訳注は、
    〔Analorgiechluß:類比を使った推論(Schluß)という知的操作である。他者(他の人の心)についての知を類推説によって定式化したのは、J・S・ミルであったが、それに対して批判を加え、「いかなる推論でもなく、或る根源的で、それ以上遡ることのできない本能的事実」として「感情移入」を主張したのがリップスであった。〕

    【このことを原初的に還元して言えば】は、現象学的還元して乳幼の頃に遡って、そこにおいて見る、っていうことだとわたし見てる。
    あ、ここで「乳幼のころの私」(生後5か月からの0歳児の私)を「乳幼私」って言い表すことにする。

    【物体(ケルパー)】と【身体(ライプ)】についてはほかのところで訳注があったので、書き写しておきます。
    〔ラテン語とフランス語で思考・執筆したデカルトにとって物体と身体はともに一語(ラテン語ではcorups、フランス語ではcorps)で表される。デカルトの著作の邦訳を見ると、文脈によって「物体」と「身体」が訳し分けられているが、原語は一つなのである。それに対し、ドイツ語には、ラテン語・フランス語と言語を同じくする「物体Korper」(これも「身体」を表す場合もあるが)とは別に、「身体Leib」」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)、フッサールは早い時期から(1907年の講義録『物と空間』)、両者を使い分けていた。因みに、仏語では、Korperには corpsを、Leibにはcorps organique(有機的物体または生体)を、英訳では、前者にbodyを、後者にはanimate organique(生きた有機体)をそれぞれ当てている。〕(Korperのoの上の点々は省略してます)

    【私の原初的自然の知覚の場】の【自然の】っていうのも関心ある。

    No14911で書いた「fremd」。
    乳幼私にとって「fremd」(見知らぬもの)っていう語、いいかも。それがまだ何であるかわからない状態のもの。
    【或る物体(ケルパー)】は乳幼私にとってfremd。そしてそのfremdは、乳幼私には、まず「物体」、しかも「動く物体」として見られているのでは、ってフッサールは見ているんだと、わたしは見ている。

    長くなっちゃったんで、このつづきまた後で。

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