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■19229 / inTopicNo.1)  Re[100]:  『論考』の
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/22(Mon) 19:22:49)
    「語りえぬもの」が書いてあるところ、また見つけちゃったよ〜。
    序に書いてあった

    【本書は哲学の諸問題を扱っており、そして――わたしの信ずるところでは――それらの問題がわれわれの言語の論理に対する誤解から生じていることを示している。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のようなに要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。】

    【4・1212示されうるものは、語られえない。】
    これもそうかな?
    これが
    6・522だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
    につながってくるのかな?

    「ナンセンス」が出てくるところ、6・54のほかの書いとく。


    【かくして、本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきであろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれは限界の両面を思考できなければならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。】

    【4・003哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。哲学者たちの発するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の理論を理解していないということに基いている。
    (それらは、「善と美はおおむね同一であるのか」といった問いと同類である。)
    そしてもっとも深遠な問題が実はいささかも問題ではなかったということは、驚くべきことではない。】

    【4・1274形式的概念の存在を問うことはナンセンスである。いかなる命題もそのような問いには答ええないからである。(それゆえ、たとえば「分析不能な主語−述語命題は存在するか」と問うことはできない。)】

    【4・461命題は、それが語っていることを示しているが、トートロジーと矛盾は、それが何も語らないことを示している。トートロジーは無条件に真であり、それゆえ真理条件をもたない。そして、矛盾は真となる条件をまったくもたない。トートロジーと矛盾は無意味である。(54)
    (それはあたかも、日本の矢が正反対の方向に飛び去ったあとの点のようである。)(たとえば、いま雨が降っているか降っていないかどちらかだということを知っていても、それで私が天気について何ごとかを知っていることにはならない。)】
    〔訳注(54)無意味/ナンセンス
    「無意味(sinnlos)」と「ナンセンス(unsinnig)」を区別しなければならない。
    たとえば「タマは2で割り切れる」や「白さがポチにあくびをした」のような論理形式に違反した記号列はナンセスと言われる。他方、トートロジーも矛盾も論理形式に違反した記号列ではない。とはいえ、トートロジーも矛盾も世界について何ごとかを語るものではない。そこでナンセンスではないが、無意味、と言われるのである。〕

    【4・462しかしトートロジーと矛盾はナンセンスではない。両者とも、いわば「0」が算術の記号体系に属しているように、記号体系に属している。】

    【5・5303ひとことで言うならば、こうである。二つのものについて、それらが同一であるとかたることはナンセンスであり、一つのものについてそれが自分自身と同一であると語ることは、まったく何ごとも語っていない。】

    【5・5571ア・プリオリな仕方で要素命題を挙げることができないのでれば、要素命題を列挙しようとする試みは、最後には〔要素命題の総体という限界に突き当たり〕あからさまなナンセンスに行きつくしかない。】

    【6・51問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。すなわち、問いが成りたつところでのみ、疑いも成り立ちうるのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。】


    「無意味(sinnlos)」と「ナンセンス(unsinnig)」ってして区別して見る、っていうのはいいかも。


引用返信/返信 削除キー/
■19222 / inTopicNo.2)  Re[99]:  『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 21:44:19)
    ■19220 、あ、ごめん。

    6・54私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)
    には「語りえぬもの」は入ってない。つい書き写してしまったので、消去しといて。

    お詫びに「ナンセンス」が出てきてるところを後で調べて書き出してみますね。

    ま、もっとも『論考』に関心がない人にとってはどうでもいいことなんだけど。
引用返信/返信 削除キー/
■19220 / inTopicNo.3)  Re[98]:  『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 21:07:09)
    「語りえぬもの」について記述しているところの抜粋。

    No19217に書いた、
    5・61の「思考しえぬことをわれわれは語ることもできない」
    5・631の「この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである」
    のと、他に見つけたのが、

    6・423倫理的なものの担い手たる意志について語ることはできない。
    他方、現象としての意志はただ心理学の興味を引くにすぎない。

    6・522だがもちろん言い表しえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。

    6・53語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は――それゆえ哲学とは関係のないこと以外は――何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はひとを満足させないだろう。――彼は哲学を教えられている気がしないだろう。−―しかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。

    6・54私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(いわば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)

    そして、
    7語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
    ね。

    また、「神」という語が使われてるところとして、
    6・432世界がいかにあるかは、より高い次元からすれば完全にどうでもよいことでしかない。神は世界のうちには姿を現わしはしない。
    ここでははっきりと「神」っていう語を使ってる。
    ってすると、ウィトちゃんが表言してるあの「主体」っていうの、なに?
    「主体」は「主体」だよかな?ま、それはそれでいいんだけど。〈私〉〈私の身体〉〈神〉ではないことは確かね。

    わたし思ったんだけど、
    ウィトちゃんの根本的立ち位置は、6・53なんじゃないかって。





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■19218 / inTopicNo.4)  Re[97]:  『論考』の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 20:16:43)
    ■19217、これ簡単、「主体」をただ〈私〉に置き換えるだけでいいから。

    5・631 思考し表象する〈私〉は存在しない。
    「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち〈私〉を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において〈私〉が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが〈私〉なのである。

    5・632 〈私〉は世界に属さない。それは世界の限界である。

    5・633世界の中のどこに形而上学的な〈私〉が認められうるのか。

    ってなったんだけど、なんなかますます怪しくなってきてる。

    やっぱ、「主体」は〈神〉かな〜。

    でね、7の前を見て見たのね。




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■19217 / inTopicNo.5)  Re[96]:  『論考」の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 20:09:04)
    このところわたしの物語り、『論考』の、になっちゃてるけど、このさいきりのいいところまでと思って。

    『論考』のなかで、わたしの一番の探しものは、
    【7語りえぬものについては、沈黙せねばならない。】ね。

    ウィトちゃんはこれで何を言おうとしてるのかしら?そしてどのようなものを〈語ることができなもの〉とし、どのようなものが〈語ることができるもの〉としてるのか、っていうとかな?

    5・6〜5・633のなかでは「語りえぬもの」と思われるところは、
    5・61の「思考しえぬことをわれわれは語ることもできない」
    5・631の「この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである」
    だと思う。
    彼の「語りえぬもの」というのは、
    5・6から、「思考することができないもの」
    5・631から、「主体」
    になるのかな?
    「主体」っていうの、わたし〈私の身体〉とか〈神〉とかして見たんだけど、本当のところはわかんない。
    素朴的に見ると「主体」っていうの〈するもの〉よね。わたし、この〈するもの〉を一般的に「私」ってしてるんだけど。そうすると、彼の言ってる〈語ることができないもの〉は「私」ってなっちゃう。

    で、次に「主体」を〈私〉として見て見るね。

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■19214 / inTopicNo.6)  Re[95]:  『論考」の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 17:22:27)
    【5・633世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。
    君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されえない。】
    は、

    〔世界の中のどこに形而上学的な〈神〉が認められうるのか。〕ってなる。
    この「世界」を〈事実の総体〉って、さらにこれを〈私たちが暮らすこの世界〉ってして見て、「形而上学」をわたしが見たようなもの、〈私たちが暮らすこの世界を超越した、すべてを成らしめているものを探究しようする学問。〉で見て見ると、
    〔〈事実の総体〉(私たちが暮らすこの世界)〉の中のどこに〈私たちが暮らすこの世界を超越した、すべてを成らしめているものを探究しようする学問〉的な〈神〉が認められうるのか。〕ってなった。

    さ〜て、
    【君は現実に眼を見ることはない。そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されえない。】
    ウィットちゃん、5・631にも「身体」持ちだしてるけど、ここんところおもしろそうなところね。
    彼が〈世界−身体−精神の関係性〉をどのように見ているのか、メルポンのと比較して見るのもおもしろいかもって。

    あと、
    【1世界は成立していることがらの総体である。】
    【2世界は事実の総体であり、そのものの総体ではない。】
    なんだけど、
    1の「成立していることがら」を〈すでに成立していことがら〉ってして見たり、2の「そのものの」を〈神そのものの〉ってして見ちゃたりして。

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■19186 / inTopicNo.7)  Re[94]:  『論考」の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 12:00:37)
    【5・632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。】
    は、

    〔〈神〉は世界に属さない。それは世界の限界である。〕ってなる。
    ここでの「世界」っていうのは、『論考』2で言っているような〈事実の総体〉のことだとして、
    〔〈神〉は〈事実の総体〉に属さない。それは〈事実の総体〉の限界である。〕
    ってなる。
    ということは、ウィットちゃんは〈神〉というのを「限界」というふうに見ているのかな。

    形而上学で見たきたように、わたし〈神〉っていうの、「超越」とか「超絶」というふうに、この世界の”外“にあるようなイメージだったんだけと。

    つづく


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■19185 / inTopicNo.8)  Re[93]:  『論考」の
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/21(Sun) 11:34:35)
    わたしの「形而上学」の意味をわたしに見えるようにしたところで、
    No18993のつづきね。

    『論考』の5・631〜5・633の流れのなかで、
    わたし、まえに「主体」を〈私の身体〉ってして見たんだけど、5・633を見て、「主体」を〈神〉ってして見たらどうなるだろう、ってふと思ったのね。

    ここで言う〈神〉というのは、特定の聖典や教義に基づいた神(たとえばユダヤ教、キリスト教、イスラム教などで言われているような神)じゃなくて、「形而上的なもの」(すべての成らしめるもの)という意味においての名ね。

    で、今度は、5・631〜5・633の「主体」を〈神〉として見ていって見る。何回かに分けてね。

    【5・631 思考し表象する主体は存在しない。
    「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。】
    は、

    〔思考し表象する〈神〉は存在しない。〕ってなる。
    これから、〈神〉は思考し表象はしない。〈神〉というのは思考し表象する存在ではない。って言ってるのかも。

    そして、
    〔「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についての報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わない等が語られねばならないだろう。これはすなわち〈神〉を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において〈神〉が存在しないことを示す方法である。つまりこの本の中で論じることのできない唯一のもの、それが〈神〉なのである。〕
    ってなって、
    「私(←たぶんウィトちゃん)が見出した世界」には〈神〉は存在しない。って言ってるのかも。
    そして、この本(←たぶん『論考』)の中で論じることのできない唯一のもの、それが〈神〉なのである。
    ってなった。
    「私が見出した世界」という本の中に身体を持ち出してるけど、これって、私の身体のすべてが私の意志に従うわけではない、なぜなら私の身体は私によるものではなく、〈神〉(すべての成らしめるもの)によるものだから、とも見れる。

    つづく

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■19164 / inTopicNo.9)  Re[92]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 20:28:03)
    この記述で、「形而上学」についてのわたしの物語りはひとまずおしまいにしま〜す。

    〈すべての根源(成らしめるもの)を探究する〉という学問があって、
    〈すべての根源〉は「形而上的なもの」、〈すべて〉が「形而下的なもの、の」、ということ。
    このような〈すべての根源〉は存在する、とし、
    〈形而下的なすべてのもの〉の成らしめているものが〈形而上的なもの〉。
    こういうのがアリストテレスの「形而上学」っていうことにする。
    だから、わたしが使う「形而上学」っていうのはこういう意味の、っていうことね。

    もっとわたしにわかりやすくして、
    「形而上学」とは、
    〈私たちが暮らすこの世界を超越した世界(あの世界)というのが存在し、この世界のすべてを成らしめているものがあの世界である、という見方にもとづいてあの世界を探究しようする学問。〉
    もっと簡単に、
    〈私たちが暮らすこの世界を超越した、すべてを成らしめているものを探究しようする学問。〉

    こう見たとき、わたしが読んでるメルポンののなかに形而上学っていうのが出てこない理由がわかった感じ。
    メルポンのは、〈すべての根源(成らしめるもの)〉を探究してるんじゃなくて、
    No18774(2-p88)にわたしが見たような(違うのかもしれないけど)、
    (a)人間考察。人間と世界とを理解すること。
    (b)生(なま)の意識を見ようとすること。
    だからなんかな。



引用返信/返信 削除キー/
■19158 / inTopicNo.10)  Re[91]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 18:41:30)
    ここでまたネットのに戻って、

    形而上学的問題として「存在論」っていうのがあるみたい。

    No19069の(1)の(b)に、
    〔第一哲学を存在全般の究極的な原因である普遍的な原理を解明するものであるとしたことに由来する。そして存在をめぐる四つの意味を検討してから存在の研究は実体(substance)の研究であると見なして考察した。〕

    ってあるから、アリストテレスにおいては「存在の研究は実体の研究」ということみたい。

    でね、「実体」の意味わかんなかったから、ネットで調べて見たよ。
    「実体」
    1.真に実在するもの。
    2.すべての存在の基本に、これを支えるものとして考えられる基本存在のこと。
    3.ほかのものに依存せず自己自身によって存在するもの(デカルト)
    1に「実在」ってあるけど、
    「実在」
    認識主体から独立して客観的に存在するとされるもの。
    っていうことみたい。よくわかんないけど、こういうものみたい。

    形而上学的な問題の研究について、
    とりあえずウィキので、抜粋してないところを書きだして置くね。

    (e)形而上学的な問題の研究であれば、古代ギリシアに遡ることができる。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれる古代ギリシアの哲学者は、万物の根源を神でなく、人によってその内実は異なるにせよ何らかの「原理(アルケー)に求めたのであって、哲学はもともと形而上学的なものであったともいえる。
    (f)ソクラテスやプラトンも、現象の背後にある真因や真実在、「ただ一つの相」を探求した。
    (g)アリストテレスの形而上学は、中世のスコラ学では、創造者たる神を万物の根源であるとして、神学的な神の存在証明を前提とし、普遍、存在、自由意思などなどの形而上学的問題を取り扱ったのである。
    (h)デカルトは、スコラ学的な神学的な神の存在証明を否定し、絶対確実で疑いえない精神を、他に依存せず存在する独立した実体と見、その出発点から、理性によって神の存在(および誠実さ)を証明するという方法をとった。
    (i)ジョン・ロックはデカルトの生得説を批判したが、やはり神の存在は人間の理性によって証明できるとした(いわゆる宇宙論的証明)。
    (J)人間自身の理性的な能力を反省するカントは、神の存在証明は二律背反であるとして理性の限界を示し、理論的な学問としての形而上学を否定した。カントは、その著書『プロレゴメナ』において、それまでの形而上学を「独断論」と呼んで批判し、ヒュームが独断論のまどろみから眼覚めさせたとした。以後、哲学の中心的なテーマは、認識論へと移っていった。

    なんかこうなってくると、もうごちゃごちゃ〜。わたし、こういうの、見て見ぬふりにしとくことにする。
    そしてウィキでは、
    (k)形而上学を定義することの困難の一部は、何世紀も前にアリストテレスの編者に根源的に形而上学的と考えられなかった問題が、次々に形而上学に加えられてきたことにある。また、何世紀にも渡って形而上学的と考えられていた問題が、概して現在において、宗教哲学、心の哲学、知覚の哲学、言語哲学、科学哲学といった、その独特の分離した副次的主題へと追いやられている点にある。
    って書いてあった。

    あ、何が言いたいかっていうと、〈すべての根源〉と同じように、形而上学的問題の存在論(=存在の研究は実体の研究)においても、人によって「実体」をどのようなものとするか、が違っている、っていうこと。

    自分が使ってる用語の意味をち〜ゃんと説明してない哲学者っているよね〜。わたしそういう人のことを、ダメ・フィロソファーって呼ぶことにした。
    あと、自分が使ってる用語の意味を説明(定義?)してるんだけど、その物語の中でその意味とは違う意味で使っちゃてる人、こういうのもダメ・フィロソファーね。ん〜ん、独我主義者はこれ当然、って思ってるから、この典型例ね。

引用返信/返信 削除キー/
■19156 / inTopicNo.11)  Re[90]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 17:57:15)
    No19151のつづきね。

    〔他方、脅威にさらされた信仰は、どうなるのであろうか。もちろん、ながい間の浸透によって、あたかもほんらいの本能のようにさえなってしまったキリスト教的信仰は、民衆のなかにあっては容易に揺らぐものではなかった。しかし、自然科学の進歩は、いままでのような姿の信仰に、動揺を与えないではおかない。まして、自然学・哲学・神学など、いやしくも学といわれるものにたずさわる者には、深刻な影響を及ぼさないではおかない。そこで哲学者たちは、自然科学と信仰との調和統一を考えた。すなわち、かれらは、神・霊魂・世界全体など、形而上的なもの(われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの)を、例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。そして自然科学と矛盾しないことを示そうとした。例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。つまり、合理的な形而上学を目指したわけである。「われは考える、ゆえにわれある」として、考えるわれを根本においたデカルト(1596~1650)は考える我をもとにして神を考えた。たがいに無関係な無数の単子(モナド)によって世界を説明したライプニッツ(1646~1716)は、単子の間における神の予定調和を説いた。スピノザは、自然そのものを神とみなした。ニュートンもまた、自然の底に神の神秘をみた。(もちろん、スピノザは、自然の秩序そのものを神とし、自然の秩序のそとに、それと異なった神を考えなかった。それゆえに彼は自分の属するユダヤ教会からは破門され、無神論者のそしりをうけ、主著『論理学(エチカ)』は、生前には刊行することができなかった。)〕

    ちょっとまとめて見ると、

    〈形而上的なもの〉とは、われわれ人間の感性的経験では知りえないもので、経験的現象の奥にあると考えられるもの。およそこの世にあるありとあらゆるもの(〈形而下のもの〉)の上に君臨し、人間も含めてこの世のいっさいをつくり、それをすべ、それを統一しているようなもの(神的なもの)。

    このようなことになるのかな。

    この世(界)、あの世(界)、っていう見方と絡めて見て見ると、
    形而上的なもの=あの世(界)
    形而下的なもの=この世(界)
    そして、このふたつの世界の関係性は、この世(界)(形而下的なもの)のすべての成らしめているものがあの世(界)(形而上的なもの)、って見ることもできる。

    ちょっと中島さんの思い出した。
    カントの「超越論的」と「超越的」とは不可分の概念で、「超越的」というのは神や死後の魂の永遠などの人間に認識を超えるものに関すること、っていうのを。

引用返信/返信 削除キー/
■19151 / inTopicNo.12)  Re[89]:  「形而上学」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 16:18:47)
    ここでネットのじゃなくて、小牧治さんの「カント」っていう本のなかからところどころ抜粋して見ます。
    前にもどこかで書いたと思うんだけど、いいよね。長いから2回に分けて。

    〔若き哲学者の徒カントは、自然研究ないし自然哲学者として出発した。初期の論文は、ほとんど数学・物理学・天文学・自然地理学などに関するものであった。それは、当時の学界の風潮であった。近代になってから、自然科学は、自然現象を、あくまで機械的・力学的・科学的に捉えようとする。この当時の自然科学は、経験的は実験や実証を用いることによって、さらに数学を適用することによって、いちじるしい進歩をとげた。これに反して、キリスト教的信仰は、自然ないし自然現象を、神によって説明しようとする。このように自然科学と信仰とは、その考え方や方法において、およそ相容れないものといえるだろう。〕

    〔自然科学の発達は、信仰にとって、また信仰をよりどころにしてきた哲学にとって、大きな脅威であった。哲学も学である以上、自然科学の影響を受けないわけにはいかなかった。学の典型というべき数学の方法が、哲学にもの適用された。スピノザ(1632〜77)の『幾何学的な方法によって論証された倫理学で結論を導き出してくるごとく、哲学もまた、そういう方法で論じられた。
    他方、信仰も脅威にさらされた。ながい間の浸透によって、あたかも本来の本能のようにさえなってしまったキリスト教的信仰は、民衆のなかにあっては容易に揺らぐものではなかったが、自然科学の進歩は、いままでのような姿の信仰に、動揺を与えないではおかなかった。まして、自然学・哲学・神学など、学といわれるものにたずさわる者には、深刻な影響を及ぼした。そこで、哲学者たちは、自然科学と信仰との調和統一を考えた。すなわち、彼らは、神・霊魂・世界全体など、形而上的なものを、例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。そして、自然科学と矛盾しないことを示そうとした。つまり、合理的な形而上学を目指したわけである。〕

    〔「われは考える、ゆえにわれある」として、考えるわれを根本においたデカルト(1596~1650)は考える我をもとにして神を考えた。互いに無関係な無数の単子(モナド)によって世界を説明したライプニッツ(1646~1716)は、単子の間における神の予定調和を説いた。スピノザは、自然そのものを神とみなした(スピノザは、自然の秩序そのものを神とし、自然の秩序のそとに、それと異なった神を考えなかった。それゆえに彼は自分の属するユダヤ教会からは破門され、無神論者のそしりをうけ、主著「エチカ」は、生前には刊行することができなかった。)。ニュートンもまた、自然の底に神の神秘をみた。そして信仰の深い自然研究者であるカントも同じような流れのなかにあったのである。〕

    〔自然科学の発達は、信仰にとって、また信仰をよりどころにしてきた哲学にとって、大きな脅威であった。かつて中世においては、すべては神にもとづき、すべての権威は神に由来した。神への信仰にもとるような科学は許されなかった(地動説をとなえたコペルニクスやガリレイの悲劇を考えてみよ)。そこでは、哲学は、うやうやしくしく神に仕える、神の侍女にすぎなかった(自主的に哲学をしたジョルダノ=ブルーノは、火あぶりの刑に処せられた)。しかし、近代に入って、自然科学は、神から解放され、解放されることによって、独自の法則によるいちじるしい発達をとげた。そこで、哲学も、学である以上、自然科学の影響を受けないわけにはいかなかった。学の典型というべき数学の方法が、哲学にもの適用された。哲学者スピノザ(1632〜77)の『幾何学的な方法によって論証された倫理学(エチカ)』や、でニュートン(1643〜1727)の『自然哲学の数学的原理』などが、それをしめしているであろう。ただ、そこでは、学の模範とみなされた数学の方法が適用された。そのため近代自然科学の方法として重要な意味をもつ、経験的な実験・実証の精神は、生かされなかった。幾何学が、公理・定理から論証によって結論をみちびきだしてくるごとく、哲学もまた、そういう方法で論じられた。〕

    デカルトの『省察と反論と答弁』やスピノザの『エチカ』もたしか「公理」とか「定理」っていう仕方で書かれてたと思う。どうしてそんな書き方になっているのか、ここを読んでわかった。

    この本によると、
    カントの生きた世界では、学問は「自然科学」「哲学」「神学」、のよう。
    当時の哲学というのはどうやら〔信仰をよりどころとした哲学〕だったみたい。そして「哲学」と言えば「形而上学」、たぶん。
    で、

    「形而上的なもの」=神・霊魂・世界全体など
    ってなてる。

    つづく

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