□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/17(Wed) 18:14:57)
| なんかまだ『論考』の。またふと浮かんできちゃったから。
5・631 思考し表象する主体は存在しない。 「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
5・632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
の次に来るのが、
5・633世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか。 君は、これは眼と視野の関係と同じ事情だと言う。だが、君は現実に眼を見ることはない。そして、視野におけるいかなるものからも、それが眼によって見られていることは推論されえない。
ね。
No18506で、 わたし「主体」を〈私の身体〉ってして見たんだけど、 5・633を見て、 わたしにちらっとよぎった〈神〉がまた浮かんできた。 「主体」を〈神〉ってして見たらどうなるのかしら、って。 これでちょっと見ていって見ることにする。
その前に〜、「形而上学」って言うの、わたし〈アリストテレスのメタフィジカ(自然科学の後のくるもの)〉、〈神〉?みたなぐらいしか見てなかったんで、「形而上学」ね。
|
|