| 5・62、5・621、5・63 については、めんどくさいし、いいか。
【5・631 思考し表象する主体は存在しない。 「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の意志に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。】 と、 【5・632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。】 についてね。
ここに出てくる「主体」っていうの、「主観」って訳されてないよね。そして、【「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され】って、「身体」が出てきてる。 でね、「主体」の「主」を〈私〉、「体」を〈身体〉として見て、すなわち〈私の身体〉ってして見たのね。 ん?それとも「主」は「神」?ってすると「主体」は「神体」ってなるけど、ま、これはいいわ。
ってすると、5・631は、〔思考し表象する〈私の身体〉は存在しない。〕って言うことになる。
それと、5・632の「世界」っていうのを〈考える(言語の)領分〉ってして見ると、 〔〈私の身体〉は〈考える(言語の)領分〉に属さない。それは〈考える(言語の)領分〉の限界である。〕ってねる。ん〜ん、そうね、そう見ることもできるかな、ってわたし了解できる。
5・631の【これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である】は、〔これはすなわち〈私の身体〉を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において〈私の身体〉が存在しないことを示す方法である〕ってなるんだけど、これよくわかんない。でも、【この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。】は、〔この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが〈私の身体〉なのである。】ってなるから、これもわかる感じ。 ウィトちゃんにとって「語りえぬもの」に〈身体〉も入ってるんかな、って。
メルポンは「身体の理論は知覚の理論である」って言ってる。 だから、「語りうぬもの」は、〈感-知覚〉の領分(世界)って見ちゃったりして。
メルポン派のわたしの見方を書いて見たけど、ウィトちゃんの、わたし好きじゃないから、もういいかな。こんな感じでひとまずおしま〜い。
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