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Re[89]: 「形而上学」
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□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/11/20(Sat) 16:18:47)
| ここでネットのじゃなくて、小牧治さんの「カント」っていう本のなかからところどころ抜粋して見ます。 前にもどこかで書いたと思うんだけど、いいよね。長いから2回に分けて。
〔若き哲学者の徒カントは、自然研究ないし自然哲学者として出発した。初期の論文は、ほとんど数学・物理学・天文学・自然地理学などに関するものであった。それは、当時の学界の風潮であった。近代になってから、自然科学は、自然現象を、あくまで機械的・力学的・科学的に捉えようとする。この当時の自然科学は、経験的は実験や実証を用いることによって、さらに数学を適用することによって、いちじるしい進歩をとげた。これに反して、キリスト教的信仰は、自然ないし自然現象を、神によって説明しようとする。このように自然科学と信仰とは、その考え方や方法において、およそ相容れないものといえるだろう。〕
〔自然科学の発達は、信仰にとって、また信仰をよりどころにしてきた哲学にとって、大きな脅威であった。哲学も学である以上、自然科学の影響を受けないわけにはいかなかった。学の典型というべき数学の方法が、哲学にもの適用された。スピノザ(1632〜77)の『幾何学的な方法によって論証された倫理学で結論を導き出してくるごとく、哲学もまた、そういう方法で論じられた。 他方、信仰も脅威にさらされた。ながい間の浸透によって、あたかも本来の本能のようにさえなってしまったキリスト教的信仰は、民衆のなかにあっては容易に揺らぐものではなかったが、自然科学の進歩は、いままでのような姿の信仰に、動揺を与えないではおかなかった。まして、自然学・哲学・神学など、学といわれるものにたずさわる者には、深刻な影響を及ぼした。そこで、哲学者たちは、自然科学と信仰との調和統一を考えた。すなわち、彼らは、神・霊魂・世界全体など、形而上的なものを、例えば数学的な方法などを用いて、合理的に説明しようとした。そして、自然科学と矛盾しないことを示そうとした。つまり、合理的な形而上学を目指したわけである。〕
〔「われは考える、ゆえにわれある」として、考えるわれを根本においたデカルト(1596~1650)は考える我をもとにして神を考えた。互いに無関係な無数の単子(モナド)によって世界を説明したライプニッツ(1646~1716)は、単子の間における神の予定調和を説いた。スピノザは、自然そのものを神とみなした(スピノザは、自然の秩序そのものを神とし、自然の秩序のそとに、それと異なった神を考えなかった。それゆえに彼は自分の属するユダヤ教会からは破門され、無神論者のそしりをうけ、主著「エチカ」は、生前には刊行することができなかった。)。ニュートンもまた、自然の底に神の神秘をみた。そして信仰の深い自然研究者であるカントも同じような流れのなかにあったのである。〕
〔自然科学の発達は、信仰にとって、また信仰をよりどころにしてきた哲学にとって、大きな脅威であった。かつて中世においては、すべては神にもとづき、すべての権威は神に由来した。神への信仰にもとるような科学は許されなかった(地動説をとなえたコペルニクスやガリレイの悲劇を考えてみよ)。そこでは、哲学は、うやうやしくしく神に仕える、神の侍女にすぎなかった(自主的に哲学をしたジョルダノ=ブルーノは、火あぶりの刑に処せられた)。しかし、近代に入って、自然科学は、神から解放され、解放されることによって、独自の法則によるいちじるしい発達をとげた。そこで、哲学も、学である以上、自然科学の影響を受けないわけにはいかなかった。学の典型というべき数学の方法が、哲学にもの適用された。哲学者スピノザ(1632〜77)の『幾何学的な方法によって論証された倫理学(エチカ)』や、でニュートン(1643〜1727)の『自然哲学の数学的原理』などが、それをしめしているであろう。ただ、そこでは、学の模範とみなされた数学の方法が適用された。そのため近代自然科学の方法として重要な意味をもつ、経験的な実験・実証の精神は、生かされなかった。幾何学が、公理・定理から論証によって結論をみちびきだしてくるごとく、哲学もまた、そういう方法で論じられた。〕
デカルトの『省察と反論と答弁』やスピノザの『エチカ』もたしか「公理」とか「定理」っていう仕方で書かれてたと思う。どうしてそんな書き方になっているのか、ここを読んでわかった。
この本によると、 カントの生きた世界では、学問は「自然科学」「哲学」「神学」、のよう。 当時の哲学というのはどうやら〔信仰をよりどころとした哲学〕だったみたい。そして「哲学」と言えば「形而上学」、たぶん。 で、
「形而上的なもの」=神・霊魂・世界全体など ってなてる。
つづく
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