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No17685 の記事


■17685 / )  Re[25]: :現存在(8)
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/10/17(Sun) 19:55:29)
    ■17682、パニさん、
    ありがとございま〜す。

    マイケル・ゲルヴェンさんの、
    >『ハイデッガーが「本来的」と言うにはその人自身の自己に気付くことであり、「非本来的」とは他人が見るように自己を見ること、あるいは自分の自己を、その実存に先立つ意味や本質をもつものとして、従ってその実存とは「別な」もののごとく見ることである。このようにしてハイデッガーは、実存論的分析の劈頭に、現存在がそのつど私のものであるということをかかげることによって、その後の「本来的存在者」への展開の基礎を敷いているのである。(P.109〜P.110)』とあります。<
    マイケルさんの「非本来的」っていうのわたし不満なんだけど、まこれはいいわ。でね、<「本来的存在者」への展開の基礎を敷いている>っていうところ、

    No17664の、
    【現存在は、分析の出発点においては、或る特定の仕方で実存する差別のすがたにおいて学的に解釈されるべきではけっしてなく、現存在が差しあたってたいてい無差別にとっているすがたにおいて暴露されるべきである。現存在の日常性というこうした無差別のすがたは、何ものでもないものではなく、この存在者の一つの積極的な現象的性格なのである。こうした存在様式から出て、こうした存在様式のうちへと帰るのが、すべての実存することのありのままのすがたなのである。われわれは現存在のこうした日常的な無差別のすがたを平均的となづける。】
    に関連してる気がしてる。
    わたし17664のこれ、メルポンの、
    No11467の、
    【哲学のすべてはこの端緒を記述することに存する。そして結局、根本的な反省とは、非反省的な生に対する、反省自身の依存性を自覚することなのだ。非反省的な生こそ、反省の出発状況であり、恒常的な状況でもあり、終局の状況でもある。】
    と重ね合わせて見てる。

    っていうことから、

    >おそらくハイデッガーの現存在、ウィトゲンシュタインの哲学的自我(形而上学的存在)、永井均氏の〈私〉、さらにデカルトのコギトは同じものの異名であると思われます。<
    の、ハイデガーの現存在、<デカルトのコギト>のとは違うと思う。

    わたし、メルポン派だから、ハイデガーのもメルポンのから見ちゃうのかもしれない。「分析の出発点」も、「現存在」の端緒につい目がいっちゃうのね。


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