■15738 / ) |
Re[43]: 絶対的なここ
|
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/08/21(Sat) 18:33:01)
| フッサールの『デカルト的省察』の訳注に、
〔空間的場所としては、私が動くことによって、先ほどまでそこだった地点が今はこことなり、ここだった地点がそことなる。ところが、「私の身体」(自己の身体)がここと言われるのは、それとは異なり、私がどれだけ動いても、「私の身体」はいつもここにあって、そこになることはない。それをフッサールは「絶対的なここ」と呼んだ。〕 ってある。
たしかに、わたしもそうだと思う。 「私」と「他人」は、「私の身体」によって、”同じ時空”に存在することはけっしてできないよね。 ってすると、私の身体によって私となっているのかもね。
メルポンは『知覚の現象学』のなかで、 【…私は私の身体の前にいるのではない。私は私の身体のなかにいる。いやむしろ私は私の身体である。…】(M10) って言っている。 たしかに〜! ちょっと見方を変えて、私の身体を私の前に置くことはできないよね。
またメルポンはね、 【…〈身体の媒介〉というものは、たいていのばあい、私によって見逃されているものである。…】(M11) 【…身体は「世界における(への)存在」の媒体である。身体をもつということは、生きるものにとって、一定の環境にくわわり、若干の企投と一体となり、たえずこれに自己を拘束するということである。…】(M12) って言ってる。
わたしの<「私」と「身体」との関係>の見方はメルポンの。
|
|