| さてと、わたしの物語りね。
ハイデガーの[In-der-Welt-Sein](世界内存在)、メルポンの[etre au monde](世界における(への)存在)、 [ete ]の[e]の上には[^]が付きます。
ここんところ、ちょっと書き写して見ま〜す。
ハイデガーの『存在と時間』で、 【‥‥世界内存在という合成語は、この合成語が造りだされたことからしても、この合成語でもって一つの統一的現象が指されているということを、すでに暗示している。こうした第一次的実状は全体的に見てとられなければならない。継ぎあわせのきく諸成分へと分解されえないということは、この機構を構成している諸構造契機が幾重ものものだということを排除しはしない。この合成語でもって暗示されている現象的実状は、事実、三重の観点をとることを許すのである。われわれがその全現象を先行的に確保しながらこの実状を追跡するなら、取り出されるのは次のものである。 1.「世界の中で」。この契機と関連して、「世界」の存在論的構造を問いたずねて、世界性そのものの理念を規定するという課題が生ずる(第一篇第三章参照)。 2.そのつど世界内存在という仕方において存在している存在者。この存在者でもって探究されるのは、われわれが「誰か?」というかたちで問いたずねるものである。現象学的証示においては、現存在者の平均的日常性という様態において存在しているものは誰であるのかが、規定されるにいたるべきである(第一篇大四章参照)。 3.「内存在」そのもの。内ということ自身の存在論的構成が明らかにされるべきである(第一篇第五章参照)。 これら三つの機構契機のうちの特定の一つを引き立てることはいずれも、他の二つをいっしょに引き立てるということを意味する。世界内存在はなるほど現存在のア・プリオリに必然的な機構ではあるが、現存在の存在を内実豊かに規定するためには、とうてい十分ではない。 取り出された以上三つの現象を個々別々に主題的に分析するに先だって、最後にあげられた機構契機を性格づけることによって、方向を定める試みがなされるべきなのである。‥‥】 ってあって、 メルポンの『知覚の現象学』には、 【…人間は世界においてあり(訳注2)…】(本文) 〔(訳注2)原文はI’homme est au monde.これは12項に出現する本書の基本概念「世界における(への)存在」(etre au monde)を先取りするものであるが、この基本概念がハイデガーの「世界内存在」(In-der-Welt-Sein)サルトルのetre-danse-le-mondeに対応するものである。問題はmondeの前の前置詞auの訳し方だが、独訳ではzu英訳ではinとなっている。つまりetre au monde を独訳者はZur-Welt-Sein英訳者はBeing in the worldと訳す。但し英訳では文脈によっては、being to the worldとも訳している。要するにetre au mondeとは世界に属しつつ世界に臨む人間のあり方を表す言葉で、本訳書では術語的に使われていると思われるところではカギ括弧でくくり、さらに「世界における存在」と「世界への存在」とを共に示すため「世界における(への)存在」とした。〕 ってあった。
こういうのって、「私」、「世界」、そして「私」と「世界との関係」について、よね。 で、わたしのばあい、<世界における(への)存在としての「私」>ってして見てる。
こういうのって、個人と国家との関係、人倫とか道徳にもかかわってくる感じしない〜?
わたしのここでの物語り、始まりは、 No11345、No11411、 たしか、ここらへんからだったと思う。 そう「生活世界の世界のフィロソフィア」。
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