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■14918 / inTopicNo.1)  What do you Want to do? 5
  
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/13(Tue) 21:30:45)
    トピ主:悪魔ちゃん

    引き続きよろしくお願いします。

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■14934 / inTopicNo.2)  Re[1]: What do you Want to do? 5
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/14(Wed) 18:38:14)
    ■14918、パニさん、ありがとございます。

    わたしまだ喋りたりないみたいだから、
    こちらこそよろしくお願いしま〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■14966 / inTopicNo.3)  主観と間主観
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/16(Fri) 20:33:22)
    2021/07/16(Fri) 22:42:38 編集(投稿者)

    亀レスごめんちゃい♪
    以下は私が考えていることをカキコしてみるね。
    悪魔ちゃんがどのように考えているかも知りたいから一部質問も交えます。
    気が向いたら返信してちょ。言うまでもなくスルーも可です。

    No14903に返信(悪魔ちゃんさんの記事)

    > わたしのばあい、〈内的世界〉が〈間主観〉って見てる <
    > っていうところなのかしら?

    そそ。

    > だとしら、わたしがそう思ったのはどうしてなのか、自問してみたら、

    > わたしのばあい、
    > 1.世界のうちに「私」を縁取どるとき、外と内が発生する。私の外にあるものを〈外界〉、私のうちにあるものを〈内界〉って呼んでる。
    > 2.「観」っていうのは精神に関する語、ってしてる。
    > 3.〈間主観〉っていうのは現象学における「間主観性」とか「相互主観性」のこととして見た。

    ここまでは同意だし、私も同じやわ。

    > この「間主観性」っていうのは精神における性ってわたし見てる。
    > こんな感じのから、私の内界の精神は間主観性(内界世界が間主観)、って見たのかな。

    ここのところが分からない。
    何故、「間主観性」が「精神における性」なのかが分からない。

    まずは私が解釈しているところの間主観性からカキコしてみるね。
    その前に主観とは「認識し行為する人間存在の中心である自我(デジタル大辞泉)」またはこの自我の視野「マッハ的光景(参照:添付画像)」と捉えてる。
    間主観性というのは日常的に使う客観(厳密には客観なんてありえないし、幻想でしかない)を基礎づけるもので、それぞれ(自我や他我)の主観間(主観同士の間という意)で共通あるいは共有可能な主観のことだと考えてる。
    だから客観イコール間主観って考えてる

    よって、悪魔ちゃんの「〈内的世界〉が〈間主観〉って見てる」ってのが消化できてないねん。
    主観はあくまでも内的世界だし私秘性に含まれる。間主観は他者の主観と共通あるいは共有するところの光景だから、内的世界がイコール間主観にはならないんやなぁ〜。
    例えばさ、霊能者みたいな側頭葉人格者(側頭葉シルビウス溝がわずかな刺激で活発化し他者には見えないような対象あるいは幻覚が見える人)がいたとして、その人の主観で見える亡霊は、幻想と呼ばれるものと同じく間主観にはなりえないわけだから主観即間主観にはなりえないんじゃないかな、と、考えていいます。


    > でもね、1でわたしもうすでに「私」っていうの使っちゃてるのね。これ問題よね。わたしが使う「私」の定義は、っていうことじゃない。定義する、っていうもわたし嫌いだし〜。そういんじゃなくて、わたしは「私」っていうの使ってるけど、それどんなの?っていうことがわたしの問題。

    同じテーマかどうかは今のところ不明だけど、パニチェの生涯を通じてのライフホビーであるところ〈私〉、パニチェ的表現では「比類なき先言の<私>」と同類のテーマかも。

    > わたしが乳幼のころに、わたしに「私」っていうのあったのかしら?っていう問いが浮かんでる。
    > わたしのここ(What---)での物語りはここらへんに入ってきてる感じ。
    > 「私」についてわたしに見えるようにさせる方法として、フッサールが言う「他者」経験っていうことから見てゆこうとしてるのかも。

    以下も的外れ覚悟でパニチェ(テーマである「私」と紛らわしいので以下パニチェと表記)の考えているところをカキコします。

    まず乳幼児から幼児の段階で言語を習得するわけだけど、言語を習得する主体が言語に先んじて存在しなければ言語学習が成立しないわけだから、乳幼児の頃から〈私〉は存在していることになる。

    で、言語習得後に成立する私あるいは自我は言語的記憶とも言われているエピソード記憶の起点でもある「もの心がつく」ところの「私(自我)」であり、この「私」が自他の境界認識やら、自我た他我を区別するようになって言語の習得度合いに合わせて徐々に明瞭な言語的「私(自我)」が成立するんだと思ってる。

    つまり他者を意識する「私」は言語的な私であって、自他の境界認識以前、言語に先んじて存在する〈私〉が「言語的私(自我)」を纏ったところの「私」で、これは〈私〉と根本的に異なる。「私」は言語的に記述可能な万人に共通する「私(自我)」であり、決して万人には当てはまらない「比類なき先言の<私>」ではないということ。

    悪魔ちゃんの言葉を借りるね。
    なに言ってるか分からんと思うけど、見てもらえるだけでもええと思ってるよ。
    でも、それ違う、っていうところがあったら、悪魔ちゃんの考えも知りたいしお願いね。

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■14978 / inTopicNo.4)  Re[3]: 主観と間主観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/16(Fri) 22:05:17)
    ■14966、パニさん、

    「間主観性」っていうのが話題にのぼったから、もう一度そのことを主に現象学のを見なおして考えてるよ。この話題はこれからのわたしの物語りにしようと思ってるんだけど、現象学のわたしに間主観的にわたしに思われてるものをちょっと書いて見ま〜す。

    〈知覚されているもの〉は私の精神の内のものってわたし見てる。内的世界ね。
    で、〈知覚されているもの〉は私の外にあるもの(外界)、これは主体である私じゃななくて私にとっては客体だと思う。

    「主」と「客」っていう語の意味、人によっていろいろあるみたい。キリスト教信者では「主」は「神」ってなるのかもね。あ、話がそれちゃう。

    で、わたしの、私の精神の内にその客体が観されているもの、それが〈客の観〉、これがわたしの「客観」ね。人で言えば私以外の人は客人。でもその客人それぞれに主観っていうのあるよね。

    主体であるそれぞれの「私」の内(内的世界)には客観と主観が同居してる、って見てる。こんな感じのをわたし精神の「間主観性」って見てるよ。
    あ、なんか私の今のまとめを書いちゃってるかも。

    だから、>主観即間主観にはなりえない<だと思うし、>客観イコール間主観<ともなりえないのね、わたしのばあい。

    「マッハ的光景」
    右眼を使って〈見えているもの〉を描いた絵ね。〈見えないもの〉は描かれてない、っていうか、描くことが難しいっていうことなのかな。
    メルポンはこんなこと言ってる。
    【私に見えるがままの私の身体は、私の肩の高さから上が欠け、そして触覚筋に触れる対象のところで終わっている。】って。

    あ、長くなっちゃうからもうやめる。

    パニさんは〈私〉として、わたしのばあい「私」として、同じようなことについて考えて見てるようだから、”なに言ってるかわからない”でもなさそう。











引用返信/返信 削除キー/
■14986 / inTopicNo.5)  Re[4]: 訂正
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/17(Sat) 07:16:06)
    おはようございま〜す。

    ■14978のマッハ的光景のところで、
    >右眼を使って<
    って書いちゃったけど、「右眼を閉じて」です。
    ごめんなさい。
引用返信/返信 削除キー/
■14989 / inTopicNo.6)  Re[4]: 主観と間主観
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/17(Sat) 08:20:17)
    2021/07/17(Sat) 08:56:22 編集(投稿者)

    おはよう!悪魔ちゃん。
    いやぁ〜この手の会話は実に興味深いし面白いし楽しい♪^^

    No14978に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■No14966、パニさん、

    > 「間主観性」っていうのが話題にのぼったから、もう一度そのことを主に現象学のを見なおして考えてるよ。この話題はこれからのわたしの物語りにしようと思ってるんだけど、現象学のわたしに間主観的にわたしに思われてるものをちょっと書いて見ま〜す。

    今後の悪魔ちゃんの物語り、めっちゃ楽しみ。

    > 〈知覚されているもの〉は私の精神の内のものってわたし見てる。内的世界ね。
    > で、〈知覚されているもの〉は私の外にあるもの(外界)、これは主体である私じゃななくて私にとっては客体だと思う。

    同意!

    > 「主」と「客」っていう語の意味、人によっていろいろあるみたい。キリスト教信者では「主」は「神」ってなるのかもね。あ、話がそれちゃう。
    > で、わたしの、私の精神の内にその客体が観されているもの、それが〈客の観〉、これがわたしの「客観」ね。人で言えば私以外の人は客人。でもその客人それぞれに主観っていうのあるよね。
    > 主体であるそれぞれの「私」の内(内的世界)には客観と主観が同居してる、って見てる。こんな感じのをわたし精神の「間主観性」って見てるよ。
    > あ、なんか私の今のまとめを書いちゃってるかも。

    なるほどなぁ〜。めっちゃ面白いし興味深い。
    悪魔ちゃんの上記の返信は現象学的還元の王道やと思うけど、何故かパニチェがこれまで考えていなかった視点というか考察やわ。

    現象学的還元ってのは自我論的還元、要するに純粋意識の内在的領域、つまり内的世界に還元することであって、その還元に他者の主観、他人の自我(以降、「他我」と表記)が如何に成立するかを明らかにするためのアプローチが間主観性なんやから、悪魔ちゃんの上記のカキコは王道やと思う。

    一方でやっぱこれには矛盾があって、他者の主観や他我は私にとっては認識の地平の彼方であり、私の主観が私秘性に属するように他者の主観も私の内的世界(あらゆる超越を排した純粋な意識の内的領域)には還元することができない。

    > だから、>主観即間主観にはなりえない<だと思うし、>客観イコール間主観<ともなりえないのね、わたしのばあい。

    前述の理由によってパニチェは間主観性や間主観を、客観性や客観を現象学的に還元したものであって、客観性や客観の化けの皮を剥がした代替え用語として受け止める段階にとどめているってことやねん。
    間主観でない客観ってありえるかな?パニチェはないと考えている。神が実在しても人神なら神にも〈私〉があり、内的世界があるわけだから世界を超越的視点でもって世界の外から世界の全てを観察できたとしても観察している主体が存在するかぎり、それは客観ではないと考えている。

    > 「マッハ的光景」
    > 右眼を閉じて〈見えているもの〉を描いた絵ね。〈見えないもの〉は描かれてない、っていうか、描くことが難しいっていうことなのかな。

    そやねん。ここに他者の主観や他我、他者の内的世界は描けないからね。

    > メルポンはこんなこと言ってる。
    > 【私に見えるがままの私の身体は、私の肩の高さから上が欠け、そして触覚筋に触れる対象のところで終わっている。】って。

    これ、もの凄くよく分かる。頭部は世界に無い。首から上は空洞、または透明になっている(笑)。

    > パニさんは〈私〉として、わたしのばあい「私」として、同じようなことについて考えて見てるようだから、”なに言ってるかわからない”でもなさそう。

    悪魔ちゃんに上記と同じことを感じてた。
    現象学的還元、つまり自我論的還元は究極的には「私」や〈私〉に還元される。
    「私」や〈私〉の探究は自我論的還元の側面もあるってことかな。
    現象学的還元(自我論的還元)も「私」や〈私〉の探究も独我論(独在論)を行ったり来たりする。

引用返信/返信 削除キー/
■15009 / inTopicNo.7)  Re[5]: 主観と間主観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/17(Sat) 15:53:10)
    ■14989、パニさん、
    よくわかんないところあったけど、
    ありがとございま〜す。

    >その還元に他者の主観、他人の自我(以降、「他我」と表記)が如何に成立するかを明らかにするためのアプローチ<
    いまね、ちょうどね、そこんとこ見ているとこ。
    でもその前に、っていうのあるからそこらへんからお喋りさせてもらおっかな、って。

引用返信/返信 削除キー/
■15014 / inTopicNo.8)  Re[6]: 身振りの意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/17(Sat) 17:50:45)
    メルポンの『知覚の現象学』から、
    【身振りの意味は与えられるのではなくて了解される、つまり、目撃者の作用によって捉え直されるのである。この作用を正しく理解し、それを認識作用と混同しないことが肝心で、問題のすべてはここにかかっている。意思伝達、あるいは身振りの了解は、私の志向と他人の身振りとの間の、私の身振りと他人の振舞いのなかに読みとられている志向との間の交互性によって獲得される。それはあたかも他人の志向が私の身体に住まい、私の志向が彼の身体に住まうが如くである。私が目撃している身振りは志向的対象の輪郭を大ざっぱに描きだしている。私の身体の諸能力がこの対象に適合し、それと一致するとき、この対象は現実的となり、完全に了解されるのである。身振りは私の前に一つの問いとして現れ、私に世界の若干の感覚的な点を示して、この点をたどって身振りに追いつくようにと私を誘うのである。】
    メルポンは【言葉は身振りである】ってしてるから、上記の「身振り」のところを「言葉」に置き換えて見てもOkかも。

    こういうのわたしもそうだな〜、って思う。
    でもね、【私の身体の諸能力がこの対象に適合し、それと一致するとき、この対象は現実的となり、完全に了解されるのである。】っていうことってあるのかしら?あ、「理解」じゃなくて「了解」っていうことのうちでね。

    あれ?どこかですでに書いたかも?まいいわ、今の気分で。

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■15037 / inTopicNo.9)  Re[7]: 分け方
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 15:51:53)
    わたしの
    5No14825で、わたし「人間」を〈私と非私〉って分けて見たんだけど、これって、わたし「人」を「私」って見てる、っていうことにもなるのかも。

    「人間」っていうのを、ひとまず「人間」を〈人の間〉ってすることにした。
    「人」を「私」って見ると、〈私の間〉ってなる。なんか変な感じになっちゃうかもしれないけど、まいいわ。

    「人間」の分け方、もうちょっと別の語を考えて見た。
    〈私と他人〉とか〈自と他〉っていう分け方が思いついてる。

    「私」と似たような語として、「我」「自我」「自分」「自己」「自分自身」「私自身」とか(他にもあるかな?)、っていうのあると思うんだけど、わたしなりにどう区別しとこうか思案中。

引用返信/返信 削除キー/
■15041 / inTopicNo.10)  Re[8]: 原初的世界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 17:56:03)
    フッサールの『デカルト的省察』の第五省察のところを読み返して考えてるよ。
    しばらくここについての物語りで〜す。

    書き写し
    【原初的な領分の定義と分節化という、超越論的には非常に重要な前段階がすでに片付いてしまったので、次には、客観的な世界の構成に向かう前途の歩みのうちの第一の歩み、すなわち「他者」への歩みに進むことになるが、ここでの本来の、しかも実際に少なからぬ困難とぶつかることになる。その困難とは、他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での他者経験を、超越論的に解明することにある。…】(50-1)

    ここに出てくる「超越論的」っていうの、カントの用語みたい。フッサールはこの用語を使っているんだけどカントのとは意味が違うようでややこしくなっちゃうから、わたしこの用語は見て見ぬふりすることにしてます。

    (50-1)のところでわたしが思ったのは、
    【「他者」への歩み】が【客観的な世界の構成に向かう前途の歩みのうちの第一の歩】だっていうこと。
    フッサールの言う「他者」っていうのがどういうものなのか、っていうの後に出てきてるので、そのときに。

    【他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での他者経験】っていうところ、
    乳幼の頃にはまだ「人間という意味を獲得していない」状態。
    フッサールは現象学的還元して原初的世界から「他者」っていうのを見ようとしてるんだとわたし見てる。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■15044 / inTopicNo.11)  Re[9]: 他者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 19:34:18)
    ■15041のつづきね

    第50節の書き写し
    【…最初の手がかりを与えてくれるのは、他者、すなわち他の自我という言葉の意味である。他者(アルター)とは、他我(アルター・エゴ)を意味している。そして、ここで含意されている我(エゴ)は、私の原初的な固有領分の内部で構成された私自身であり、しかも、唯一性をもった心理物理的統一体として(原初的な人間として)、「人格的」自我として、私の唯一の身体において直接支配しつつ、また直接的に原初的世界に作用を及ぼしている私自身である。それはまた、具体的な志向的生の主体であり、自分自身と世界とに関わる心的領分の主体である。…】(50-2)

    フッサールのいう「他者」っていうのは、「他我」←〈他の自我〉のこと見たい。
    ここにはフッサールのいう「我ego」がどのようなものかが書かれてあるので、いっぱい考えて見ました。

    フッサールにおける「我ego」とは、
    (a) 私の原初的な固有領分の内部で構成された私自身
    (b) 唯一性をもった心理物理的統一体(原初的な人間)
    (c) 「人格的」自我
    (d) 私の唯一の身体において直接支配しつつ、また直接的に原初的世界に作用を及ぼしている私自身
    (e) 具体的な志向的生の主体
    (f) 自分自身と世界とに関わる心的領分の主体
    っていうことね。

    なにこれ?っていう感じなんだけど、間主観的にわたしに思われたものを、ちょっと長くなっちゃたから、分けて書いて見ることにしま〜す。

    つづく


引用返信/返信 削除キー/
■15084 / inTopicNo.12)  Re[10]: フッサールの「我ego」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/20(Tue) 20:20:27)
    ■15044のつづきね
    わたしの見え
    (1)(a)から、「我」というのは、私の原初的な固有領分の内部で構成されたもの。
    (2)(f)から、「我」というのは、心的領分であるということ。
    (3)(a),(d)から、「我」は〈私の---私自身〉から、「我」を「自身」として見る。
    (4)(d)より、「我」というのは、身体と直接かかわるもの。
    (5)(d)の「原初的世界」を〈原初的な精神世界〉として見ると、(2)とあってる。
    (6)(b)の「心理物理」を〈心理を精神、物理を身体〉として見ると、(4)(5)とあってる。
    (7)(b)(d)(e)(f)から、「我」というのは、「唯一の」であり「主体」である、っていうこと。

    って見て見た。

    (c)の「人格」っていうの、訳注に書いてあったのを書き写して見ます。
    〔Person:この語には、中世キリスト教以来の伝統があるが、フッサールがこの語を使うとき、ロックが「人格〔人物〕の同一性」を論じたこと(『人間知性論』)、カントが理性的存在者(他者)を「物件Sache」でなく「人格Person」とみなすように論じたこと(『道徳形而上学原論』)、そしてソシュールが人格を「対象化されえない作用中心」と考えたこと(『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』)、これくらいを念頭に置いていると考えられる。フッサール自身は「人格」の問題を「人格主義的態度」とともに、『イデーンU』で考察していた。ロックは、「人格」を「理知と省察を持ち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある者」と定義していたが、この定義を満たしさえすれば、人間以外の(ないしは、以下の)動物といえども「人格」と呼ぶことができる。同様にしてフッサールも、「人間以下の「人格」」と述べている。〕
    ってすると、「人格的」自我、っていうのは、「理知と省察を持ち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある者」的自我、っていうことになるのかも。

    (5)で「原初的世界」を〈原初的な精神世界〉って見たんだけど、わかりやすくいうと〈乳幼児の精神に現れてるもの〉って見てるよ。

    こういうのって、知性豊かな大人を”対象”としてる人には関係ないけどね。
    んん、言いかえると文化的存在(人間が作り出したもの)から思いをはせてる人には関係ない話しっていうことね。

    つづく

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