□投稿者/ パニチェ -(2021/07/16(Fri) 20:33:22)
| 2021/07/16(Fri) 22:42:38 編集(投稿者)
亀レスごめんちゃい♪ 以下は私が考えていることをカキコしてみるね。 悪魔ちゃんがどのように考えているかも知りたいから一部質問も交えます。 気が向いたら返信してちょ。言うまでもなくスルーも可です。
■No14903に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
> わたしのばあい、〈内的世界〉が〈間主観〉って見てる < > っていうところなのかしら?
そそ。
> だとしら、わたしがそう思ったのはどうしてなのか、自問してみたら、
> わたしのばあい、 > 1.世界のうちに「私」を縁取どるとき、外と内が発生する。私の外にあるものを〈外界〉、私のうちにあるものを〈内界〉って呼んでる。 > 2.「観」っていうのは精神に関する語、ってしてる。 > 3.〈間主観〉っていうのは現象学における「間主観性」とか「相互主観性」のこととして見た。
ここまでは同意だし、私も同じやわ。
> この「間主観性」っていうのは精神における性ってわたし見てる。 > こんな感じのから、私の内界の精神は間主観性(内界世界が間主観)、って見たのかな。
ここのところが分からない。 何故、「間主観性」が「精神における性」なのかが分からない。
まずは私が解釈しているところの間主観性からカキコしてみるね。 その前に主観とは「認識し行為する人間存在の中心である自我(デジタル大辞泉)」またはこの自我の視野「マッハ的光景(参照:添付画像)」と捉えてる。 間主観性というのは日常的に使う客観(厳密には客観なんてありえないし、幻想でしかない)を基礎づけるもので、それぞれ(自我や他我)の主観間(主観同士の間という意)で共通あるいは共有可能な主観のことだと考えてる。 だから客観イコール間主観って考えてる
よって、悪魔ちゃんの「〈内的世界〉が〈間主観〉って見てる」ってのが消化できてないねん。 主観はあくまでも内的世界だし私秘性に含まれる。間主観は他者の主観と共通あるいは共有するところの光景だから、内的世界がイコール間主観にはならないんやなぁ〜。 例えばさ、霊能者みたいな側頭葉人格者(側頭葉シルビウス溝がわずかな刺激で活発化し他者には見えないような対象あるいは幻覚が見える人)がいたとして、その人の主観で見える亡霊は、幻想と呼ばれるものと同じく間主観にはなりえないわけだから主観即間主観にはなりえないんじゃないかな、と、考えていいます。
> でもね、1でわたしもうすでに「私」っていうの使っちゃてるのね。これ問題よね。わたしが使う「私」の定義は、っていうことじゃない。定義する、っていうもわたし嫌いだし〜。そういんじゃなくて、わたしは「私」っていうの使ってるけど、それどんなの?っていうことがわたしの問題。
同じテーマかどうかは今のところ不明だけど、パニチェの生涯を通じてのライフホビーであるところ〈私〉、パニチェ的表現では「比類なき先言の<私>」と同類のテーマかも。
> わたしが乳幼のころに、わたしに「私」っていうのあったのかしら?っていう問いが浮かんでる。 > わたしのここ(What---)での物語りはここらへんに入ってきてる感じ。 > 「私」についてわたしに見えるようにさせる方法として、フッサールが言う「他者」経験っていうことから見てゆこうとしてるのかも。
以下も的外れ覚悟でパニチェ(テーマである「私」と紛らわしいので以下パニチェと表記)の考えているところをカキコします。
まず乳幼児から幼児の段階で言語を習得するわけだけど、言語を習得する主体が言語に先んじて存在しなければ言語学習が成立しないわけだから、乳幼児の頃から〈私〉は存在していることになる。
で、言語習得後に成立する私あるいは自我は言語的記憶とも言われているエピソード記憶の起点でもある「もの心がつく」ところの「私(自我)」であり、この「私」が自他の境界認識やら、自我た他我を区別するようになって言語の習得度合いに合わせて徐々に明瞭な言語的「私(自我)」が成立するんだと思ってる。
つまり他者を意識する「私」は言語的な私であって、自他の境界認識以前、言語に先んじて存在する〈私〉が「言語的私(自我)」を纏ったところの「私」で、これは〈私〉と根本的に異なる。「私」は言語的に記述可能な万人に共通する「私(自我)」であり、決して万人には当てはまらない「比類なき先言の<私>」ではないということ。
悪魔ちゃんの言葉を借りるね。 なに言ってるか分からんと思うけど、見てもらえるだけでもええと思ってるよ。 でも、それ違う、っていうところがあったら、悪魔ちゃんの考えも知りたいしお願いね。
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