| ■14966、パニさん、
「間主観性」っていうのが話題にのぼったから、もう一度そのことを主に現象学のを見なおして考えてるよ。この話題はこれからのわたしの物語りにしようと思ってるんだけど、現象学のわたしに間主観的にわたしに思われてるものをちょっと書いて見ま〜す。
〈知覚されているもの〉は私の精神の内のものってわたし見てる。内的世界ね。 で、〈知覚されているもの〉は私の外にあるもの(外界)、これは主体である私じゃななくて私にとっては客体だと思う。
「主」と「客」っていう語の意味、人によっていろいろあるみたい。キリスト教信者では「主」は「神」ってなるのかもね。あ、話がそれちゃう。
で、わたしの、私の精神の内にその客体が観されているもの、それが〈客の観〉、これがわたしの「客観」ね。人で言えば私以外の人は客人。でもその客人それぞれに主観っていうのあるよね。
主体であるそれぞれの「私」の内(内的世界)には客観と主観が同居してる、って見てる。こんな感じのをわたし精神の「間主観性」って見てるよ。 あ、なんか私の今のまとめを書いちゃってるかも。
だから、>主観即間主観にはなりえない<だと思うし、>客観イコール間主観<ともなりえないのね、わたしのばあい。
「マッハ的光景」 右眼を使って〈見えているもの〉を描いた絵ね。〈見えないもの〉は描かれてない、っていうか、描くことが難しいっていうことなのかな。 メルポンはこんなこと言ってる。 【私に見えるがままの私の身体は、私の肩の高さから上が欠け、そして触覚筋に触れる対象のところで終わっている。】って。
あ、長くなっちゃうからもうやめる。
パニさんは〈私〉として、わたしのばあい「私」として、同じようなことについて考えて見てるようだから、”なに言ってるかわからない”でもなさそう。
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