(現在 過去ログ2 を表示中)

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

[ 親記事をトピックトップへ ]

このトピックに書きこむ

レス数の限度を超えたのでレスできません。

(レス数限度:100 現在のレス数:100) → [トピックの新規作成]
■15373 / inTopicNo.73)  Re[27]: ふと
  
□投稿者/ アートポット -(2021/08/01(Sun) 21:50:29)
    No15369に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > 科学ってわたしを点線でなぞるだけ。

    こんばんは、悪魔ちゃん

    人類の誕生時に現在の文明や科学技術ができることは脳や身体の設計図に最初から含まれているっていう仮説かい?
引用返信/返信 削除キー/
■15369 / inTopicNo.74)  Re[26]: ふと
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/08/01(Sun) 19:48:39)
    科学ってわたしを点線でなぞるだけ。
引用返信/返信 削除キー/
■15345 / inTopicNo.75)  Re[25]:   〈己〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/31(Sat) 17:16:43)
    大人私の精神の分節。

    分節された場の名として、これまでのわたしのをちょっと整理しとくと、
    〈自〉←身体と直接キアスムしている原初的で固有の志向的生の主体的な領分(場)の名
    〈他〉←知覚されているもの(知覚の場に現れているもの、非私が精神に現れてる)、知覚する場の名
    〈我〉←考えることをする場の名
    ってなってる。

    〈思・考する〉って、何かを何かが思・考するんじゃないかしら。
    ([ego cogito]「我考える」っていうの「何を」が抜けているのよ。デカルトさんは「我」と「考える」の間が抜けてる、そう、彼、間抜けだったのね)

    〈他〉を〈自〉が思・考する、ってして見るとき、こういういうのって、〈他〉や〈自〉とは区別されることだと思うから、わたしその場の名を〈己〉ってすることにした。
    〈己〉←思・考する場の名
    ってなった。

    わたしのばあい、「思考」を、「思」(思うこと〉と「考」(考えること)に分けてる。
    〈我〉を〈考えることをする場の名〉ってしたから、〈我〉は〈己〉のうちに含まれることになる。

    〈己〉は〈考えることと思うこと〉をする場の名ってして、〈考えること〉をする場の名を〈我〉ってしたとき、〈思うこと〉をする場にも名前をつけなくちゃならないんだけど、どんな語を当てるかを考えてるんだけど、いまのところ候補にあがってるのが〈心〉っていう語なんだけどここらへんはまだ思案中。

    でね、精神の機能の名と場の名を結びつけて見と、
    感覚・知覚・記憶する(機能)ことをする場の名として〈他〉。
    思・考する(機能)ことをする場の名として〈己〉。
    だいたいこんな感じになるのかな。

    これでわたしの言う〈己〉っていうのが書けたかも。
    で、まとめると、
    大人になった私の精神を分節して、その場の名として大きく〈他〉〈自〉〈己〉として見る。
    っていことになった。

    ここでの物語り、わたしの好きにさせてもらってる。
    自由(自分の理由)って楽しい〜。

引用返信/返信 削除キー/
■15344 / inTopicNo.76)  Re[24]:   〈己〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/31(Sat) 16:54:38)
    No15272のなかの
    〔他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論〕を例にして、見ていって見る。ここには「他我」「自我」「自己」っていう語が出てきてるし、これらの語は“意味が違う”っていうことだと思うから(もし「自己」が「自我」と同じ意味だったら「自我移入」って言うはずよね)。

    わたしなりに書きかえちゃって見ていく。
    〈自己移入論というのは、他我が自我からの意味の移し入れによって構成される、とする論。〉
    ってして、もうちょっと、簡単に、「他我」→〈他〉、「自我」→〈自〉、「自己」→〈己〉ってして、
    〈己移入というのは、他が自からの意味の移し入れによって構成されること。〉
    ここから、
    〈己というのは、他に自の意味の移し入れによって構成されたもの〉
    〈己というのは、他に自の意味が移し入れられ、構成されたもの〉
    ん〜ん、これじゃ意味が全然違ってきちゃう?

    でもね「他我」「自我」と「自己」が区別されてるんだったら、こう見ることによって、ってしてもいいんじゃないかってね。

引用返信/返信 削除キー/
■15342 / inTopicNo.77)  Re[23]: 機能の名と場の名
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/31(Sat) 15:30:43)
    大人になった私の精神の分節
    (大人になった私を「大人私」って表言することにします)

    「私」に似たような言葉、「我」「自我」「自分」「自分自身」「私自身」。

    精神の分節されたものへの名には、機能と場っていう二種類があるんだと見てる。
    機能的には、「感覚」「知覚」「記憶」「思考」「感情」…などと、名がつけられている。
    場の名として、たとえば「私」っていう名。

    科学のと比べて見ると、
    たとえば、「記憶」っていう機能の場の名は「側頭葉」、「思考」っていう機能の場の名は「前頭葉」みたいな。

引用返信/返信 削除キー/
■15273 / inTopicNo.78)  Re[22]: 連合
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/29(Thu) 20:08:31)
    さいごに、「連合」ね。
    連合 [(独)Assoziation (仏)sssociation ]  (「現象学事典」より)

    〔フッサールは、あるものを見てそれに類似したものを想起するという通常の意味の連合から、原連合とも呼ばれる連合を区別し、これを受動的発生の原理と称する。通常の意味での連合がすでに構成された対象の間に生じるのに対して、原連合は対象の構成の前提となるものである。受動的発生は内的時間意識による時間構成とキネステーゼによる空間構成を前提にするが、これらは形式的条件であり、受動的発生を実質的に支配するのは連合の働きである。連合の原理は同質性と異質性もしくは類似と対比であり、そのはたらきは「類似したものが類似したものによって覚起され、類似していないものと対比される」という事態を産み出す。連合の第一のはたらきは能動的総合の前提として布置形成を行うことである。類似したもの同士が覚起しあってまとまり、類似していないものと対比される。これによって図と地が分化し、浮き上がった図が自我を触発する。自我による触発の受容とともに能動的総合が始まる。連合の第二のはたらきは統覚的意味の転移の基盤となくことである。新しい対象の認識は自我の能動的総合であり、そこで習得された対象の統覚的意味は原創設として沈殿し、受動的次元で習慣として保存される。この対象に類似したものが現れると、習慣として保存されているこの対象の統覚的意味が類似の連合によって覚起され、いま現れているものに受動的次元で転移される。われわれを取り巻く事物がなじみのあるものであって、そのつど把握解明にする必要がないのは、このような統覚的意味の転移のためである。しかし、統覚的意味の転移はなじみという安定性の半面で、意味のずれを招来する可能性をはらんでいる。『危機』おける近代自然科学批判はそのよう意味の空虚化に対する批判である。フッサールはとくに他我経験の分析において、連合にもとづく統覚的意味の転移を引き合いに出している。この場合ともに現前している自我の身体と(のちに他我の身体となる)物体との連合にもとづいて、我という統覚的意味がその物体に転移され、こうして他我が統覚される。能動的総合の前提として布置形成と統覚的意味の転移の基盤という連合の二つのはたらきは、能動性に先だつ受動性と能動性に由来し沈殿によって習慣になった受動性の区別に対応する。〕

    なんか言葉の意味がごちゃごちゃしてきちゃう。
    ひとまず、「同質性と異質性」「類似と対比」っていうのがあって、これを、自身と他身は〈同じものと覚されると同時に異なるものとして覚されてる〉とでもしときましょうか。

    って、いうことで、「対化」「自己移入」「連合」っていうの、現象学のをざっと流して見ました。

引用返信/返信 削除キー/
■15272 / inTopicNo.79)  Re[21]: 自己移入
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/29(Thu) 20:05:40)
    自己移入 [(独)Einfühlung ] (「現象学事典」より)

    〔フッサールの他者論における中心概念の一つ。他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論は、自他の等根源性をあるいは他者の他者性を見失うものだ、という多くの批判に晒されてきた。もともと美学において使われていた感情移入(Einfuhlung)という概念を、Th.リップスは心理学および社会学の根本概念として広義にとらえ、他我問題に関するJ.S.ミル以来の類推説を批判しつつ、感情移入説を展開したが、フッサールは初めこのリップスの説と取り組み、そこから多くを学びつつも、感情移入を「本能」としてしまう点、身体次元での問題を見逃している点などには批判的であった。にもかかわらず、彼はこの用語を棄ててしまうのではなく、それを換骨奪胎していこうとした。つづく時期フッサールは人格(主義)的な態度にもとづく他者論を展開したが、そこでは表現・意味・理解といった概念が中心的役割を果たし、感情移入とは身体的表現の意味の理解のことにほかならないとされた。そこに、ディルタイの精神科学・解釈学からの影響を読み取ることもできるし、また、類推説と感情移入説をともに退けつつ他者の直接知覚説を展開した。M.シューラ―との近縁性も指摘することができる。しかし、フッサールの他者論の眼目は、『デカルト的省察』で確認されるように、経験的(内的世界)な次元ではなく、超越論的な次元での問題にあったのだから、問われるべきは自己移入という概念がこの次元でどれだけ有効かであろう〔フッサールはこの書では、「自己移入」という語を括弧つきで使うか「いわゆる」という前置きをつけて使おうとしており、それに代わって中心概念となっているのは「他者経験」(fremderfahrung=異他なるものの経験)という語である〕。また、自己移入において、「そこ」への自己を置き入れること(Sichhineinversetzen)には「ここ」から自己を置き出すこと(自己の脱中心化=異他化)が対応していること、さらに、自己移入が受動的総合の次元に属することが示唆されていること(対比の現象)、こうした点を考慮に入れるならば、自己移入論に向けられた批判の多くは再検討を要するものとなろう。〕(Einfuhlungのuの上の点々は省略してあります)

    ここで、メルポンのを、
    「現象学事典」間主観性では、
    【…そこで後のメルロ=ポンティなどは、この「自己移入」をもっと身体的な次元で起こる共鳴のごときものとして捉え、したがって始めから自他の区別をもたない「匿名的な」働きを見ようとしている。たとえば、幼児が母親の笑顔に同調するといった「体位の受胎」などは、まさにそうした匿名の出来事であり、それはもはや〈自己〉移入とは呼べないものなのである。そして、このように考えると、世界が一つか無数かという問題も新たな展開を求められるはずであり、それはいわば他者構成以前にわれわれによってすでに生きられているいわば匿名の機能そのものだという考え方も可能になるのである(たとえばヘルト)。・・・】
    『知覚の現象学』では、
    【私の意識が、自己を脱し、それらにおいて自己を忘れるのである。】

    〔他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論〕っていうのがある。でもフッサールのは〈自己を、「ここ」から「そこ」へ置き出す、ということと、「そこ」から「ここ」へ置き入れる、ということは、同じことを意味してる〉って見てるのかな?

    ちょっと話題が違うけれど、ここに「自己」っていうの出てきてる。「己」っていうのどうしとこうか、っていうのがわたしの問題ね。わたしにおける〈我〉〈自〉〈他〉の意味はだいたい表現できた見たいなんだけど、「己」についてはぼやけたイメージは浮かんでるんだけどまだはっきりと見えてきてない、っていう感じなんだけど、まだ言葉で表現できない。

    それにしても〔他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論〕っていう論、けっこういいかげんですましちゃってるよね。

引用返信/返信 削除キー/
■15271 / inTopicNo.80)  Re[20]: 対化
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/29(Thu) 20:01:03)
    対化のつづきね
    『デカルト的省察』第5省察のなかにこんな記述がある。

    (第51節)
    【…「対になる」とは、「同じものとして捉える〔=同定〕」という受動的綜合に対立させて、「連合」と呼ぶ、受動的綜合の一つの根源的形式である。…】

    (第52節)
    【…「異なるもの〔他者〕」は、自分固有のものの類似物としてのみ考えることができる。それは必然的に、その意味の構成ゆえに、私の最初に客観化された自我と私の原初的世界との「志向的変様(37)」として現れる。つまり、他者は、現象学的には自己の「変様」として現れるのだ(私の自己が「私の」というこの性格を受け取る(38)のは、ここで対になることが必然的に現れて、対比が行われることによってである)。…】

    訳注(37)
    intentionale Modifikation:「変様」とは、フッサールが『論理学研究』以来、よく使ってきた用語で、本書でも
    これまで目立たない仕方ですでに使われてきている。しかし、ここでは特に、「現在させる働き」と「準現在させ
    る働き」の間に、また、「現前」と「共現前」の間にも、後者は前者の「志向的変様」という関係がある、それゆ
    え、「自分固有のもの」と「異なるもの」の間にも、同様な「志向的変様」の関係がある、という点が強調されて
    いる。しかし、このような主張は、その後、フィンクによって、「現様態の優位」を主張する「思弁的思考(形而
    上学)」として批判されることになった。

    訳注(38)
    「他者は、現象学的には私の自己の「変様」だとすると「私」というのが先にあるのでなければならないだろう。
    ところが、この括弧内では、「対になること」によって初めて「私の」という性格を受け取るのだとすると、それ
    に先立って「私の」という性格がるわけではないことになる。「対になること」によって初めて、「私の」と「他
    者の」が言わば同時に生成してくるわけである。「我は汝と対比のなかで初めて構成される」(『間主観性の現象
    学』第一巻)という言い方も、この脈略で理解されよう。

    わたし、簡単に見ちゃって、精神の分節において、分節されたものものは〈対になって存在している〉っていうふうに見る、っていうことなのかな?〈自〉と〈他〉は対になって初めて〈自〉である、とか〈他〉であるって覚されている。「右・左」とか「上・下」っていのも、対になって初めて「右」「左」「上」「下」が存在することになる、みたいな。

引用返信/返信 削除キー/
■15252 / inTopicNo.81)  Re[19]: 対化
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/28(Wed) 19:59:32)
    対化 [(独)paarung ]  (「現象学事典」より)

    〔フッサールが他者論において用いた用語で、固有領野によって対(Paar)をなすこと、そこからさらに私の身体からの意味の移譲にとよって他(他者)の身体という意味を得るようになる現象のことをいう。フッサールは、両身体の類似性にもとづく他者経験を類比化的統覚(analogisierende Apperzeption)と特徴づけるが、それが類比推理(analogieschluß)〔伝統的な「類推説」〕のような思考作用(=能動的・対象化作用)ではないことを強調し、それを「受動的総合の根本形式」と呼ばれる対化の現象として説明しようとした。それは、フッサールの他者論を能動的・対象化的な構成作用と解された自己移入においてのみ捉えることに、重要な反証となるものであり、「自我と他我はつねに必然的に根源的な“対化”において与えられる」、「生き生きと相互に呼び覚まし合い、覆い合う」といった箇所に自他の根源的な相互性(あるいは等根源性)を読み取る論議もあり、これはメルロ=ポンティも着目していたところである。たしかに、フッサール自身の議論には、(1)対化について論じられている『デカルト的省察』第五省察の場面では、他者からの志向作用は方法的に捨象されていたはずで、それを対化現象によって密輸入しているのではないか、(2)対化はもともとある与件(物体)との別の与件(物体)との間に成立する現象として考えられていたはずで、それが(私の)身体とある物体(他人の身体)の間に成立するというのは論点先取りではないか、(3)結局、類似性に拠り所を置くのであれば、類推説の持っていた難点のいくつかは共有されているのではないか、といった批判を免れないところがある。しかし、フッサールを内在的に超えてゆく道として、他者経験をむしろ非対象化的・非主題的な次元で捉えるというK.ヘルトの構想に沿って、この対化の現象を手掛かりにして他者経験を受動的総合と発生的現象学において解明しようとする試みもある。〕

    ここに書いてある
    〔両身体の類似性にもとづく他者経験を類比化的統覚と特徴づけるが、それが類比推理〔伝統的な「類推説」〕のような思考作用(=能動的・対象化作用)ではないことを強調し〕っていうところは、
    No15221の(FD-7)の【それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理〕なのではない。ここで言う統覚とは推理ではないし、思考作用でもない。】のことを言ってるんだとわたし見てる。

    ここにでてくる〔類推説〕っていうの、ネットで調べて見たら「他我問題」のことのようでした。いろいろあったんだけど、その一つを紹介しときま〜す。
    tanemura.la.coocan.jp/re3_index/4T/ta_other_mind_problem.html

    あ〜、めんど。
    今日はこのへんでやめよっと。
引用返信/返信 削除キー/
■15251 / inTopicNo.82)  Re[18]: 原初的世界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/28(Wed) 19:54:24)
    No15221について、とわたしに思われる「現象学事典」の間主観性のところに書いてあるものを一部書き写して見る。

    〔…ここでもフッサールはまず、われわれの世界のなかでの他人との関係を含んでいると思われるいっさいのものを捨象し、まったく私だけの世界に立ち返って見ることから始める。これが、「固有領域」(Eigenheitssphare)ないし「原初的領域」(primordinale/primordial Sphare)への還元と言われるものである。そして、このような仮定ものとでは、他人は私にとって何よりもまず一つの「物体」(Korper)として見いだされるはずだ、とフッサールは考える。ただし、その物体は刺激への特有の反応を示したり、固有のふるまい方をするので、それを私の身体と「対化」(Paarung)するような「連合作用」(Assoziation)ないし「類比的統握」(analogisilerende Auffassung)が働き、そこに「身体」(Leib)という意味が移し入れられるようになる。それにさらに私の「自己移入」(Einfuhlung)が作動し、それによって他人の体験が私にいわば付帯現前化に呈示(apprasentieren)されるというふうにして、いわゆる他我が構成される、という筋書きになっている。…〕(FD-8)
    (Eigenheitssphare、Sphare、apprasentierenのaの上の点々、Korperのoの上の点々、Einfuhlungのuの上の点々は省略してあります)

    ここに出てくる「対化」「連合」「自己移入」、現象学のはどんなのかを見てゆこうと思いま〜す。

    な〜んかめんどくさくなってきたんだけど、このへんの物語りはざっと流しとくことにするね。

引用返信/返信 削除キー/
■15250 / inTopicNo.83)  Re[17]:  〈自〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/28(Wed) 19:45:18)
    〈自〉っていう”そのようあもの”、ちょっと言いかえるね。ここんとこキモになるって思うから。

    私の精神のうちの〈身体と直接キアスムしている原初的で固有の志向的生の主体的な領分〉ってする。

    でも、精神の発生っていうの考えると、大人になったときに精神の”領分”って言われるようになるんで、乳幼私の時点じゃないのかも。
引用返信/返信 削除キー/
■15221 / inTopicNo.84)  Re[16]: 原初的世界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/25(Sun) 16:55:28)
    『デカルト的省察』第50節、書き写しね
    【…ここで次のように仮定してみよう。私たちの知覚の場に他の人間が一人現れる。このことを原初的に還元して言えば、私の原初的自然の知覚の場に或る物体(ケルパー)が現れ、それは原初的な物体としてもちろん、単に私自身を規定するものの部分(「内在的超越」)にすぎない。この自然と世界のうちでは、私の身体(ライプ)が、身体(機能している器官)として根源的に構成されている。また構成されることができる唯一の物体(ケルパー)である。だから、そこにある物体〔他の人間〕はなるほど身体として捉えられているが、それはこの〔身体という〕意味を、私の身体の把握からの転移によって得るのでなければならない。しかもそれは、それ特有の身体性という術語を現に直接的に、それゆえ原初的に実証すること、すなわち本来的な知覚によって実証することは排除するような仕方においてである。私の原初的領分の内部での、あそこにある物体を私の物体と結びつける類似性のみが、前者を他の〔他人の〕身体として「類比によって」捉えるように動機づけるための基礎を与えることができるということは、初めから明らかである。それゆえ、それは或る種の類似にもとづく統覚という把握の働きであろうが、だからと言って、それは類推〔類比推理(32)〕なのではない。ここで言う統覚(33)とは推理ではないし、思考作用でもない。…】(FD-7)

    【統覚(33)】の訳注は、
    No11393。わたしがここで話題にしようとしてるのはそこじゃなくて、自と他と身体の連関について。

    【類比推理(32)】の訳注は、
    〔Analorgiechluß:類比を使った推論(Schluß)という知的操作である。他者(他の人の心)についての知を類推説によって定式化したのは、J・S・ミルであったが、それに対して批判を加え、「いかなる推論でもなく、或る根源的で、それ以上遡ることのできない本能的事実」として「感情移入」を主張したのがリップスであった。〕

    【このことを原初的に還元して言えば】は、現象学的還元して乳幼の頃に遡って、そこにおいて見る、っていうことだとわたし見てる。
    あ、ここで「乳幼のころの私」(生後5か月からの0歳児の私)を「乳幼私」って言い表すことにする。

    【物体(ケルパー)】と【身体(ライプ)】についてはほかのところで訳注があったので、書き写しておきます。
    〔ラテン語とフランス語で思考・執筆したデカルトにとって物体と身体はともに一語(ラテン語ではcorups、フランス語ではcorps)で表される。デカルトの著作の邦訳を見ると、文脈によって「物体」と「身体」が訳し分けられているが、原語は一つなのである。それに対し、ドイツ語には、ラテン語・フランス語と言語を同じくする「物体Korper」(これも「身体」を表す場合もあるが)とは別に、「身体Leib」」という語があり(これは、「生きる(leben)」と言語を同じくしており、その意を汲んで、「生ける身体」と訳すこともできる)、フッサールは早い時期から(1907年の講義録『物と空間』)、両者を使い分けていた。因みに、仏語では、Korperには corpsを、Leibにはcorps organique(有機的物体または生体)を、英訳では、前者にbodyを、後者にはanimate organique(生きた有機体)をそれぞれ当てている。〕(Korperのoの上の点々は省略してます)

    【私の原初的自然の知覚の場】の【自然の】っていうのも関心ある。

    No14911で書いた「fremd」。
    乳幼私にとって「fremd」(見知らぬもの)っていう語、いいかも。それがまだ何であるかわからない状態のもの。
    【或る物体(ケルパー)】は乳幼私にとってfremd。そしてそのfremdは、乳幼私には、まず「物体」、しかも「動く物体」として見られているのでは、ってフッサールは見ているんだと、わたしは見ている。

    長くなっちゃったんで、このつづきまた後で。

引用返信/返信 削除キー/

<前の12件 | 次の12件>

トピック内ページ移動 / << 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 >>
Mode/  Pass/

TOP HELP 新着記事 トピック表示 ファイル一覧 検索 過去ログ

- Child Tree -