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No15272 の記事


■15272 / )  Re[21]: 自己移入
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/29(Thu) 20:05:40)
    自己移入 [(独)Einfühlung ] (「現象学事典」より)

    〔フッサールの他者論における中心概念の一つ。他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論は、自他の等根源性をあるいは他者の他者性を見失うものだ、という多くの批判に晒されてきた。もともと美学において使われていた感情移入(Einfuhlung)という概念を、Th.リップスは心理学および社会学の根本概念として広義にとらえ、他我問題に関するJ.S.ミル以来の類推説を批判しつつ、感情移入説を展開したが、フッサールは初めこのリップスの説と取り組み、そこから多くを学びつつも、感情移入を「本能」としてしまう点、身体次元での問題を見逃している点などには批判的であった。にもかかわらず、彼はこの用語を棄ててしまうのではなく、それを換骨奪胎していこうとした。つづく時期フッサールは人格(主義)的な態度にもとづく他者論を展開したが、そこでは表現・意味・理解といった概念が中心的役割を果たし、感情移入とは身体的表現の意味の理解のことにほかならないとされた。そこに、ディルタイの精神科学・解釈学からの影響を読み取ることもできるし、また、類推説と感情移入説をともに退けつつ他者の直接知覚説を展開した。M.シューラ―との近縁性も指摘することができる。しかし、フッサールの他者論の眼目は、『デカルト的省察』で確認されるように、経験的(内的世界)な次元ではなく、超越論的な次元での問題にあったのだから、問われるべきは自己移入という概念がこの次元でどれだけ有効かであろう〔フッサールはこの書では、「自己移入」という語を括弧つきで使うか「いわゆる」という前置きをつけて使おうとしており、それに代わって中心概念となっているのは「他者経験」(fremderfahrung=異他なるものの経験)という語である〕。また、自己移入において、「そこ」への自己を置き入れること(Sichhineinversetzen)には「ここ」から自己を置き出すこと(自己の脱中心化=異他化)が対応していること、さらに、自己移入が受動的総合の次元に属することが示唆されていること(対比の現象)、こうした点を考慮に入れるならば、自己移入論に向けられた批判の多くは再検討を要するものとなろう。〕(Einfuhlungのuの上の点々は省略してあります)

    ここで、メルポンのを、
    「現象学事典」間主観性では、
    【…そこで後のメルロ=ポンティなどは、この「自己移入」をもっと身体的な次元で起こる共鳴のごときものとして捉え、したがって始めから自他の区別をもたない「匿名的な」働きを見ようとしている。たとえば、幼児が母親の笑顔に同調するといった「体位の受胎」などは、まさにそうした匿名の出来事であり、それはもはや〈自己〉移入とは呼べないものなのである。そして、このように考えると、世界が一つか無数かという問題も新たな展開を求められるはずであり、それはいわば他者構成以前にわれわれによってすでに生きられているいわば匿名の機能そのものだという考え方も可能になるのである(たとえばヘルト)。・・・】
    『知覚の現象学』では、
    【私の意識が、自己を脱し、それらにおいて自己を忘れるのである。】

    〔他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論〕っていうのがある。でもフッサールのは〈自己を、「ここ」から「そこ」へ置き出す、ということと、「そこ」から「ここ」へ置き入れる、ということは、同じことを意味してる〉って見てるのかな?

    ちょっと話題が違うけれど、ここに「自己」っていうの出てきてる。「己」っていうのどうしとこうか、っていうのがわたしの問題ね。わたしにおける〈我〉〈自〉〈他〉の意味はだいたい表現できた見たいなんだけど、「己」についてはぼやけたイメージは浮かんでるんだけどまだはっきりと見えてきてない、っていう感じなんだけど、まだ言葉で表現できない。

    それにしても〔他者(他我)が自我からの意味の移譲(移し入れ)によって構成されるとする自己移入論〕っていう論、けっこういいかげんですましちゃってるよね。

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