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■15198 / inTopicNo.85)  Re[15]: 〈他〉
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/24(Sat) 18:34:54)
    ちょっと思ったんだけど、「他者」っていうのどうしとこうかって。フッサールの場合「他我」のことみたいだけど。わたしのばあい「他者」っていうの〈私の外にあるものもの〉ってしとく。「人」に限らないっていうことね。
    わたしの前にある机、パソコン、コップ、…。今は私の前には人はいないけどね。現象学的には「現前」とか、私以外の「存在者」みたいなことになるのかな。「他人」と「他者」とをわたしにおいて区別するためひとまずそうしとく。
    あ、きょうの話題はこれじゃなくて。

    私の知覚の場に現れているもの、知覚されているもの、これは私の外にあるもの、これって非私のね。
    「人」のばあい、「他人」って言うことになるかな。
    知覚っていうの、精神の領分、そして「私の外にあるものもの」は、私の精神のうちに、“そのまま”存在しているわけじゃない(だって、たとえば、わたしが腰かけてるこのイス、わたしの脳の中にとてもじゃないけど入りきれない)。そこんとこいちおう区別しとく、っていう意味で、精神のうちに現れてるものを〈他〉って呼ぶことにした。

    これで、わたしにおいて、〈自〉、〈他〉っていう用語の使い方が整理できたかも。
    そしてわたしは、私の精神のうちには〈自〉という領分と〈他〉という領分が共存しているって見ることになった。

    このようにわたしに見られたところで、
    現象学のを、また見てゆくことにしま〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■15161 / inTopicNo.86)  Re[14]: 原初的世界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/23(Fri) 11:16:00)
    ど〜しよう

    乳幼児のわたしの世界を言葉で表現しようとするの、けっこう難しいことに気づく。

    ここで乳幼の頃っていうの、
    No11532から、視・聴・嗅・味覚が完成する生後5か月頃からの0歳児ってしとく。

    わたしは乳幼児。わたしまだ言葉は喋れないし、立って歩くこともできない。

    それと、こういうのって、想像でしかない?

引用返信/返信 削除キー/
■15160 / inTopicNo.87)  Re[13]:  〈自〉
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/23(Fri) 10:57:53)
    ■15101で見たように、
    私の精神のうちに、〈原初的で固有の身体と直接キアスムしている志向的生の主体的な領分〉(y)があるってして、わたしそれを〈自〉って呼ぶことにした。

    フッサールの場合、(y)は「我ego」なんだけど、わたしのばあいの「我ego」っていうのデカルトの「ego cogito」(我考える)から、精神の働きの〈考える〉っていうことをする領分を「我」ってしちゃってる。(y)のようなものは〈考える〉こととは区別される働きのような気がするから、〈自〉っていう語を当てることにしたっていうことね。
    でもね、わたしの〈自〉のイメージは、〈自〉のうちには知覚・記憶・思・考が含まれている。ん〜ん、それらの芽があるっていう言い方の方がいいかな。このよういうの、
    No14260にかかわってくるん。
    それと、
    No14299のような感じのも含まれてる。

引用返信/返信 削除キー/
■15101 / inTopicNo.88)  Re[12]: フッサールのe「我ego」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/21(Wed) 18:47:08)
    No15084のつづき
    わたし(1)〜(7)のように見て、の、まとめね。

    〈私の精神のうちには、原初的で固有の、身体と直接キアスムしている志向的生の主体的な領分がある〉、ってフッサールは見ているんだとわたし見えたんね。
    そして“そのようなもの”をフッサールは「我ego」と呼んでいるんだと。

    わたし”そのようなもの”がある、ってすることにした。

    でもね、わたしのばあい、その呼び名は「我ego」じゃなくて、「自」って呼ぶことにしちゃった。

引用返信/返信 削除キー/
■15085 / inTopicNo.89)  Re[11]: ちなみに
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/20(Tue) 20:34:20)
    『デカルト的省察』で、訳者の「我」「自我」「私」の訳し分けは、

    訳注より、
    〔原文では、一般的な人称代名詞であるichと、その名詞化であるdas Ichと、ラテン語の人称代名詞であるego、およびその頭文字を大文字化したEgoが、使い分けられている(どこまで厳密に使い分けられているかは、難しいところだが)。本訳書では、ichを「私」、das Ichを「自我」、egoおよびEgoを「我」(エゴ)とした。それぞれの違いにつては、本文のさまざまな文脈から読みとっていただきたい。〕
    ってありました。

    ついでに[das]をネットで調べて見たら、
    ・それ(その場の中性単数の人や物を受けて)。
    ・これ(それ、あれ)、これら(それら、あれら)、こちら(そちら、あちら)など(性・数に関係なく、その場の人・物・状況・話題などを指す主語として)。
    ってありました。

    「自己」っていう語が使われているところもあるんだけど、調べて見たんだけどわかんなかった。

引用返信/返信 削除キー/
■15084 / inTopicNo.90)  Re[10]: フッサールの「我ego」
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/20(Tue) 20:20:27)
    ■15044のつづきね
    わたしの見え
    (1)(a)から、「我」というのは、私の原初的な固有領分の内部で構成されたもの。
    (2)(f)から、「我」というのは、心的領分であるということ。
    (3)(a),(d)から、「我」は〈私の---私自身〉から、「我」を「自身」として見る。
    (4)(d)より、「我」というのは、身体と直接かかわるもの。
    (5)(d)の「原初的世界」を〈原初的な精神世界〉として見ると、(2)とあってる。
    (6)(b)の「心理物理」を〈心理を精神、物理を身体〉として見ると、(4)(5)とあってる。
    (7)(b)(d)(e)(f)から、「我」というのは、「唯一の」であり「主体」である、っていうこと。

    って見て見た。

    (c)の「人格」っていうの、訳注に書いてあったのを書き写して見ます。
    〔Person:この語には、中世キリスト教以来の伝統があるが、フッサールがこの語を使うとき、ロックが「人格〔人物〕の同一性」を論じたこと(『人間知性論』)、カントが理性的存在者(他者)を「物件Sache」でなく「人格Person」とみなすように論じたこと(『道徳形而上学原論』)、そしてソシュールが人格を「対象化されえない作用中心」と考えたこと(『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』)、これくらいを念頭に置いていると考えられる。フッサール自身は「人格」の問題を「人格主義的態度」とともに、『イデーンU』で考察していた。ロックは、「人格」を「理知と省察を持ち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある者」と定義していたが、この定義を満たしさえすれば、人間以外の(ないしは、以下の)動物といえども「人格」と呼ぶことができる。同様にしてフッサールも、「人間以下の「人格」」と述べている。〕
    ってすると、「人格的」自我、っていうのは、「理知と省察を持ち、自分自身を自分自身と考えることのできる、思考する知能ある者」的自我、っていうことになるのかも。

    (5)で「原初的世界」を〈原初的な精神世界〉って見たんだけど、わかりやすくいうと〈乳幼児の精神に現れてるもの〉って見てるよ。

    こういうのって、知性豊かな大人を”対象”としてる人には関係ないけどね。
    んん、言いかえると文化的存在(人間が作り出したもの)から思いをはせてる人には関係ない話しっていうことね。

    つづく

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■15044 / inTopicNo.91)  Re[9]: 他者
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 19:34:18)
    ■15041のつづきね

    第50節の書き写し
    【…最初の手がかりを与えてくれるのは、他者、すなわち他の自我という言葉の意味である。他者(アルター)とは、他我(アルター・エゴ)を意味している。そして、ここで含意されている我(エゴ)は、私の原初的な固有領分の内部で構成された私自身であり、しかも、唯一性をもった心理物理的統一体として(原初的な人間として)、「人格的」自我として、私の唯一の身体において直接支配しつつ、また直接的に原初的世界に作用を及ぼしている私自身である。それはまた、具体的な志向的生の主体であり、自分自身と世界とに関わる心的領分の主体である。…】(50-2)

    フッサールのいう「他者」っていうのは、「他我」←〈他の自我〉のこと見たい。
    ここにはフッサールのいう「我ego」がどのようなものかが書かれてあるので、いっぱい考えて見ました。

    フッサールにおける「我ego」とは、
    (a) 私の原初的な固有領分の内部で構成された私自身
    (b) 唯一性をもった心理物理的統一体(原初的な人間)
    (c) 「人格的」自我
    (d) 私の唯一の身体において直接支配しつつ、また直接的に原初的世界に作用を及ぼしている私自身
    (e) 具体的な志向的生の主体
    (f) 自分自身と世界とに関わる心的領分の主体
    っていうことね。

    なにこれ?っていう感じなんだけど、間主観的にわたしに思われたものを、ちょっと長くなっちゃたから、分けて書いて見ることにしま〜す。

    つづく


引用返信/返信 削除キー/
■15041 / inTopicNo.92)  Re[8]: 原初的世界
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 17:56:03)
    フッサールの『デカルト的省察』の第五省察のところを読み返して考えてるよ。
    しばらくここについての物語りで〜す。

    書き写し
    【原初的な領分の定義と分節化という、超越論的には非常に重要な前段階がすでに片付いてしまったので、次には、客観的な世界の構成に向かう前途の歩みのうちの第一の歩み、すなわち「他者」への歩みに進むことになるが、ここでの本来の、しかも実際に少なからぬ困難とぶつかることになる。その困難とは、他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での他者経験を、超越論的に解明することにある。…】(50-1)

    ここに出てくる「超越論的」っていうの、カントの用語みたい。フッサールはこの用語を使っているんだけどカントのとは意味が違うようでややこしくなっちゃうから、わたしこの用語は見て見ぬふりすることにしてます。

    (50-1)のところでわたしが思ったのは、
    【「他者」への歩み】が【客観的な世界の構成に向かう前途の歩みのうちの第一の歩】だっていうこと。
    フッサールの言う「他者」っていうのがどういうものなのか、っていうの後に出てきてるので、そのときに。

    【他者がまだ人間という意味を獲得していない意味での他者経験】っていうところ、
    乳幼の頃にはまだ「人間という意味を獲得していない」状態。
    フッサールは現象学的還元して原初的世界から「他者」っていうのを見ようとしてるんだとわたし見てる。

    つづく

引用返信/返信 削除キー/
■15037 / inTopicNo.93)  Re[7]: 分け方
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/18(Sun) 15:51:53)
    わたしの
    5No14825で、わたし「人間」を〈私と非私〉って分けて見たんだけど、これって、わたし「人」を「私」って見てる、っていうことにもなるのかも。

    「人間」っていうのを、ひとまず「人間」を〈人の間〉ってすることにした。
    「人」を「私」って見ると、〈私の間〉ってなる。なんか変な感じになっちゃうかもしれないけど、まいいわ。

    「人間」の分け方、もうちょっと別の語を考えて見た。
    〈私と他人〉とか〈自と他〉っていう分け方が思いついてる。

    「私」と似たような語として、「我」「自我」「自分」「自己」「自分自身」「私自身」とか(他にもあるかな?)、っていうのあると思うんだけど、わたしなりにどう区別しとこうか思案中。

引用返信/返信 削除キー/
■15014 / inTopicNo.94)  Re[6]: 身振りの意味
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/17(Sat) 17:50:45)
    メルポンの『知覚の現象学』から、
    【身振りの意味は与えられるのではなくて了解される、つまり、目撃者の作用によって捉え直されるのである。この作用を正しく理解し、それを認識作用と混同しないことが肝心で、問題のすべてはここにかかっている。意思伝達、あるいは身振りの了解は、私の志向と他人の身振りとの間の、私の身振りと他人の振舞いのなかに読みとられている志向との間の交互性によって獲得される。それはあたかも他人の志向が私の身体に住まい、私の志向が彼の身体に住まうが如くである。私が目撃している身振りは志向的対象の輪郭を大ざっぱに描きだしている。私の身体の諸能力がこの対象に適合し、それと一致するとき、この対象は現実的となり、完全に了解されるのである。身振りは私の前に一つの問いとして現れ、私に世界の若干の感覚的な点を示して、この点をたどって身振りに追いつくようにと私を誘うのである。】
    メルポンは【言葉は身振りである】ってしてるから、上記の「身振り」のところを「言葉」に置き換えて見てもOkかも。

    こういうのわたしもそうだな〜、って思う。
    でもね、【私の身体の諸能力がこの対象に適合し、それと一致するとき、この対象は現実的となり、完全に了解されるのである。】っていうことってあるのかしら?あ、「理解」じゃなくて「了解」っていうことのうちでね。

    あれ?どこかですでに書いたかも?まいいわ、今の気分で。

引用返信/返信 削除キー/
■15009 / inTopicNo.95)  Re[5]: 主観と間主観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/07/17(Sat) 15:53:10)
    ■14989、パニさん、
    よくわかんないところあったけど、
    ありがとございま〜す。

    >その還元に他者の主観、他人の自我(以降、「他我」と表記)が如何に成立するかを明らかにするためのアプローチ<
    いまね、ちょうどね、そこんとこ見ているとこ。
    でもその前に、っていうのあるからそこらへんからお喋りさせてもらおっかな、って。

引用返信/返信 削除キー/
■14989 / inTopicNo.96)  Re[4]: 主観と間主観
□投稿者/ パニチェ -(2021/07/17(Sat) 08:20:17)
    2021/07/17(Sat) 08:56:22 編集(投稿者)

    おはよう!悪魔ちゃん。
    いやぁ〜この手の会話は実に興味深いし面白いし楽しい♪^^

    No14978に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > ■No14966、パニさん、

    > 「間主観性」っていうのが話題にのぼったから、もう一度そのことを主に現象学のを見なおして考えてるよ。この話題はこれからのわたしの物語りにしようと思ってるんだけど、現象学のわたしに間主観的にわたしに思われてるものをちょっと書いて見ま〜す。

    今後の悪魔ちゃんの物語り、めっちゃ楽しみ。

    > 〈知覚されているもの〉は私の精神の内のものってわたし見てる。内的世界ね。
    > で、〈知覚されているもの〉は私の外にあるもの(外界)、これは主体である私じゃななくて私にとっては客体だと思う。

    同意!

    > 「主」と「客」っていう語の意味、人によっていろいろあるみたい。キリスト教信者では「主」は「神」ってなるのかもね。あ、話がそれちゃう。
    > で、わたしの、私の精神の内にその客体が観されているもの、それが〈客の観〉、これがわたしの「客観」ね。人で言えば私以外の人は客人。でもその客人それぞれに主観っていうのあるよね。
    > 主体であるそれぞれの「私」の内(内的世界)には客観と主観が同居してる、って見てる。こんな感じのをわたし精神の「間主観性」って見てるよ。
    > あ、なんか私の今のまとめを書いちゃってるかも。

    なるほどなぁ〜。めっちゃ面白いし興味深い。
    悪魔ちゃんの上記の返信は現象学的還元の王道やと思うけど、何故かパニチェがこれまで考えていなかった視点というか考察やわ。

    現象学的還元ってのは自我論的還元、要するに純粋意識の内在的領域、つまり内的世界に還元することであって、その還元に他者の主観、他人の自我(以降、「他我」と表記)が如何に成立するかを明らかにするためのアプローチが間主観性なんやから、悪魔ちゃんの上記のカキコは王道やと思う。

    一方でやっぱこれには矛盾があって、他者の主観や他我は私にとっては認識の地平の彼方であり、私の主観が私秘性に属するように他者の主観も私の内的世界(あらゆる超越を排した純粋な意識の内的領域)には還元することができない。

    > だから、>主観即間主観にはなりえない<だと思うし、>客観イコール間主観<ともなりえないのね、わたしのばあい。

    前述の理由によってパニチェは間主観性や間主観を、客観性や客観を現象学的に還元したものであって、客観性や客観の化けの皮を剥がした代替え用語として受け止める段階にとどめているってことやねん。
    間主観でない客観ってありえるかな?パニチェはないと考えている。神が実在しても人神なら神にも〈私〉があり、内的世界があるわけだから世界を超越的視点でもって世界の外から世界の全てを観察できたとしても観察している主体が存在するかぎり、それは客観ではないと考えている。

    > 「マッハ的光景」
    > 右眼を閉じて〈見えているもの〉を描いた絵ね。〈見えないもの〉は描かれてない、っていうか、描くことが難しいっていうことなのかな。

    そやねん。ここに他者の主観や他我、他者の内的世界は描けないからね。

    > メルポンはこんなこと言ってる。
    > 【私に見えるがままの私の身体は、私の肩の高さから上が欠け、そして触覚筋に触れる対象のところで終わっている。】って。

    これ、もの凄くよく分かる。頭部は世界に無い。首から上は空洞、または透明になっている(笑)。

    > パニさんは〈私〉として、わたしのばあい「私」として、同じようなことについて考えて見てるようだから、”なに言ってるかわからない”でもなさそう。

    悪魔ちゃんに上記と同じことを感じてた。
    現象学的還元、つまり自我論的還元は究極的には「私」や〈私〉に還元される。
    「私」や〈私〉の探究は自我論的還元の側面もあるってことかな。
    現象学的還元(自我論的還元)も「私」や〈私〉の探究も独我論(独在論)を行ったり来たりする。

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