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■13091 / inTopicNo.37)  Re[52]: 生の維持
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/23(Sun) 21:38:20)
    ここに来てるすべての人生きてるよね。
    死後の世があるとするなら、ひょっとしてその人もここに登場してるかもね。

    でね、人にとって問題なのは”生きてる間”じゃない?




引用返信/返信 削除キー/
■13039 / inTopicNo.38)  Re[51]: 一つの物語り----誰かさんの教え
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/22(Sat) 21:16:08)
    わたしの物語りは「想像」から〈思・考〉の世界へ入ってゆくんだけど、

    キリスト教とか仏教っていうのあるよね。それぞれキリストさん、仏さんの「教え」のよう。
    ふたりとも「人」でいいよね。仏さんって、“ふっさん”って呼んでもいいけど、「ブッダ」っていう名にするね。
    キリストさんとブッダさん、なんかいいかも。

    「教え」っていうんだから、誰かに教えようとしてるのよね。
    「教える」っていうばあい、〈あること〉についてわたしは「知ってる」と思ってる人が、その〈あること〉についてあなたは「知らない」って思ってる人が「教える」っていうことになるんだと思ううんだけど。これ問題よね。ま、これはいわ。

    「人は死んだらどうなるの?」っていうわたしの問いに対して、
    キリストさん「天国か地獄のどちらかにいくのだよ」
    ブッダさん「輪廻転生だよ」
    って教えようとしてるんかもね。

    こういうのって、「imagination想像」「fantasy空想」「illusion幻想」「delusion妄想」なのかな?
    そう、人ならではの、〈思・考〉の発達の産物なのかも。

    問題なのは信念ね。哲学はそこを問題としてるんじゃないかしら?
    言いかえると、「根本的な反省」っていうことになるのかな。
    うん、デカルトのね。でも彼自身「それ」を徹底してなかったから「ただの省察」から始まり終わっちゃったのかもしれないね。

引用返信/返信 削除キー/
■12958 / inTopicNo.39)  Re[50]: 一つの物語り
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/21(Fri) 18:49:18)
    pipitさま、■12916、

    >『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p116より引用
    『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。(略)すべての思考に先立って与えられうる像は直観と呼ばれる。だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』<

    ありがとございます。

    >思考、でいいんやない?<
    うん、それでもいいんだけど、このごろはね、「想像」の意味についていろいろ調べてるところ。そのなかで、妄想っていうのが絡んできてる。思・考の領域で起こってってる妄想、こんな感じの。
    もうちょっとまとまったらになると思う。

    またよろしくお願いしま〜す。
引用返信/返信 削除キー/
■12916 / inTopicNo.40)  Re[50]: 一つの
□投稿者/ pipit -(2021/05/20(Thu) 21:53:05)
    No12886に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさまが教えてくれる、
    > 『導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性と知性[悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』中山元先生訳『純粋理性批判1』p63-----(K)
    > とか、
    > >第一版では、感性/構想力(想像力)/悟性の三本柱でカントは記述してたっぽいような。
    > つまり、感性でもない、悟性でもない、第三の能力として置いてたかんじかも<
    >
    > っていうように、第一版では、カントは意識作用(精神)の分節をまず大きく「感性」「知性(悟性)」の二つに分けて、さらにこの二つとは区別されるべき意識の能力として「構想力(想像力)」っていうのを分節した。ってわたし見てるのね。ここまではわたしとしても分かるし、わたしもOKね。<

    うん。情報補足すると、上記引用文は、初版でも第二版でも同じように序論に出てくるみたい。


    > これと、
    >
    > メルポンの『行動の構造』で、
    > 【…カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。
    > …】
    > (33)原注
    > 《「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。》
    > (34)原注
    > 《よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準――それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。》
    >
    > このようなことから見ると、
    >
    > pipitさまが感じているように、
    > >第二版では、構想力(想像力)は悟性、つまり考える能力にされちゃってるかんじだけど(でも、あいまい?ふくざつ?いろいろややこしいみたい)、<
    > みたいな、せっかく分けた「感性」「悟性」「構想力」をどこか一つのところへ、的な。
    >
    > 第二版ではどうやら、様子が変わってきてるんかな〜、って。
    > もし、カントが、自分が見出そうとするものをすでに前提としていて、そこにもって行こうとしてるんだとしたら、そしてそこにムリがあるんだったら、彼を読む人は混乱するんじゃないかしら。ん〜ん読む人のほうが賢いのね。
    > 第一版と第二版とではカント思想が変わった、変わらないっていうのあるみたいだけど、もし、カントが最初から「理性」を、(K)ので言っている『一つの共通の〈根〉』としてしてるんだとしたら、第一版も第二版も変わってない、っていうことになると思う。<

    とりあえず文面としては、カントは『まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉』と表現してるからね〜



    > メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    > 《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》(C)
    > こんなのがある。<

    B132かぁ、見てみるね。
    ここかな?
    『純粋理性批判2』カント、中山元先生訳、光文社古典新訳文庫、p116より引用
    『わたしは考えるということは、わたしが心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなければならない。(略)すべての思考に先立って与えられうる像は直観と呼ばれる。だから直観に含まれるすべての多様なものは、この多様なものが発生する主体におけるわたしは考えるということと、必然的に結びついている。』
    引用終了。


    > わたしが問題は、意識作用(精神)の分節の仕方。だからカントのでは第一版のほうが気になるのね。<

    第一版が好きな人も多そうだよ。
    どっちもカントの根本的な考え方は変わってないとか
    第二版の方がいい
    とか、さまざまっぽいけどね。


    > あ、これ、想像?空想?幻想?憶測?誤解?よくわかんないけど、あくまでわたしに思われたものなんだけど、ちょっと書きたかったのよ〜。<

    思考、でいいんやない?悪魔ちゃん分節では、思、も、考、も入ってるんじゃない?

    おもしろいなぁ、いつもありがとね!
引用返信/返信 削除キー/
■12903 / inTopicNo.41)  Re[49]: 一つの物語り
□投稿者/ pipit -(2021/05/20(Thu) 21:15:14)
    No12885に返信(悪魔ちゃんさんの記事)
    > pipitさまへ、
    >
    > ここ(What)で、わたしのしたいが、
    > No10927のようなものなんだけど、まだこの物語りつづいてるの。
    > まず、おとなの意識の分節から始めて見てるんだけど、で、いまのところ、
    > No12166のようになったのね。
    > 現象学で言受動的総合」を「感性」、「能動的総合」を「知性」ってしたのは、
    > No12057の(K)からね。
    >
    > で、ここから■12817への返信なんだけど、長くなりそうなので次に。<

    まとめてくれて、ありがとー
    わたしも、最終的には、『わたしの』が知りたいよ。

    そういえば思い出したんだけど、カントは記憶も想像力の一種にしてるかも。

    まぁ、象を作ってるもんね。

    No.12814の悪魔ちゃんによる引用では、
    >再生産的想像力<
    が、記憶になるのかな?
引用返信/返信 削除キー/
■12886 / inTopicNo.42)  Re[49]: 一つの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/20(Thu) 19:06:46)
    pipitさまが教えてくれる、
    『導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性と知性[悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』中山元先生訳『純粋理性批判1』p63-----(K)
    とか、
    >第一版では、感性/構想力(想像力)/悟性の三本柱でカントは記述してたっぽいような。
    つまり、感性でもない、悟性でもない、第三の能力として置いてたかんじかも<

    っていうように、第一版では、カントは意識作用(精神)の分節をまず大きく「感性」「知性(悟性)」の二つに分けて、さらにこの二つとは区別されるべき意識の能力として「構想力(想像力)」っていうのを分節した。ってわたし見てるのね。ここまではわたしとしても分かるし、わたしもOKね。

    これと、

    メルポンの『行動の構造』で、
    【…カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。
    …】
    (33)原注
    《「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。》
    (34)原注
    《よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準――それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。》

    このようなことから見ると、

    pipitさまが感じているように、
    >第二版では、構想力(想像力)は悟性、つまり考える能力にされちゃってるかんじだけど(でも、あいまい?ふくざつ?いろいろややこしいみたい)、<
    みたいな、せっかく分けた「感性」「悟性」「構想力」をどこか一つのところへ、的な。

    第二版ではどうやら、様子が変わってきてるんかな〜、って。
    もし、カントが、自分が見出そうとするものをすでに前提としていて、そこにもって行こうとしてるんだとしたら、そしてそこにムリがあるんだったら、彼を読む人は混乱するんじゃないかしら。ん〜ん読む人のほうが賢いのね。
    第一版と第二版とではカント思想が変わった、変わらないっていうのあるみたいだけど、もし、カントが最初から「理性」を、(K)ので言っている『一つの共通の〈根〉』としてしてるんだとしたら、第一版も第二版も変わってない、っていうことになると思う。

    メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》(C)
    こんなのがある。

    わたしが問題は、意識作用(精神)の分節の仕方。だからカントのでは第一版のほうが気になるのね。

    あ、これ、想像?空想?幻想?憶測?誤解?よくわかんないけど、あくまでわたしに思われたものなんだけど、ちょっと書きたかったのよ〜。

引用返信/返信 削除キー/
■12885 / inTopicNo.43)  Re[48]: 一つの物語り
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/20(Thu) 19:04:35)
    pipitさまへ、

    ここ(What)で、わたしのしたいが、
    No10927のようなものなんだけど、まだこの物語りつづいてるの。
    まず、おとなの意識の分節から始めて見てるんだけど、で、いまのところ、
    No12166のようになったのね。
    現象学で言受動的総合」を「感性」、「能動的総合」を「知性」ってしたのは、
    No12057の(K)からね。

    で、ここから■12817への返信なんだけど、長くなりそうなので次に。


引用返信/返信 削除キー/
■12817 / inTopicNo.44)  Re[47]: 想像
□投稿者/ pipit -(2021/05/18(Tue) 20:48:14)
    No.12814
    悪魔ちゃん、こんちは !

    あー、そういえば、はるか彼方に忘れてたけど、
    カントの、純理の第一版と第二版での構想力(想像力)の扱いが違うことについてを
    勉強してて、途中でそのままにしちゃってる気がする(・・;)

    第二版では、構想力(想像力)は悟性、つまり考える能力にされちゃってるかんじだけど(でも、あいまい?ふくざつ?いろいろややこしいみたい)、

    第一版では、感性/構想力(想像力)/悟性の三本柱でカントは記述してたっぽいような。
    つまり、感性でもない、悟性でもない、第三の能力として置いてたかんじかも

    めっちゃ、途中で勉強放棄してたわ。。。(~_~;)

    思い出させてくれて、ありがと!
    (勉強またするかどうかはわからんけど)


引用返信/返信 削除キー/
■12814 / inTopicNo.45)  Re[46]: 想像
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/18(Tue) 20:19:52)
    意識作用の分節において、分節されるものとして「想像」っていうのあるってわたし思ってる。

    まず、「現象学事典」から書き写して見るね。短いから全部そのまま。

    《想像力 [(仏・英)imagination ]
     想像する能力。再生産的想像力と創造的想像力に分けられる。想像力は人間的識の本質的作用であるにもかかわらず、従来の心理学や形而上学は、想像力が身体と関わることから、これを低級な能力と見なしてきた。デカルトにおいて、想像するとは精神が己を物体に向け、その物体のうちに、精神自身によって理解された観念ないし感覚に知覚された観念に対応するものを、直観することのである。つまり心像は外部の対象と同じ資格のひとつの対象であり、想像することは、物体的なものの形ないし像を眺めることなのである。ベルクソンは、イマージュとは、観念論者が表象と呼ぶものよりは劣っている存在、つまり表象と事物の中間にある存在と考える。以上のように心像は従来、しばしば物ないし物のような存在と捉えられてきた。これに対し、現象学は、知覚と想像とは意識の対象に対するかかわり方が本質的に異なることを明らかにした。知覚は対象を現にここに存在するものとして定立するが、想像とは対象を無として定立し、現実を超え出る作用である。サルトルが主張するように、想像力は人間的意識の本質的作用であり、積極的に評価されるべきである。意識の非現実化する優れた作用である想像力は、現実世界との交通を遮断して、可能性の世界を開示する能力である。そしてこの能力をその存在の本質とする意識そのものが、すでに自由なのである。》

    とのことです。

    《可能性の世界を開示する能力》とか《自由》って、なんかいいよね。

    「想像」って、考えることや思うことの領域に属してるってわたし見てる。
    カントってpipitさまから教わったんだけど「構想力」っていう語になってると思う。同じかどうかわかんないけど、考えることの領域に入るんだと見てる。

    ちなみに、わたしのばあい「思考」の「思」と「考」は区別してる。
    「思」は「感情」と親しい関係にあるように見えてる。「考」はどうかしら?








引用返信/返信 削除キー/
■12752 / inTopicNo.46)  Re[45]: 直観
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/16(Sun) 20:17:22)
    No12059、現象学のを手引きにして、相互主観的にわたしに思われた意識作用(精神)の分節のつづきね。

    で、「直観」って言うの。

    No11393の(FD-4)に【すでに物が見えている子供は、例えばハサミの使い方を初めて理解した後では、一目で直ちにハサミをハサミとしてみるようになる。】っていうところがある。

    【一目で直ちにハサミをハサミとしてみるようになる。】
    こういうのを「直観」ってして見る。

    直観について、ある人がある書物のなかで(出どころを書き留めとかなかったら忘れちゃった)
    《…一目で見て取るということと、順序を追ってわかって行くという対である。これまで順序を追わないとわからなかったことが、何度も追い直すことによって一目で見て取ることができるようになる。…》
    って書いてあった。

    「直観」って言うのは、「何度も追い直すこと」、何度も経験するなかで、っていうことのうちでの意識作用、ってして置く。

    メルポンの現象学的還元、
    No11365の(MP-3)に指示に従うなら、
    【ハサミの使い方を初めて理解し】
    が問題ね。
    幼児の世界に遡って、そこからそのうちで、見ようとするなかで、
    幼児にとっては、この世界はすべてが初めて見るもの。
    幼児はどのようにしてこの世界を知ってゆくのだろうか(これ、たぶん内的時間意識)。
    っていうこと。こういうのってアプリオリな意識(原初的領分)だと思う。

    No11393で【二つの統覚】(わたしのばあい「統覚」と「統握」って区別したけど)があるように、
    「直観」にも二つの領域におけるものがあるとしておく。
    うう〜ん、感性的直観と知性的直観かな。

引用返信/返信 削除キー/
■12547 / inTopicNo.47)  Re[44]: その前に
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/09(Sun) 18:35:36)
    わたしの物語りに戻る前に、「神」についてのいろいろ調べてきたなかでの、ひとまずのわたしの感想を書いとく。

    「哲学」だと、一元論、二元論、多元論、唯心論、唯物論、みたいなのあるみたいね。「神」にも、多神、一神、汎神、っていうのあるみたい。
    どっちが先かわかんなきけど、なんか人の発想って似てる。
    科学者は宇宙の根源?、そんなの”知りたい“って思ってるみたい。

    ギリシア神話は多神で多元論的だと思う。ん〜んそれとも汎神かな?
    日本ではこっちのような気がする。山の神、海の神、…。いっぱい神さまがいる。ちょっと前には「トイレの神さま」ね。いろんなとこに神さまがいる。宿ってる?ん〜ん、受肉?受物?こう見るといっぱい物語ができておもしろそう。

    でもね、こう見てみると、一神教はプアーね。人間の想像力をなくしちゃうっていう感じ。いろんな存在を認めないっていうことだから。唯一神っていうことは、他の神さまを否定・排除しなさい、っていうことよね。ん〜ん、なきものにする、っていうことかな。
    キリスト教さんが言う「神の愛」は「愛の神」を望んでるだけ。とってもとっても限られた狭い狭い人間観のなかで、人どうしの殺し合いを挑発する理由の正当性を主張してるように、わたしには見える。

    あ、わたしのメインの感想はこんなことじゃなかった。

    ギリシア神話のなかでわたしが好きなベストスリーはね。
    第3位 パンドラ
    第2位 アテナ
    第1位 ヘスティア

    で〜す。

引用返信/返信 削除キー/
■12536 / inTopicNo.48)  Re[43]: 見えないもの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/09(Sun) 16:15:24)
    〈神〉って目に見えないもの。〈霊〉っていうのもね。〈精神〉もそうね。
    〈神〉って人間が想像したもの。
    ってすると、〈神〉とか〈霊〉っていのは人間の精神のなかに存在する、っていうことになるよね。

    ってすると、「神」っていうの考えるとき、人間の精神を見ていかなくちゃなのかも。

    あるが概念が形成されて、それに名(語)をつけるとするよね。
    わたしの問題はね。その名の方じゃなくて、より先なるもの(アプリオリ)の概念の方なのね。
    たとえばね、ある概念が形成されたとするよね。ある人はそれに「神」っていう名をつけ、ある人は「自然」っていう名をつけたとするよね。似たような概念なんだけど、前者によって後者がダメってしちゃって、前者の方がある時空で権力をもっていたとき、後者は排除されちゃったりするのね。
    わたしのばあい、〈万物の創造主〉を「自然」っていう名にしてるから、後者の方ね。
    でも、そうしたときちょっと問題がおこってくるのね。あ、これはまた後で。

    「権力」っていうのを見ていくのもおもしろいかも。
    あれ、また話題がそれきてる。これも後でね。

    いずれにしても、
    メルポンの『見えるものと見えないもの』っていう分け方、カテゴリー(もうこれ以上に分けることができないもっとも根本的・一般的な基本概念)なのかも。


引用返信/返信 削除キー/

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