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No12886 の記事


■12886 / )  Re[49]: 一つの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/05/20(Thu) 19:06:46)
    pipitさまが教えてくれる、
    『導入のためのこの序論としての役割においては、人間の認識には二つの〈幹〉があることを指摘しておくだけで十分であろう。この二つの〈幹〉とは感性と知性[悟性]であり、これらはおそらく、まだわたしたちには知られていない一つの共通の〈根〉から生まれてきたものである。感性によって、わたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』中山元先生訳『純粋理性批判1』p63-----(K)
    とか、
    >第一版では、感性/構想力(想像力)/悟性の三本柱でカントは記述してたっぽいような。
    つまり、感性でもない、悟性でもない、第三の能力として置いてたかんじかも<

    っていうように、第一版では、カントは意識作用(精神)の分節をまず大きく「感性」「知性(悟性)」の二つに分けて、さらにこの二つとは区別されるべき意識の能力として「構想力(想像力)」っていうのを分節した。ってわたし見てるのね。ここまではわたしとしても分かるし、わたしもOKね。

    これと、

    メルポンの『行動の構造』で、
    【…カントの「超越論的感性論」の意味は、だいたいこのようなものである(33)。だが、この批判主義的態度は暫定的なものでしかありえないはずであり、『純粋理性批判』の第二版がそれを示している。実際われわれは、「〔感性〕に与えられたもの」と「〔悟性によって〕思考されたもの」との関係とか、純粋感覚ともいうべき〈惰性的な「物」〉に対する意識の作用とか、また「触発」と認識の関連、感覚的意識と悟性的意識の連関などをどう考えたらよいであろうか。そのように反省してみると、カントにおいては、結局のところ、感覚的と言える意識は存在せず、「感性論」と「分析論」の分裂とか、所産的意識といったものは存在しないことになってくる(34)。
    …】
    (33)原注
    《「超越論的感性論」は、〈経験内容〉ばかりではなく、ついには〈空間形式〉それ自身をさえ、人間の構成した〈偶然的なもの〉にもとづけているほどである。》
    (34)原注
    《よく知られているように、『純粋理性批判』の第二版は、〈感性〉から「形式的直観」、つまり「超越論的感性論」の言う「われわれの触発される仕方」を奪って、それを〈悟性〉に与え、また〈超越論的想像力〉の三段の綜合――を放棄して、意識のすべての水準――それは抽象的分析によってのみ区別される――に「我思う」が現前してるということを、第一版よりもいっそう明らかにしようとしているのである。》

    このようなことから見ると、

    pipitさまが感じているように、
    >第二版では、構想力(想像力)は悟性、つまり考える能力にされちゃってるかんじだけど(でも、あいまい?ふくざつ?いろいろややこしいみたい)、<
    みたいな、せっかく分けた「感性」「悟性」「構想力」をどこか一つのところへ、的な。

    第二版ではどうやら、様子が変わってきてるんかな〜、って。
    もし、カントが、自分が見出そうとするものをすでに前提としていて、そこにもって行こうとしてるんだとしたら、そしてそこにムリがあるんだったら、彼を読む人は混乱するんじゃないかしら。ん〜ん読む人のほうが賢いのね。
    第一版と第二版とではカント思想が変わった、変わらないっていうのあるみたいだけど、もし、カントが最初から「理性」を、(K)ので言っている『一つの共通の〈根〉』としてしてるんだとしたら、第一版も第二版も変わってない、っていうことになると思う。

    メルポンの『行動の構造』の訳注に、
    《カントの有名な言葉。直観に与えられる多様な表象が綜合されて、〈一つの経験〉ないし〈一つの認識〉となるためには、それらの表象がすべて「我思う」に関係づけられていなくてはならない、というわけであるkritik der reinen Vernunft,B.132」。」…》(C)
    こんなのがある。

    わたしが問題は、意識作用(精神)の分節の仕方。だからカントのでは第一版のほうが気になるのね。

    あ、これ、想像?空想?幻想?憶測?誤解?よくわかんないけど、あくまでわたしに思われたものなんだけど、ちょっと書きたかったのよ〜。

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