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No12059 の記事


■12059 / )  Re[16]: わたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/20(Tue) 20:08:41)
    んでね、わたしの。

    「受動的総合」を「感性」、「能動的総合」を「知性」ってして見てる。

    そして、「感性」は、〈感覚・知覚〉、「知性」は〈思・考〉、ってして見る。

    あと、「統覚」なんだけど、
    No11393で見たように、フッサールによると、統覚は二つの統覚――「低次の」と「高次の」――に分節してる。わたし前者を「統覚Apperzeption」、後者を「統握Auffassung」という語で区別することにした(あ、これ、あくまでもわたしの勝手なやつね)。

    で、簡単にまとめてみると、

    受動的総合 = 感性 ←感覚・知覚・統覚
    能動的総合 = 知性 ←思・考・統握

    ってなる。

    ここにわたし「知性」ってしたけど、狭義の意味での「知性」ね。わたし「知性」って受動的・能動的総合の両方を「知性」と見ることもできる気がしてる。狭義の意味での「知性」っていうのは、〈考える作用〉とか〈真正な判断をもたらすとする認識作用〉、という意味でのね。おそらく(K)に書いてあるカントの『知性〔=悟性〕』っていうのはこういう意味でのだとわたし見てる。メルポンは、デカルトのやカントのことを「主知主義」って呼んでる。おそらくわたしが見ている狭義の意味での知性として「主知主義」ってしてるんだとわたし見てるから、ひとまず「知性」ってしておく。

    No112057の(K)に、『感性によってわたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』ってあるけど、これって、(fd-1)の〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕と重なる気がする。

    いまのところこんなの感じのが、わたしの。

    意識の分節の仕方と分節されたものの意味が、フッサールのと、カントのと、わたしに見えているこのようなものとは、まったく同じものである――すなわち「理解できている」っていう判断――あるいは「一致」――とは必ずしも言い切れない。でもそういうのが一般的なじゃないかしら? 
    〈それ〉は他者と自己とによって相互主観的に生み出されているもの、っていうこと。だとしてもこれは私にうちの出来事であることは確かだと思う。

    あと、「直観」っていうの、どうしよっかな〜、って考えてるんだけど、後で。

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