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■12239 / inTopicNo.73)  Re[27]: 神話
  
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/28(Wed) 19:28:07)
    わたし最近「ギリシア神話」にはまってる。なんかおもしろ〜。
    神話って、いわゆる「宗教」にかかわってる気がするし、世界の成り立ち、宇宙の発生、ヒトの発生、種の起源にもかかわってくる。
    ん?科学者が言ってることを鵜呑みにしちゃったりしてる〜?

    当然ユダヤ教、キリスト教、イスラム教っていう、モーセ、キリスト、ムハンマドっていう人たちが”教え”ようとしてることともかかわってくる。

    でもこういうのについて物語るの、読み終わてからにしよっと。

    で、(fd-1)にもどりま〜す。




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■12229 / inTopicNo.74)  Re[26]: 緊急事態宣言
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/27(Tue) 21:24:09)
    なんか「緊急事態宣言」っていうの日本政府がある地域にだしたみたいじゃん?
    「緊急」っていう「自体」ってどういうことなのかしらね?

    政治家さんがそうせざるをえない状況になったのは、どのような人たちによってなのかしらね?

    ん〜ん、そうね、「欲望」が問題ね。
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■12187 / inTopicNo.75)  Re[25]: キアスム
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/25(Sun) 19:45:32)
    「現象学事典」からの書き写しで〜す。

    キアスム [(仏)chiasme]
    《後期メルロ=ポンティ存在論の主要概念。もともと(交叉)(chiasma)は神経の交差を、交差配列(chiasme)は対照的語句の順序を逆にすることを指す修辞上の用語であり、メルロ=ポンティはヴァレリーの用いた〈交叉〉(chiasma)に着想を得たものと思われるが、『見えるものと見えないもの』では、「あらかじめ統一されているもろもろのまとまりを、差異化しながら裏と表のように結びつけいく」こととされている。したがって、〈転換可能性〉〈絡み合い〉〈相互内属〉(Ineinander)と並行して用いられる。晩年のメルロ=ポンティは、精神と身体、私と他者、対自と即自の否定的な対立を乗り越える存在論をもくろんでいたわけであるが、その基本的な仕組みを、根源的に現前するものと根源的に現前しえないもの地平的な関連に求めている。フッサールの〈自己移入〉〈相互内属〉に示唆を受けたこの視点を展開しながら、メルロ=ポンティは、「すべての知覚が反知覚によって裏打ちされており」、「語ることー聴くこと」「見ること―見られること」「知覚することー知覚されること」「能動―受動」が円環的な関係を保ち、「存在を捉える働きが同時にその存在に捉えられること」でもあるような論理を表明している。それは同一性の論理でも非同一性の理論でもなく、二重化された存在の両項が「互いに他のまわりをめぐる内と外」であるような同一性と二重性が同時に実現されているような論理なのである。
    具体的には、触れるものが同時に触れられるものでもあるという、身体のある種の反省のような、感じるものの再帰的な在り方に対して用いられるが、〈蚕食〉(empietement)を通じての他者との間身体的関係、過去と現在の相互内属、加工された物質と人間の絡み合いといった事態にも交叉配列の理論は看守されている。交叉配列の概念は、〈同じもの〉と共存不可能であるがゆえに従来否定的に捉えられてきた〈他のもの〉を、根源的な知覚の地平の無限の開けのうちに捉えなおすと同時に、根源的な知覚的現前を根源的に現前しないものへと開くものであると言えよう。精神と自然、主観と客観、私と他者、私と世界の間には、否定の否定としての止揚の論理ではなく、「同じものとは、他のものとは、他のものであり」「同一性とは差異の差異である」という差異化の論理が働いているのである。交叉配列は単なる同化関係として捉えられるべきではなく、「私の世界と他人の世界とのそれのようなさまざまな共立不可能性を通してその統一を形づくっている世界」にわれわれは所属することを可能にしているものとして捉えられねばならない。その意味で〈交叉〉、〈交叉配列〉の概念は「共存不可能なものの統一」という〈見えるもの〉と〈見えないもの〉の根本的な関係を表しているのである。》

    なんかこういうのって、DNAの2鎖の塩基結合の在り様にも似てる気がしてる。

    ひとまず、受動(感性)的領域と能動(知性)的領域がキアスムしてる領域がある、って見ておくことにする。
    ん〜ん、キアスム領域は存在する、かな。

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■12186 / inTopicNo.76)  Re[24]: 相互連携領域
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/25(Sun) 19:43:40)
    分節したものの相互連携領域

    NNo11875の(fd-1)のなかに《能動性の最低段階》とか《受動的総合と能動的総合の境界線》とか《低次の能動的総合》っていうのがある。
    No11974 でちょっと触れたけど、わたしこれをこう見てる。
    意識をゲシュタルトとして見るっていうことは、分節された諸領分は相互連携してる、って見ることになる。
    受動(感性)的領域と能動(知性)的領域は、ただ隣接しているっていうことじゃなくて、重なっている領域があるって見てる。ん〜ん、重なり合う、っていうよりキアスムかな?

    つぎに「キアスム」について見て見ま〜す。

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■12166 / inTopicNo.77)  Re[23]: 記憶
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/25(Sun) 17:07:47)
    意識(精神)の分節において、「記憶」っていうのを忘れてた。
    No12059のまとめのなかに記憶を入れとく。

    受動的総合 = 感性 ←感覚・知覚・統覚・記憶
    能動的総合 = 知性 ←思・考・統握・記憶

    記憶は受動(感性)的総合と能動(知性)的総合の両方にまたがってる、ってしとく。

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■12165 / inTopicNo.78)  Re[22]: 神さま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/25(Sun) 17:04:09)
    今日、本2冊買ってきちゃった。

    『ギリシア神話』串田孫一んさんのと、『24の「神話」からよむ宗教』中村圭志さんの。
    わたし「神話」に触発されて、っていう感じかな。

    デュオニソスとかアポロンって、ギリシア神話の神の名前よね。

    昔からいたるところに「神話」っていうのあったみたい。
    いまでも神仏を信仰している人いるみたいだし。
    あ、勘違いしないでね。わたし「信仰」って、真偽善悪を判断するっていうこととは違う次元の物語りって思ってる。だから、どのような神を信仰するかはお好きにね、っていうこと。

    わたしが知りたいと思ってるのはね、
    「どうして人間は〈神〉のようなものを創造したのかしら?」
    っていうこと。
    もしなんか見つかったら、後で物語りさせてもらうね。

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■12138 / inTopicNo.79)  Re[21]: キネステーゼ
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/24(Sat) 18:27:14)
    (fd-1)に関してのつづきね。

    《キネステーゼ》っていう用語につて。
    「現象学事典」からのを書き写してみま〜す。

    キネステーゼ[〔独〕Kinasthese]
    《「キネステーゼ」は、ギリシャ語のキネーシス〔運動〕(κίνησις)とアイステーシス〔感覚〕(αΐσθησις)とから合成された述語で、それを直訳してドイツ語でBewegungsempfindungと表示されることもある。フッサールでは、1907年のいわゆる「物」講義(『物と空間』)や『受動的綜合の分析』、『危機』などで論じられているもので、通常その言葉から想像されるような「運動の感覚」を意味するのではなくて、むしろ運動と感覚との不可分な結合、ないしは運動としての知覚を意味する。‥‥
    感覚と運動の不可分の統一態が「キネステーゼ」と呼ばれるものである。そしてその上で次のように言われる。「連続的な知覚においては、一つの物が、直接的な現前という端的な存在確信のうちで私に対して立ち現われている。すなわち、私が、自分の運動感覚を働かせながら、ともに経過するさまざまの呈示を、ともに帰属しあうものとして体験するとき、多様な仕方で自分を呈示する一つの物が顕在的に現前しているという意識が維持される。この物のさまざまな呈示は変移するキネステーゼに帰属している…。顕在的なキネステーゼはキネステーゼ的能力の体系のうちにあるのであるが、この体系には一律調和的に帰属しあう可能的諸契機の体系が相関しているのである。そしてこれが現前している事物をめぐるあらゆる存在確信の志向的背景をなす。」と。
    ここでキネステーゼ的能力と言われるのは、身体そのもののもつ構成機能のことである。身体は一方で、その各部分肢が感覚の器官として機能しているわけであるが、他方でそれはいるも「ここ」という位置においてある現出空間の絶対的原点であり、「方向づけの零点」でもある。そしてその身体の各部分肢に局所づけられた感覚が、その身体の変移する位置と連動しながら、物の現出過程を織りなしていく。言いかえると、物の現出の連続的連関と、キネステーゼ的に機能する身体性とが一つに結びついて、物の現出を「キネステーゼ的に動機づけている」わけである。この過程は一方で、主体での方向で、私がいまここにいるという「全体的ここ」の意識として「私は動く」「私はなす」という自己意識を発生させるとともに、他方では、対象への方向で、その相関者としてキネステーゼ的な領野を「自然の基底」として構成してゆく。こうした身体の根源的機能としてのキネステーゼ的意識は、あらゆる物の経験において、その存在確信の基盤として、いつもすでに世界意識と一体となって働きだしているものである。このようにして物の構成につねに居合わせている、それ自身は主題化されることのないこの構成する身体は、「みずからを呈示することなく呈示を可能にする」ものであって、その意味でまさに「根元的身体」として、われわれの経験の「大地」をなすものであると言ってよい。
    なみに、こうしたフッサールのキネステーゼ論を背景に、さまざまの知覚障害・運動障害の事例を引きながら、感受性(sensibillite)と運動性(motricte)との根源的な連繋関係ならびに「方向づけられた空間」を分析し、そこから身体を世界に対する実践的能力として捉え返したのは、『知覚の現象学』第1部のメルロ=ポンティである。》

    これについてもまた後で見てゆくことにしま〜す。




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■12118 / inTopicNo.80)  Re[20]: 内的時間意識
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/23(Fri) 20:38:26)
    わたしのお話しのつづきは、
    No11875の(fd-1)についてね。
    《普遍的総合の根本形式はすべてを包括する内的時間意識である》って書いてある。《普遍的》っていうのはエポケーしといて、《内的時間意識》についてね。

    (FD)の訳注より、
    《Retention:「未来予持(Protention)」と対になって使われる。それぞれ、re-(後ろに)とpro-(前に)に、In-tention(志向)のtention(緊張、張られていること)をつけた造語。過去を主題的に振り返る「想起」、未来を主題的に見通す「予期」に対して、過去把持と未来予持は、時間的幅を持った現在の地平をなす、「たったいま」過ぎ去ったものを「まだ」保持する、あるいは、「いますぐに」来らんとするものを「もう」先取りする、非主題的な働きを指している。その意味で、原語には「過去」や「未来」という語は含まれていないことに注意。》

    「現象学事典」より、
    過去把持/未来予持〔把持/予持〕[(独)Retention/Protention (仏)retention/protention]
    《過去把持〔把持〕と未来予持〔予持〕とはともにフッサールの現象学において、もっとも根源的な意識層である時間意識の働きを指す用語であり、彼の初期時間論において当初〈第一次想起〉(primare Erinnerung=新鮮な想起=frische Erinnerung)、〈第一次予期〉(primare Erwartung)と呼ばれていたものが、それぞれ 過去把持〔把持〕、未来予持〔予持〕言い換えられ多用されるようになったという経緯を持つ。本項では、以下、慣用にしたがって 過去把持、未来予持の訳語を用いるが、言語には過去あるいは未来を表す語は入っていないことに注意すべきである。
     〈過去把持〉とは、あらゆる存在の源泉である〈原印象〉(Urimpression)において産出されて〈今〉として意識されたものを、次の瞬間、なおも、〈たった今過ぎ去った〉ものとして己の内に保持する意識の働きであり、原印象という核に対する「彗星の尾」にたとえられる。
    〈未来予持〉とは、〈まさに到来しつつあるもの〉を待ち受ける意識の働きである。
    意識の現在は、これら原印象を中核とする〈過去把持―原印象―未来予持〉による時間意識の総合の働きによって構成され、それによって瞬間的な点的〈今〉ではなく時間的幅を持った〈今〉が意識され、意識の現在に〈以前〉と〈以後〉の地平が形成されるのである。ところで、未来予持は待ち受けていたものが原印象において産出されれば次々に充実されていくが、他方、原印象は別の新たな原印象が絶えず出現してくることによって過去把持へ、さらに過去把持の過去把持へと変様して連続体を成し、次第に消失していく。しかもフッサールによれば、未来予持は裏返しにされた過去把持であり、やはり連続体を成すとされているから、かくして意識は形式上、そのつどの原印象を境にして未来予持と過去保持とが連続体を形成し、その全体が原印象の絶えざる出現とともに一つの〈流れ〉を形成している、と考えられるのである。
     初期時間論においては、時間の起源を想像の領域に求めたブレンターノの根源的連合説や、時間客観の瞬間的な知覚作用を主張したマイノングとの批判的対決を通して、フッサールが〈時間的広がりを持った知覚〉およびそれの〈時間的幅を持った今〉という思想を形成した際に、とりわけ過去把持(第一次想起)の概念が中心的役割を演じた。そこでは過去把持(第一次想起)は時間的客観の十全的知覚を構成する本来的契機として捉えられ、これが〈第二次想起〉としての〈再想起〉に対置され、際立たせられている。つまり再想起(第二次想起)の一構造契機であり、現在化(Gegenwartgung)に属する、とされるのである。
     中期以降のフッサールにおいては、時間意識が受動性の最深の次元に位置づけられていくのに応じて、過去把持と未来予持は、自我の関与なしに受動的かつ連続的に機能する総合の働きとして捉えられるようになる。そしてこのような最も普遍的で根源的な内的時間意識の総合にもとづきつつ、さまざまな段階の意識の総合が発生的に解明されたのである。》

    〈今〉、生の意識の受動(感性)的領域ではこのようなことが起こっている、って、ひとまずしとく。

    長くなちゃったので、これについてはまた後で見てゆくことにしま〜す。

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■12117 / inTopicNo.81)  Re[19]: 神さま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/23(Fri) 20:33:09)
    フィロソフィアの相手を「神さま」ってするの、なんかおもしろそう。

    『エチカ』の、第一部は、神について、で、定義ってあって、

    【1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。】

    なのよ〜。

    え〜!? なんで〜? 神について語ろうとしてるのよね〜、スピノザさん!
    何で「自己原因」を最初にとりあげるの〜? って。

    なんか、ここのテーマに絡まってくる予感なんだけど、これはだいぶ後になるかもしれなし、消滅するかもしれない。

    話の途中になってるところを続けま〜す。


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■12066 / inTopicNo.82)  Re[18]: 神さま
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/21(Wed) 18:55:03)
    田秋さん、こんちは〜

    >基本的に話はかみ合わないと思いますよ<
    は〜い。
    >尤もそのことは承知の上で色々ツッコミを入れてるんでしょうね<
    は〜い。
    でもね、ツッコミっていうより、引き出し、っていう感じかな〜。

    一神教と多神教っていうのがあっって、わたし前者の神を「神」ってして、後者の神を「神さま」ってして区別してる。「神さま」って日本的で、いっぱい神がいる、っていうことね。

    「神」についてのわたしの立場はスピノザ的なのかな。
    もっともわたしの言う神は「神さま」だし、彼の言う神は「神」みたいだから、そこらへんは違うけどね。

    タケノコやツツジは神さまの仕業ね。
    だから田秋さん、神さまのをいっぱい実体験してるのね。
    な〜んか豊っぽい。

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■12062 / inTopicNo.83)  段違い非平行棒?
□投稿者/ 田秋 -(2021/04/20(Tue) 22:08:24)
    あっくまちゃん、こんばんは。

    神さまの存在(実在)が大前提(公理のような最も基本的な仮定)の立場と、自分が神さまを実体験しないとその存在は疑わしいという立場とでは、基本的に話はかみ合わないと思いますよ。尤もそのことは承知の上で色々ツッコミを入れてるんでしょうね^^

    ボクは後者の立場です。でも神さまには気安く人前に出ちゃいけない訳があるんでしょうね。


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■12059 / inTopicNo.84)  Re[16]: わたしの
□投稿者/ 悪魔ちゃん -(2021/04/20(Tue) 20:08:41)
    んでね、わたしの。

    「受動的総合」を「感性」、「能動的総合」を「知性」ってして見てる。

    そして、「感性」は、〈感覚・知覚〉、「知性」は〈思・考〉、ってして見る。

    あと、「統覚」なんだけど、
    No11393で見たように、フッサールによると、統覚は二つの統覚――「低次の」と「高次の」――に分節してる。わたし前者を「統覚Apperzeption」、後者を「統握Auffassung」という語で区別することにした(あ、これ、あくまでもわたしの勝手なやつね)。

    で、簡単にまとめてみると、

    受動的総合 = 感性 ←感覚・知覚・統覚
    能動的総合 = 知性 ←思・考・統握

    ってなる。

    ここにわたし「知性」ってしたけど、狭義の意味での「知性」ね。わたし「知性」って受動的・能動的総合の両方を「知性」と見ることもできる気がしてる。狭義の意味での「知性」っていうのは、〈考える作用〉とか〈真正な判断をもたらすとする認識作用〉、という意味でのね。おそらく(K)に書いてあるカントの『知性〔=悟性〕』っていうのはこういう意味でのだとわたし見てる。メルポンは、デカルトのやカントのことを「主知主義」って呼んでる。おそらくわたしが見ている狭義の意味での知性として「主知主義」ってしてるんだとわたし見てるから、ひとまず「知性」ってしておく。

    No112057の(K)に、『感性によってわたしたちに対象が与えられ、知性によってこの対象が思考されるのである。』ってあるけど、これって、(fd-1)の〔能動的総合はすべて受動的総合を土台にして行われる。〕と重なる気がする。

    いまのところこんなの感じのが、わたしの。

    意識の分節の仕方と分節されたものの意味が、フッサールのと、カントのと、わたしに見えているこのようなものとは、まったく同じものである――すなわち「理解できている」っていう判断――あるいは「一致」――とは必ずしも言い切れない。でもそういうのが一般的なじゃないかしら? 
    〈それ〉は他者と自己とによって相互主観的に生み出されているもの、っていうこと。だとしてもこれは私にうちの出来事であることは確かだと思う。

    あと、「直観」っていうの、どうしよっかな〜、って考えてるんだけど、後で。

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