| 「現象学事典」からの書き写しで〜す。
キアスム [(仏)chiasme] 《後期メルロ=ポンティ存在論の主要概念。もともと(交叉)(chiasma)は神経の交差を、交差配列(chiasme)は対照的語句の順序を逆にすることを指す修辞上の用語であり、メルロ=ポンティはヴァレリーの用いた〈交叉〉(chiasma)に着想を得たものと思われるが、『見えるものと見えないもの』では、「あらかじめ統一されているもろもろのまとまりを、差異化しながら裏と表のように結びつけいく」こととされている。したがって、〈転換可能性〉〈絡み合い〉〈相互内属〉(Ineinander)と並行して用いられる。晩年のメルロ=ポンティは、精神と身体、私と他者、対自と即自の否定的な対立を乗り越える存在論をもくろんでいたわけであるが、その基本的な仕組みを、根源的に現前するものと根源的に現前しえないもの地平的な関連に求めている。フッサールの〈自己移入〉〈相互内属〉に示唆を受けたこの視点を展開しながら、メルロ=ポンティは、「すべての知覚が反知覚によって裏打ちされており」、「語ることー聴くこと」「見ること―見られること」「知覚することー知覚されること」「能動―受動」が円環的な関係を保ち、「存在を捉える働きが同時にその存在に捉えられること」でもあるような論理を表明している。それは同一性の論理でも非同一性の理論でもなく、二重化された存在の両項が「互いに他のまわりをめぐる内と外」であるような同一性と二重性が同時に実現されているような論理なのである。 具体的には、触れるものが同時に触れられるものでもあるという、身体のある種の反省のような、感じるものの再帰的な在り方に対して用いられるが、〈蚕食〉(empietement)を通じての他者との間身体的関係、過去と現在の相互内属、加工された物質と人間の絡み合いといった事態にも交叉配列の理論は看守されている。交叉配列の概念は、〈同じもの〉と共存不可能であるがゆえに従来否定的に捉えられてきた〈他のもの〉を、根源的な知覚の地平の無限の開けのうちに捉えなおすと同時に、根源的な知覚的現前を根源的に現前しないものへと開くものであると言えよう。精神と自然、主観と客観、私と他者、私と世界の間には、否定の否定としての止揚の論理ではなく、「同じものとは、他のものとは、他のものであり」「同一性とは差異の差異である」という差異化の論理が働いているのである。交叉配列は単なる同化関係として捉えられるべきではなく、「私の世界と他人の世界とのそれのようなさまざまな共立不可能性を通してその統一を形づくっている世界」にわれわれは所属することを可能にしているものとして捉えられねばならない。その意味で〈交叉〉、〈交叉配列〉の概念は「共存不可能なものの統一」という〈見えるもの〉と〈見えないもの〉の根本的な関係を表しているのである。》
なんかこういうのって、DNAの2鎖の塩基結合の在り様にも似てる気がしてる。
ひとまず、受動(感性)的領域と能動(知性)的領域がキアスムしてる領域がある、って見ておくことにする。 ん〜ん、キアスム領域は存在する、かな。
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